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No.573 今から800年も前の建礼門院右京大夫の七夕の歌から

今日は七夕です(もっとも、陰暦の七月七日は、約1カ月遅れです)。早くも6月中に梅雨明けしてしまった九州ですが、天の川や牽牛・織女両星を見る事はできるでしょうか?
 
平安時代末期に建礼門院(平徳子)に仕えた右京大夫(生没年未詳)という女房は、平資盛(平清盛の孫、平重盛の次男)を恋人に持ちましたが、1185年3月24日の壇ノ浦の合戦で平家は滅亡し、資盛(25歳~28歳)も海の藻屑となりました。彼女は、再出仕もしていますが、資盛の供養と追慕にその身を捧げています。
 
建礼門院右京大夫のことを「星夜賛美の女性歌人」と評したのは新村出(1876年~1967年)で、その著『南蛮更紗』(大正13年、改造社、P236~P246)に紹介されています。
251番「月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬる」

さらに、彼女の残した『建礼門院右京大夫集』という日記的歌集には、全361首のうち51首(271番~321番)もの七夕歌群があり、個人歌集として異彩を放っており、彼女の特別な思いが籠められています。
 
271番「七夕のけふやうれしさ包むらんあすの袖こそかねて知らるれ」
(再会を喜ぶ一方で、明日は別れの涙で袖を濡らす事が思われるのです)

277番「聞かばやなふたつの星の物語りたらひの水にうつらましかば」
(盥の水に二星を映して七夕世界を閉じ込めロマンを楽しんだのでしょう)

281番「彦星の行き合ひの空をながめても待つこともなきわれぞかなしき」
(明らかに恋人資盛が、今は亡き人となってしまったことを推測させます)
 
292番「なにごともかはりはてぬる世の中に契りたがはぬ星合の空」
(貴族の世から武士の世へ。自然の悠久さ人の世の儚さを感じさせます)

297番「うらやまし恋にたへたる星なれやとしに一夜と契る心は」
(羨ましいという感情を隠さない言葉は彼女の人生の悲しみが伝えます)
 
307番「秋ごと別れしころと思ひ出づる心のうちを星は見るらむ」
(1183年の7月下旬、平家は西海へ落ちのび、恋人資盛も出発して行きました)

313番「かたばかり書きて手向くるうたかたをふたつの星のいかが見るらん」
(儚い人生を書き続けるこんな私を牽牛・織女星はどう思って見ることか)

 319番「たぐひなきなげきに沈む人ぞとてこの言の葉を星やいとはん」
(こんな類のない悲嘆にくれる私の歌をさぞ両星は迷惑に思う事でしょう)

321番「いつまでか七つのうたを書きつけむ知らばやつげよ天の彦星」
(いつまでも死にもせず託ちてばかりいる自分自身に対する深い歎きが知られます)

そんな彼女は、建礼門院に仕えた宮廷時代(平資盛と出逢い、交わった頃)が終生忘れられなかったようです。後年、彼女は後鳥羽院時代にも女房として出仕し、別の召名(後鳥羽院右京大夫?)を持っていたようです。ある日、藤原定家が『新勅撰和歌集』の資料として右京大夫に家集の提出を求めました。「どちらのお名前で歌を載せたいと思いますか?」の定家からの問いに彼女は歌で返答しています。
358番「言の葉のもし世に散らばしのばしき昔の名こそとめまほしけれ」
 
 その「しのばしき昔の名」こそ「建礼門院右京大夫」の呼び名でした。右京大夫の歌は、『新勅撰和歌集』以下の勅撰集に23首が入集されていますが、「歌詠み」と呼ばれるほどの歌人ではないことが、その素直な歌いぶりの歌から察せられます。「わが目一つに見ん」と思って書き綴った家の集(個人歌集)でした。
 
しかし、源平の合戦で最愛の恋人を亡くしたという悲劇体験は、太平洋戦争で兄弟を、恋人を、夫を亡くした多くの人々から共感を受け、読み継がれて行きました。個人の枠を超えて、後の世の人々の心深くに沁み込み、その魂が救いとなって行こうとは、夢にも思わなかったに違いありません。

七夕歌は、時を越えて今も人々の心に生きています。今夜は、星空が見られるとよいですね。
 
「七夕にまことの情を尋ね見よ」正岡子規