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No.1132 名のある人

今日と明日で「名のある人」「名もなき人」について紹介したいと思います。二日続ける理由は、どこかで繋がるのではないかと思われるからです。
まずは、この話を読んでください。本文の次に、訳をしてみました。

甲斐栗子
栗子(くりこ)は甲斐の国山梨郡の農夫某が妻なり。舅姑(しうとしうとめ)に孝ありてその名高し。然(しかる)に、舅姑も夫も亡(なくし)ける後、山抜(やまぬけ)といふことにあひ、山ぬけといふは、凡山国にある大変にて、堺のいづる類也。大水樋流れ、村ざとほろび人死す。 水に溺れ死す。その時屍を掘出してみれば、十二なる養子を背に負、八つになりける実の子の手を引て有けり。幼きかたをこそ背には負べきに、長じたるを負るは、此時に臨(のぞみ)て遁んとかまふるにも、養子をおもくするの義をおもふなるべし。女といひ辺鄙(へんぴ)の産なり、何のまなぶ所もあるまじきに、天性の美かくのごときは、世に有がたきためしなるべし。さるにおもはざるに災にかゝり、死をよくせざるは悲し。しかはあれど、此災によりて其徳ますますあらはるといふべきか。国人これがために碑を建て事実を記せりとなん。

(『近世畸人伝・続近世畸人伝』東洋文庫202、平凡社、平成47年1月、P32~P34)』)

(訳文)「甲斐の栗子
 栗子は甲斐国山梨郡の農夫某という人の妻で、舅姑に孝養を尽くす名のある人でした。ところが、舅姑も夫も亡くした後のこと、山津波に遭い、溺死しました。その遺骸を掘り起こしてみると、十二歳になる養子を背負い、八歳の実の手を引いて埋もれていました。幼い方を背負うべきなのに、年上の子を背負っていたのは、この災難に遭遇して逃げるときに、義理のある先妻の子を重んじたからです。片田舎の生まれの女性で、なんの学問もなかったでしょうに、このような天性の心の美しさは、めったにない好例でしょう。不慮の災難に遭い、非業の死を迎えたことは悲しいことです。しかし、この災害によって彼女の人徳が益々表れたというべきでしょうか。国人は、栗子のために石碑を建ててこの事実を刻み、遺徳を顕彰したということです。」
 
男の子でも女の子でも12歳と言えば、親が背負うのは大変なことだったでしょう。まして栗子は女性です。想像の域を出ませんが、養子(先妻の子?)が不自由な身だったのかもしれません。ただ、実の子以上に大事に思って取った行動だったことは明白であり、栗子の人となりがしのばれ、称賛したくなるのです。この非常事態で、どちらの子を背負うかと言えば、幼い、実の子の方であろうと思われるからです。
 
この本文が載っている『近世畸人伝』は、京都の文人伴蒿蹊(1733年~1806年)の著した人物奇譚集で、寛政2年(1790年)の刊行です。様々な身分や階層の人々がとりあげられ、淡々とした筆致でまとめられています。
 
さて、甲斐の国の江戸時代の大地震というと、
天明2年(1782年)7月の「天明の大地震」(マグニチュード7,0)
嘉永7年(1854年)11月の「安政東海地震」(マグニチュード8,4)
が挙げられるそうです。『近世畸人伝』は寛政2年(1790年)刊ですから、この栗子のお話は「天明の大地震」の時のことかもしれません。
 
鎌倉時代中期の教訓説話集といわれる『十訓抄』(上・第四の一)に、
「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」
ということが既に書かれています。栗子は、その健気で類まれな愛情の篤さから、永くその名を残しているようです。
 
明日は、もう一つの自然災害のお話です。またお目にかかれれば幸甚です。


※画像は、クリエイター・さっこさんの、「何かを背負いながらそれでも進む鳥さんの様子です。」と説明のある1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。