推しが改悪されていて辛い悲しいという話について
先日わたしのTwitterのタイムラインに、このような記事が流れてきた。かなりの数のRTがされていたため、目にした方も多いかもしれない。
とあるジャンルのとあるキャラクターのファンであるAさんが、キャラの二次設定を公式のように言いふらす輩のせいで苦しい思いをしているのだそうだ。哀れな話である。俗にいう「地雷」というものに苦しめられ、リクエストでもその「二次設定のそこそこ支持のあるキャラ付けをお願いします」と言われて辟易してしまったのだそうだ。そこまでは、哀れな話なのである。
その記事には同情や憐憫の目は向けれども、しかしながら共感できない点があった。それは、記事の作者が自分の好まない二次設定を軒並み「改悪」「狂人」「アイスクリームに砂糖でもミントでもなくタバスコぶっかけるオタク」と、さんざんに解釈違いの設定を異物だとこき下ろしている点である。正直な話、徒然草の「この木無からましかばとおぼえしか」という部分を強烈に想起させるものだった。ほんとうに、そこさえなければ「わかる。辛いよね」とだけなる話なのだ。
気に入らない二次設定を軒並み「改悪」呼ばわりはいかがなものだろうか?
わたしはほんの少しだけだが、その記事のジャンルで文章を書いたり、下手の横好きで絵をちらほらと描いたりすることがあった。当然、(おそらく)彼女の推しのキャラクター性も知っている。公式のものをだ。
そして同様に二次設定で腹黒やサイコパス属性を付与されていることも知っている。それらはそれを好ましいと思う人の中で膨らみ、愛でられていく設定であろう。
しかしながら、そういった二次設定を付与されている彼の出てくる作品を、たとえば投稿サイトで見かけたとしよう。キャプションにはおおむねこのような注意書きがある。「閲覧は自己責任」「こういった要素を含みます。苦手な方はご遠慮ください」
そういった二次設定を好むほとんどの人は、このようにして「好きな人だけが見られる計らい」もっと簡潔に言うならば「自衛」をしているように思う。要するに「自分たちの好きなものを自分たちだけで愛でるからお前はわざわざ見に来るな」というやつだ。多少とげとげしいかもしれない。しかし、世の中には自衛をしているのにわざわざ地雷を踏みに行き、怪我して悲鳴をあげる迷惑な輩もいる。そんな厄介さんにあたることもあるが、おおむね二次設定でキャラ改変が含まれるのならばその界隈の人々は自衛をしているのだ。
しかしすべてではない。痛い言動をしてしまい、なかなか大きな支持を得ている二次設定を、他者に対して強要するような無礼な輩もいるのだ。彼女が体験したものはおそらくこれだろう。アイドルグループや、配信者や歌い手のファンのようなもので「一人迷惑なやつがいると界隈全体がそう見える」というような状態なのである。
つまり、その二次設定を愛している人たちがみんな「サイコパス○○くんが公式!」などとは言っていないのだ。一部の人が言っているかもしれない、ただ界隈全体がそうというわけではない。
で、くだんの彼女はというと、この状態に「1万を超えるオタクの軍勢が彼のキャラクター像(性格)を認識できていない」と面白くなさそうな様子である。
そうではない。彼のキャラクター像を認識していないはずがない。100人いたら多分96人くらいはキャラクター像を認識したうえで、彼にそれらの設定を付与しているのだ。そして愛でている。
そしてなぜだかわからないが彼女の言う「ヤンデレサイコパス○○くんが公式!」というようなツイートは一度も見たことがない。それはわたしの視野狭窄かもしれないが、本当に見たことがない。
仮に見たとしても本当の○○くんの設定を知っているのなら「ハイハイ」と済ませてしまいそうな気がする。彼のことは好ましい。好ましいが、これが推しているかそうでないかで許されるラインなのだろうか……
自分の好ましくない二次設定を悪とするのはまったく無礼な話なのである。二次創作とは原作への愛情はもちろんだが、その原作にたいするあまたの解釈、あるいは嗜好に対して原作者でも何でもない私たちが「これは善」「あれは悪」と決めるようなものではないからだ。
公式に迷惑がかかるならそれは悪であろう。
しかし、「たかが」といって申し訳ないが、たかが個人の解釈の話である。
個人の嗜好の話である。
それを「改悪」「狂人」「カルト」と言うのはあまりにも幼稚な思想なのではないか?
アイスクリームにタバスコをかけることを悪だという権利がいちファンにあるとでも?
例えば学パロが嫌いだとする。では学パロは悪なのか?絶対に違う。悪なのではない、ただわたしが嫌いなだけなのだ。学パロには罪はないし、年齢をいじり先生と生徒へ改変してもそれは悪ではない。そういう楽しみ方なのだ。
「年齢も設定も変更してこれはオリキャラ。もうジャンルじゃないし、キャラはキャラじゃないし読まない」
これも別に問題ではない。読まないのは個人の勝手だ。
「学パロは改悪」
ちょっとよくわからない。眠った方がいいのでは?
食べ物でたとえると、私は寿司が嫌いだ。では寿司は悪で寿司を好む人は悪か?
絶対に違う。
往々にして好き嫌いと善悪をはき違えるとろくなことにならないのである。最初は好き嫌いで話を進めていたと思ったら、いつのまにか善悪の話にすり替わっているのである。
この話、本当にわかりやすく言うと「嫌いな二次設定が支持されていて面白くない」それだけのように思える。
もちろん彼女は哀れである。少数の痛いファンにつっかかられて、地雷設定をリクエストされるなどお疲れ様と言いたい、ただ、他者の好むものを悪とする時点で二次創作には不向きなのではないかと思う。
好きになれとはもちろん言わない、嫌いは嫌いでいいのだ
ただ嫌いな物には不干渉の立場をとる必要がある。自衛しきれないのは重々承知だ。自分の精神の保護と同様に、向こう側を攻撃するようなことも言うべきではない。
自分と違う解釈が好きな人に対し「改悪」などと決して言えない。ファンアートをしているならば、そこも理解してほしいように思う。
記事はとても「わかるなあ」と思うような部分が多かった。
もしも「改悪」ではなく「改変」と言い換えてくれていたならば。
そうしたらもっと賛同が得られていたはずなのに。
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