私は何者か、469
探しているものとは、ほんとうは、だれも、同じなのかもしれない。
ないもの。ないかもしれないものを探している。
それは、けれど、何処かにある。のである。
あるから、探すのであり、探す行為がそれを見つける力にもなる。
花が咲く、その一瞬のように。
まわりくどい、そんな生き方は、えっ、どんなふうに、まわりくどいの。だって、一年草を見てごらん。ほらね。長い短いは問題ではない。長い短いなど、だれが決めた。命の限りを告げられて、なのに、早いとか、遅いとか、言うのか。
少しだけ、長く生きれば、なんとなく、なんとなくではあるが、なにかが、わかったような気になるもので、長く、もし、長く生きるならば、そんなふうな、観察日記も、備忘録風に、脳に設えられていくのかと。
三月はさっさと、ほらほら、いろんなものを引っ提げて、行ってしまう。いってしまう。
サヨナラ、三月。
なのである。
なんだ。センチメンタル。
ひとり、ビールを飲んでいる。
寿司食って、海蘊食べてる。
好物よ。
泣きそうである。
別に、年度で括らなくてもいいのに、この一年間にたくさんの人と出会った。仕事もそれ以外も、私にとっては、本当にうれしい出会いである。
そして、サヨナラ。か。
だから、
探していたものは、そういうものなのであろう。
探されていたほうからしたら、そっとしておいて。または、気づかないで。
我は、気づく。
気づいて、哀しくなる。
だから、
また、探し続けるのである。
終わりのない旅である。
わたしは何者か。
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