No.824 7年前の伯父さんの三年祭に思う
♪ ど~この誰かは 知~らないけれど~
だ~れもがみ~んな 知~ってい~る~
両子(ふたご)の払(はらい)の 伯父さんは~
メ~グロ~のバイクに 乗~って来る~
疾風のように 現れて~
キャラメルたくさん 置いて行く~
払(は~らい~)の伯父さん 良~い人よ~
敏光伯父さん 好~い人よ~ ♭
「ドッドッドッ!」と存在感ある重厚な音を響かせた目黒の大型バイクに颯爽とまたがり、黒いサングラスをかけ、黒い革ジャンに身を包み、ついでに森永キャラメル10箱も新聞紙に包んで訪問してくれる、それが母方の敏光伯父さんでした。
伯父は、大分県国東市安岐町両子で母の実家を継いでいました。白いコスチュームで身を包み「疾風のように現れて、疾風のように去って行く」月光仮面とは対照的に、黒ずくめの伯父さんは、我々にとってまさにお菓子のプレゼンターとして、カッコイイ「月光仮面」(本家のバイクは、ホンダのドリームC70か?)のオジサンでした。私たちは、感謝の気持ちに替え歌にして大声で歌っていました。
その主題歌の作詞をしたのは、作詞家で有名な川内康範(本名は、潔。1920年~2008年)氏ですが、1958年(昭和33年2月)~1959年(昭和34年7月)にかけてテレビ放映された「月光仮面」の原作と脚本も手がけたそうです。この時、川内氏は38歳~39歳でした。私は、5・6歳でした。白黒テレビに映し出された「正義の味方」の世界に溺れました。
伯父は、田舎の農家に嫁いだ義理の妹である母をいつも気にかけてくれ、思い出したようにバイクで訪問してくれました。私たち子供は、人のために尽くすタイプの伯父さんの正体が「月光仮面」だと信じていました。
年1回、母の里帰りについて行くのが大きな楽しみでした。食事の時間になると、「ワラビ」や「ゼンマイ」の塩漬けの煮物を始めとした田舎料理でもてなし、最後には必ず濃厚な「ぜんざい」がふるまわれました。目が丸くなるようなご馳走でした。伯父さんには口癖があり、
「いっぱい食(た)びー、遠慮すんなえ!」
「よーけ食うち帰れよ!え?もう食えん?いい若えもんのくせに困ったこっちゃのう。」
と判で突いたように何度も言うのです。戦中戦後に食べ物で苦しい思いをした経験を誰一人として味わわせたくないという強い気持ちがありました。私たちは、お腹が痛くなるくらい食べました。そして、腹を下しては泣きました。
いまだに私が太っている(痩せられないでいる)のは、伯父さんのその言葉が忘れられないでいるからかも知れません。そんなことを懐かしく思い出しました。
「人は二度死ぬ。まず死んだ時。次に忘れ去られた時。」
伯父さんを回顧しながら、みんなで「月光仮面」の替え歌を歌いました。これもささやかな孝行になるのでしょうか?
※画像は、クリエイター・短いシカさんの、タイトル「ミンフォト追加しました〜!」をかたじけなくしました。イメージにピッタリの名画像にお礼を申し上げます。