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No.797 梅に鶯なればこそ

京都御所の南殿の庭には「右近の桜、左近の橘」がありますが、その昔は、桜ではなく梅だったといいます。『大鏡』中で夏山繁樹が語った「鶯宿梅」のお話でそれと知られます。訳してみると、だいたいこんな内容です。
 
「たいそう興味がひかれ感慨深くございましたのは、この村上天皇の御代に、清涼殿の御前の庭の梅の木が枯れてしまったので、代わりの木を探し求めになりましたところ、某さんが蔵人でいらっしゃった頃、帝の命を受け、その人が私に、
『若い者では、木の良し悪しを見ても分かるまい。お前が探して来い。』
とおっしゃったので、都中あちこち歩き回りましたが、ございませんでした。しかし、西の京のどこそこにある家に、色濃く咲いた木で姿形の立派な梅の木がございましたので掘り取ったところ、その家の主人が、
『これを木に結びつけて、帝に差し上げてください。』
と召し使いに言わせなさったので、何か訳があるのだろうと思って、内裏に持参して傍に控え、申しあげたところ、
『何じゃ?』
と言って帝がご覧になったところ、女の筆跡で歌が書いてありました。
『勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ』
(勅命ですからまことに畏れ多いことでございます。この木は差しあげますが、もし、鶯が、『私の宿は、どこ?』と尋ねたなら、どう答えたらよろしゅうございましょう。)
とあったので、帝が不思議にお思いになり、
『何者の家か。』
と命じて調べさせたところ、紀貫之の娘(紀内侍)の住む家でした。帝は、
『残念な振る舞いをしたものじゃ。』
と、きまり悪く申し訳なく思っていらっしゃいましたよ。この繁樹の一生の恥辱は、これでございましたでしょうか。とは言うものの、
『思いどおりの木を持参してくれた。』
とおっしゃって、ご褒美の衣を頂戴したのですが、却ってつらくなってしまいました。」と言って、にこやかに笑う。

紫宸殿の左右には左近衛府と右近衛府という衛兵の役所があったことから左近、右近と呼ばれるそうです。紫宸殿に向かって右手にあるのに「左近の桜」というのは、天皇の御座所からみて左側にある桜ということ。右京・左京と同じ見方なのでしょう。

では、大鏡では「左近の梅」だったものが、いつごろ「左近の桜」になったのでしょうか?『古事談』という中世に成立した説話集の中に、
「南殿の桜の樹は、もとはこれ梅の樹なり。桓武天皇、遷都の時、植ゑらるるところなり。しかるに承和年中に及びて枯失せにけり。よって仁明天皇、改めて植ゑられけるなり。」
とあるのだそうです。
 
桓武天皇(737年~806年、在位781年~806年)の時に植えた梅の木が、承和年中(834年~848年)の仁明天皇(810年~850年、在位833年~850)の時代に枯れたので、桜に植え替えられたらしいことが知られます。平安時代初期の頃の事だったようです。
 
紀貫之の娘(紀内侍)から帝に託された和歌、
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」
は、流石と思わせる紀内侍の機転の素晴らしさと、お上(村上天皇)に対するやんわりとした批判、そして、和歌の効用などがいかんなく発揮されており、この時期になると思い出す歌です。

村上天皇(926年~967年、在位946年~967年)の頃から、すでに1050年以上が経ちます。名歌は1000年の時を超えても生き続ける命があります。
 
「鶯や文字も知らずに歌心」
 高浜虚子(1874年~1959年)
「ホーホケキョ」の歌声が聞こえて来るようです。

※画像は、クリエイター・あいまるさんの、タイトル「色鉛筆画 〜 Beautiful days 〜」をかたじけなくしました。今日のお話を彷彿とする「梅に鶯」です。お礼申します。