No.1056 鑿と槌
修学旅行に参加しなかった(出来なかった)生徒7名と一緒に、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』(1919年=大正8年)全文を輪読しました。大分県中津市本耶馬溪町にある「青の洞門」誕生のヒューマン物語を、是非とも知っておいてほしかったからです。
主人公の市九郎は、禅海(1661年~1774年)という江戸時代中期の曹洞宗の僧侶がモデルです。以下、あんまりすぎる粗筋ですが、ちょっとだけお付き合いください。
越後国柏崎生まれの市九郎は、江戸の旗本・中川三郎兵衛の愛妾・お弓と密通し、逆上した三郎兵衛に手討ちされそうになりましたが、主人を斬ってしまう羽目になりました。
その後、二人は江戸から逃れ、東山道の鳥居峠で茶屋を開きますが、美人局(つつもたせ)や泥棒や殺人まで犯して金品を巻き上げる残忍な稼業に身を堕としていました。
3年が経った春に、市九郎はお弓の指示で、茶屋に寄った夫婦を手に掛けてしまいます。しかも、お弓は殺した女が身につけていた櫛や簪や笄まで奪おうとします。そんなお弓に愛想が尽きた市九郎はお弓を捨て、美濃国の大垣にある浄願寺で自分の悪行を悔い改め、出家して了海と命名し、滅罪の為に全国行脚の旅に出ました。
旅の道中で、了海(市九郎)は、豊前国、山国谷(現、耶馬渓)の絶壁にある鎖渡しという難所で、地元の馬子が滑落して死んだ姿を目の当たりにします。聴けば、年に何人もの犠牲者が出ると言います。そこで、この山に穴を掘り、命を落とす者たちを救おうという誓願を立てるのです。
ところが、穴を掘り始めて19年が経ち、トンネルの完成も間近となった頃、思いもよらぬ人物が了海のもとにやってきました。かつて市九郎が手に掛けた中川三郎兵衛の息子・実之助でした。父の仇討の為に諸国を捜し歩き、復讐のため聞き及んでやってきたのです。
了海は、すぐにでも討たれることを申し出ますが、共に働いていた石工の頭領から、仇討ちをトンネルの完成まで待って欲しいと懇願され、実之助はしぶしぶ承諾します。
いつの間にか、自分も了海と共に鑿を持ち槌を振るううちに、実之助は了海の中にある菩薩の心を目の当たりにし、次第に大願を果たす感動を分かち合い、自らも鑿を握り槌を振るうようになるのです。
穴を掘り始めて21年目、遂に洞門(トンネル)は完成しました。了海は約束通り実之助に自らを討たせようとしましたが、仇討ちの心を捨てた実之助は、了海の姿に感動して復讐者の想いを踏みとどまるのでした。(終わり)
「恩讐の彼方に」とは、「情けや恨みという感情を超えたその先に」という意味でしょうか?罪を犯した後悔を抱き続けながら罪業の償いの為に鑿と槌を振るって生きる了海(市九郎)が、積年の恨みの募っていたはずの実之助と、互いに手を取り合うことで「赦し」が生まれ、心が「救われた」物語なのかなと思いました。
史実としての禅海は、「鎖渡し」で通行人が命を落とすのを目撃して安全な道をつくるため、1735年(享保20年)から鑿と槌をふるい、自ら托鉢により資金を集め、雇った石工たちとともに掘り続け、30年余り経った1764年(明和元年)に、全長342m(トンネル部分は144m)の洞門を完成したと言われています。
生徒たちには、難しい漢語もあって言いよどむこともありましたが、話の流れを興味深く感じたようで、大変好評でした。私たち残留組は、2時間番組でしたが、250年前の青の洞門誕生の物語世界への旅を読書ですることが出来ました。楽しい時間でした。
『恩讐の彼方に』は青空文庫で読むことが出来ます。短くて展開も面白く読みやすい小説です。どうぞ全文をお読みくださり、九州においでの折には、中津の「青の洞門」にもお立ち寄りいただければ、一層有り難く存じます。