No.521 ミスった、ガビーン!
そのおぞましい事件は、まだ私が40代後半(ふた昔も前)の、9月某日の1時間目の「古典」の授業の開始直前に起きました。これは、泣く子も黙る恐怖の椅子の物語です。その背筋も凍りつきそうな、驚愕にして戦慄の場として不幸にも選ばれてしまったのは、2年P組でした。そして、その悲喜劇の主役が、この私だったのです。
その日は、朝から既に汗ばむほどでした。2学期に入ったとはいえ、残暑を肌に感じながら、名残の蝉の声に背中を押されるように教室に向かった私です。廊下の途中で、履いていたサンダルの紐が切れるという不吉な予感もなく、教員室で喉を潤したウーロン茶の余韻に浸りながら、おもむろにP組に入って行きました。
私の授業は、「両手は膝の上」「背筋を伸ばす」「目を閉じる」という豪華三点セットの黙想から始まります。私は、教室の隅っこに、さりげなく、何食わぬ顔で置かれてあった椅子に気づきました。しかし、それこそが、悪の権化、凶悪の刃、不幸の巣溜まり、人を阿鼻叫喚の生き地獄に落とし入れる魔の罠でした。私の鋭い嗅覚も、悪魔のささやきの前には全く無力でした。
私は、生徒と一緒に黙想するために、くだんの椅子にドッカリと腰かけました。いや、腰かけたつもりでした。しかし、相撲部屋からお声掛けがあっても少しも不思議ではない当時の私の体重を支えられるだけの余力が、この椅子には残っていませんでした。
ベキッ、メリッと音がしたのと、私の大きなお尻が椅子にめりこんだのは、ほとんど同時でした。幼児が、トイレの便座にお尻が埋まった図の大人バージョンです。もうすぐ50歳に手が届こうかという胡麻塩頭の紳士(?)が、椅子にお尻が挟まるという、奇怪にして哀れで予想すらできない格好を露呈して呆然とする姿を、心静かに想像してごらんあれ。おそらく、読者には、この先どんなに辛い事があったとしても、乗り越えられるだけの勇気が湧いてくることでしょう。
しかし、P組の生徒たちはクールでした。「すわ、一大事!」と数人の生徒たちが駆け寄って「大丈夫ですか?」と優しく助け起こすような感動的なシーンが訪れることもなく、懸命にもがきながらもお尻に椅子をくっつけたまま、ヤドカリよろしく立ち上がった私に、眩しいほどの白い歯を見せました。すっごく愛されていると思いました。
ふと、イギリスのコメディー番組「Mr.Bean」が脳裏を駈けました。ビーン役は、コメディアンにして俳優・脚本家のローワン・アトキンソンで、1955年生まれの今年67歳。ほぼ同い年の私の異名は、まさに「ミスった、ガビーン!」だったのです。