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No.984 長老のプレゼンテーション!

紀州の有徳院とは、八代将軍・徳川吉宗(1684年~1751年)の法号(戒名)だそうです。

この徳川吉宗が、まだ紀州に在職の頃(1684年~1716年)のお話で、非常に興味深いのが、江戸時代後期に罹れた随筆集『耳袋』(根岸鎮衛著、鈴木棠三編注)巻三「熊野浦鯨突きの事」の記事です。ご一読いただこうと思い、紹介する次第です。

紀州熊野浦は鯨の名産にて鯨寄る事ある所なり。有徳院様いまだ紀州にいらせられ候折から、鯨突きのよう御覧ありたきとて、御成りの折からその事仰せいだされけるに、或日御成りの時、今日鯨寄り候とて、鯨突き御覧あるべき由、浦方より申上げければ、御きげんにて即ち浦方へ入らせられ候処、数百艘の舟に幟(のぼり)を立ておいおいに沖へ漕ぎいで、一のもり、二のもりと、もりを数十本投げてザイ(采配)をあげけるにぞ、「鯨を突き留めたり」と御近習の者も興じけるに、程なく船々にて音頭をとり、唄をうたいて大縄をもって鯨を引寄せけるに、いずれも立寄り見ければ鯨にはあらで古元船にてありし。その村浦の老まかり出で申しけるは、「鯨の寄り候を見うけ、御成りを申上げては、御働き合い一時を争うものにて、とてもそのさまをご覧のようにはなりがたく、これによりて御慰みに鯨の突き方をまなび御覧に入れしなり。まことの鯨にても少しも違い候事はこれなく候」由申上げければ、はなはだ御きげんよろしく御褒美下されけるとなり。右浦長(うらおさ)は才覚の者なりと、紀州出生の老人かたりぬ。

出典:『耳袋1』(東洋文庫207、平凡社、昭和47年3月29日・初版第1刷、P202~P203)

「いい加減にも程がある意訳」をしてみますと、
「紀州和歌山の熊野浦は、鯨で有名な産物があり、鯨が寄って来るところです。有徳院(徳川吉宗)様が、まだ紀州においでであった折に、鯨漁の様子を御覧になりたいと言うことでした。或る日のおいでの時に、『今日は、鯨がやってきます』『鯨漁を御覧ください』ということで、喜んで浦で御覧になると、数百艘の舟に幟を立て、徐々に沖へと漕ぎ出して、鯨に打ち込む一の銛(もり)、二の銛と、銛を数十本も投げて采配を振るった結果、『鯨を仕留めました』と家臣たちも見興じていましたが、間もなくそれぞれの舟から音頭を取り歌を歌い、大縄を使って鯨を浦に引き寄せたので、皆が近づいて見ると、鯨ではなく(ひっくり返った)古舟(の白い腹)でした。海辺の村の老人がやって来て『鯨がやって来るのを見てからご案内を申し上げるのでは、漁師たちの鯨漁は一時を争う大変で危険なものですので、とてもそのような様子を御覧には入れ難く、このような形でお楽しみとして、鯨漁の仕方を御覧いただきました。実際の鯨漁でも、このやり方と少しも違いはございません。』と申し上げたので、(吉宗様は)上機嫌で、ご褒美を下さったとのことです。『先の浦村の長老は、才知があって機転に優れた者です』と、紀州出身の老人が語りました。」
ということにでもなるでしょうか。

藩主の「鯨漁を観たい」との仰せに従わない訳にはいきません。ご期待には添いたいけれども、現実の鯨漁は気を許すことの出来ない命がけの大仕事です。したがって、面白半分に見物するようなものではありません。さて、どうしたものでしょう?そこで考えついた長老の妙案が、素晴らしいですね。今風に言うなら、バーチャル鯨漁のデモンストレーションでしょうか?そして、長老のそのプレゼンテーションにも、私はシビレました。
 
漁師たちの漁を守り、創意と工夫溢れる趣向で藩主に満足の笑みをもたらした、この老人の知恵には、学べるものがありそうに思うのですが、いかがでしょうか?


※画像は、クリエイター・ダラズさんの、タイトル「間近でくじらが見られる」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。
 今も、「4月~9月にかけ、熊野灘にやってくるクジラなどを那智勝浦の近海で目にできる」とネット情報にはありました。