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No.493 声はすれども姿は見えず…

『山家鳥中歌』は江戸時代中期の民謡集だそうです。天中原(あめのなかはら)長常南山の編。1772年(明和9年)に刊行され、全国68か国の民謡約400首を集め、国別にまとめたといいます。

 その「和泉」の項に、
「声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす」
というのがあります。男の訪れを待つ切ない女心を詠んだものだと言われています。我々も時に言うことのある「声はすれども姿は見えぬ」の出典は、250年前のこれだったのでしょうか?

 数日前の事です。鳴き音が日に日に上達している鶯の声を裏の雑木林に聞きながら、相棒のチョコと散歩していたら、民家の植え込みの中から別の鳥の鳴き声が聞こえました。

「スーピー」とも「ツーピー」とも聞こえます。単体で鳴いていましたが、澄んだ声の名調子です。大きな樹木の枝葉に隠れているのか、鳴き声の主を見ることができません。まさに「声はすれども姿は見えぬ」でした。気になったのでスマホで調べたら、「シジュウカラ」だと分かりました。へー、あんな鳴き声だったのかと、この年になって知った次第です。

 平安時代には「シジウカラメ」と呼ばれていたものが、室町時代から「シジウカラ」と略称されたという説もありましたが、姿が似ていたので「シジウ」に「四十」を当て、更に「五十」としたのかも知れません。『図説 鳥名の由来辞典』(菅原浩、柿沢亮三著)には、
「むかしは四十歳で初老、五十歳で老人であったので、ゴジュウカラの青みがかったグレーの羽を老人に見立てたことから」
という説明がなされているそうです。その色目での命名だったということでしょうか。

 では、「四十雀(シジュウカラ)」が「ツーピー」なら、「五十雀(ゴジュウカラ)」の聞きなしはどうかと思って、調べたら、
「フィー、フィー、フィー、フィー」
と鳴いており、まったく似ていませんでした。スマホは便利な「携帯辞典」です。

 ところで、切ない女の恋心も一気に興醒めしそうなこんな変形もあります。「声はすれども姿は見えぬ ほんにお前は屁のような 」
という狂歌(都々逸)は、講談や落語の中で使われ、庶民に浸透して今日まで生き延びて来ました。見立ての上手さに思わず唸ってしまう私の精神構造はさておき、真理は意外に身近なところにあるんだなというお手本のような歌です。

 散歩で、なんだか新鮮な空気が、頭の中にも流れました。