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サイケデリック・マニュアルの可能性

サイケデリック・マニュアルの可能性   おきひかる
              (『マリファナX』第三書館刊 1995年)

 ティモシー・リアリーらは『チベットの死者の書』を、肉体の死後に魂を導くための書物としてではなく、「自我の死と再生」をガイドする書物と解釈し、サイケデリック体験のマニュアルとして活用した。最近、そのマニュアル本が日本語に翻訳され(邦訳『チベットの死者の書~サイケデリック・バージョン~』)私も興味深く読んだ。
 この書を通して、私はリアリーらの先駆的な役割を再確認する思いだった(彼らの探求は主として一九六〇年代のものであり、この書の初版は六四年に刊行されている)。
 ただそれと同時に、この一九九〇年代の日本に暮らすわれわれが、今さらながらにリアリーらのヴィジョンに「追随」しようという風潮には、少なからぬ違和感を覚えてしまったことも確かである。
「『チベットの死者の書』をサイケデリック体験のマニュアルとする場合の問題点はどのような所にあるのか」あるいは「そもそもサイケデリック体験にマニュアルは可能なのか」といった点について、若干の私見を述べてみたい。

『チベットの死者の書』の出自

 まずチベット仏教の経典とされている『チベットの死者の書』の原典について検討しよう。
 この書は一九二七年、イーヴァンス・ウエンツによって英訳され、欧米社会にもたらされた。その後、深層心理学者のユングにも注目され、さらにリアリーらの紹介により、ヒッピーたちに受け入れられた。
 ところで、この書は、原題を直訳するならば、『深遠なる教え・寂静尊と忿怒尊を瞑想することによるおのずからの解脱』の中からの『中有に於ける聴聞による大解脱』というべきものである。そこで私は「『チベットの死者の書』という呼称は、イーヴァンス・ウエンツによる『改竄』である」と言っておきたい気かする。というのも、この呼称には、「チベットという秘境では、何かわれわれのあずかり知らぬ真実が伝えられていたとしてもおかしくない」という欧米人の夢を引き付け、投影させる「罪深い効果」があるからだ。
「チベットの」と言うが、実際には、この書はチベット仏教を代表するものではない。ニンマ派という一派が「発掘経典」だと称しているものにすぎない。発掘経典とは長い間埋蔵されていた経典が、神秘的な時節が到来して発見されたとするものである。だが、ニンマ派では、僧侶が自ら埋めておいた経典を掘り出し「発掘した」と称して発表する例の数多くあることが暴露されている。
 しかも、この書にタントラからの引用とされている言葉は、『倶舎論』がずさんに改ざんされたものであることも既に仏教学者らによって明らにされているのである(大谷大学『仏教学セミナー』五一号、ツルティム・ケサン論文等参照。)
 なお、『チベットの死者の書』の意義を一概に否定しない学者の間でも、この書がさまざまな法脈に通じる思想・文化を「編集」して成立したものであるという点に関しては、ほぼ意見か一致している。
 最近、NHK特集にも取り上げられ、一種のプームさえ作り出した書物ではあるが、そもそもその出自自体が怪しいものであると言わざるをえない。
 リアリーらとそれに続くヒッピーたちのサイケデリックな実験は、そのような出自の怪しい書物に、振り回されてきたのである。

サイケデリック体験とクリアーライト

 ただ、この書の出自がどのようなものであろうと、そのヴィジョンが普遍性を備えたものであれば、なんの問題もない。仏教ではブッダ(覚醒せし者)とは釈迦その人を指すだけではなく、目覚めた者一般を指す。出自のいかがわしさを以て『チベットの死者の書』は仏典とは一言えない」と主張する学者もいるが、覚醒せし者によって書かれた(編集された)「普遍的なダルマ(真理)を明らかにした書物」でありさえすれば、仏典とすることに問題はない。
 では、『チベットの死者の書』のヴィジョンは普遍性を備えたものなのであろうか。あるいは『チベットの死者の書』は思想的内容的にいってどのような特徴を備えているのであろうか。
 この書の大きな魅力は、なんといっても英語で「クリアーライト」と呼ばれる「空」あるいは「原初の光」を描いている所にあると言えるだろう。多くの先人もまた、ここにこの書の最大の魅力を感じ、信頼し、時には崇拝してきたのではなかろうか。
 たが、私自身のサイケデリック体験を思い起こして言うならば、

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