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No.1345 笑っちゃいます!

昨日のコラム、江戸時代末期に成立した雑話集『耳嚢』(耳袋)の続きを読んでいたら、こんな面白いショートショートもありました。本文のままでも十分に意味が伝わると思うので、そのまま書きます。

    長寿の人 狂歌の事
安永のころまで存在ありし増上寺方丈、寿算八九十歳なりし。海老の絵に賛をなし給ふ。 
       この海老の 腰のなりまで いきたくば 食ひをひかへて ひとり寝をせよ
とありしを、小川喜内といへるこれも八十余なりしが、右の賛へ、
  この海老の 腰のなりまで いきにけり 食もひかへず ひとり寝もせず

『耳袋2』(根岸鎮衛著 鈴木棠三編注 東洋文庫208 P107~P108)より

この正反対の狂歌が笑わせますね。
「長生きしたかったら、飲み食いを控え、一人で寝よ。」
と、安永年間(1772年~1781年)の頃まで存命したという増上寺方丈某が「海老」の絵に賛(書画を褒める言葉)を書き、禁欲を勧めたのに対して、
「俺は腰が曲がる程生きたが、飲み食いはしたし、二人寝もしたよ。」
と、小川喜内はうそぶいています。
「健康なんて、気遣わなくたって長生き出来るさ。」
と言わんばかりに某方丈の右側に賛を書いたというのですから、読んだ人々は笑いをこらえきれなかったことでしょう。

確かに、食生活に十分気を配っていた人でも病気にかかることはありますし、暴飲暴食の人でも病気にかからない人もいます。こればかりは身に沿ったものもあるでしょうし、どうしようもありません。ただ、身体を気遣って生きることは自分にしかできないことなので、他人事ならず思っています。

それにしても江戸時代に隆盛を見た「狂歌」(和歌の形式に卑俗滑稽な内容を盛ったもの)ですが、太田南畝(蜀山人 1749年~1823年)の句は、異彩を放っています。中でも、
「世の中に 人の来るこそ うるさけれ とはいふものの お前ではなし」
は秀逸です。残念ながら、この句の出典を知りません。「狂歌集」か何かでしょうか?
 
では、どうしてそれが蜀山人の歌だと分かるかというと、小説家であり随筆家であった内田百閒(1889年~1971年)が、来客が煩わしいと、玄関に貼り紙をしたそうです。人一倍寂しがり屋の彼一流のジョークだと思うのですが、そこには、こう書いてありました。
「世の中に 人の来るこそ うるさけれ とはいふものの お前ではなし」
(蜀山人)
「世の中に 人の来るこそ うれしけれ とはいふものの お前ではなし」
(亭主)
 
来客に対し、「落としておいて、安心させる」蜀山人(太田南畝)と、「安心させておいて、一気に落とす」内田百閒の手法は、その人間性も投影しているようで、なんとも…。
 
このエピソードは、内田百閒『摩阿陀會』(津軽書房、1975年)にあるようですが、黒澤明監督の映画『まあだだよ』(1993年、大映製作、東宝配給)でも登場した有名なシーンです。
 
狂歌とは「社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔の形式の歌」を言うようです。高校時代に習った狂歌2首は今も覚えています。
「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
白河は松平定信の領地を言うようですが、定信の厳しかった「寛政の改革」(1787年~1793年)の時の狂歌だそうです。その厳格な取り締まりに比べれば、賄賂政治や裏工作に励んだ田沼意次の時代の政治の方がまだよかったと批判し皮肉を言っているのだと教えられました。
 
「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」
1853年(嘉永6年)6月、ペリー率いる軍艦(黒船)来航の折の狂歌です。「上喜撰」は緑茶の銘柄で「喜撰」の上物の意味だそうです。この「上喜撰」と「蒸気船」を掛け、お茶の「四杯」と船の「四杯」(四隻)も掛けて当時の騒乱の様を揶揄したのだと聴きました。
 
うちの母は、晩年のことですが、
「『世の中に 寝るほど楽は なかりけり 浮世の馬鹿が 起きて働く』ちゅうなあ。そげな生き方が、でくりゃいいけんど、できんわなあ!」
と何度か言いました。
「まともに働きなさい。真面目に励みなさいよ。」
と言いたかったのだろうと思います。田舎のハーちゃん(晴子さん)でしたが、そんな事を言って驚かせました。よほど羨ましく思って覚えたのでしょうか?あれも、江戸時代の狂歌でした。
 
小学生の孫たちの家族が少し早めに帰省してくれ、お盆の途中に帰って行きました。
孫帰る名残なりけり寂しげなトイレの貼り紙「コンコンしてね!」