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私は何者か、347


飲んでいる。ビール。今日は仕事が捗った。しかし、新しいヒトの取り扱いはかくも難儀である。わたしにも若い頃があったんだよねと、自問自答に溺れそうになる。

空は青い。永遠の色である。人を恋しく思うのは、それなりにたいそう普遍的なものであるらしい。私の秤が壊れているのかどうか。会えない時が会いたい時なのである。まるで、乙女であろう。こんな時こそ、そばにいて、欲しいのである。そばにいるときは、感じないような欲。とでもいうのか。いや、それとも、わざと感じないようにしているのかも知れない。コレはもはや、若き日の取り込み忘れた荒野に翻るハンカチのようなもの。解れても、千切れても、それでも、その端くれを探す。そのうえ、老婆の前掛けもひるがえる。それがもはや時間の問題であってもである。が、老いらくとか、こじらせとかではなく、時は過ぎるものであるのだから、真面目に考えねばなるまい。欲するとは太古より続く、たったそれだけの、生物としての性であろう、か。あゝ、今頃気づいてごめん。それは、許されるかしら。どうか、許して欲しい。ついてこれない物理的なものがあったとしても、純粋に、そこに在ることの意味を、わたしはずっと問いたい。と、願っているのである。思いはその思いをいたす本人が老いさらばえ、たとえば、サヨナラしたとしても、そのすぐそばの、物置小屋の影の叢にもあるのではなかろうか。それは、朝の露を飲み、蛍のように、生きながらえることで繋がってゆくものなのかも知れない。星の数える、たった数日の生命。であるのかもしれない。


畏怖ともいふべき、ひかりは生命。


生命を燃やし、そして、光を放つ。


今初めてわかったかのように。


過ぎた日々。


何に満ちているか。


見え。

または、

かくれ。


けれど、


その短い刻を欲している。



わたしは何者か。




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