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私は何者か、314



間違うところであった。危ない。ほんとうに危ういのである。垂れ流される情報?などと、ありきたりではあるが、そんなものじゃないではないか。みんな知っているではないか。日露戦争以降、勝ったをいいことに、あかんのスパイラルではないか。知っているではないか。それを子らに伝えられるのか。夢のなかで秋山兄弟が告げる。気がする。壁に展示された文言は嘘ではなかろう。危機は皆に備わっていないのか。危機とはまさに奇々怪々であろうや。知らぬなら、それはそれで仕方あるまいが。知っていて、知らぬふりとかいただけない。受け取ったし、渡したはず。若い日、アメリカで音を消したテレビを見ていた。テストパターンの時計の画像を、それこそ何時間見ていたことか。孤独がいけないとか、よくわからないのである。わたしには、ひとりであることが、言葉を紡ぐ源であるというのに。もちろんビールは飲んでいるが、のんべんだらりの日々のようで、家庭、仕事、我、彼、放出、耽溺、忘我、ひととの関わりは二の次、三の次。我が我であるときそれは我の我たる所以であろう。私の望むものは欲しい音を聴き、欲しい言葉を探し、紡ぐことである。紡ぐとは、生きることである。生きることを、誰に理り、誰に許しなど請うのか。我は我の魂を全うするのみ。他人の許しなど要らぬ。ただし、関わりは最小限なのである。生きてあることの潔さ、美しさを生きて見つめるだけである。みな、同じである。はず。いま、この国で音を消したテレビを見て、好きな音を聴きながら、言の葉を拾い、拾いながら、泣きながら、それでも生きていかねばならぬと、ビールをぐいと飲むのである。


外は暗く溶けてゆき、


我は静かに解けてゆく。


まつ毛は震えているか。


誰のため。


私は何者か。


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