見出し画像

私は何者か、450


現世を司る千手観音。

今、は少しもじっとしていないのだから、わたしたちはどの瞬間も、見守られているのであろう。

飛ぶ矢は止まっているのだからと、けれど止まっているのに、時は動いているのだから、だから、飛べるのであり、止まれば、落ちる。ニュートンだもの。観念の矢は止まり、エモーショナルな、なう、は止まり、けれど、止めたいのに止まらず、哀しいことが次々に起こる。現実をなんと哲学るのか。止めて。戻せなくても、せめて、留めてほしいことの数多ありよ。


後悔の海は濃い青。

薬師如来に抱きとめ、られよう、や。

振り向かないと決めたのだから、わたしは決して振り向かない。

けれど、前に進めば、その足跡から足音から影からもほろほろと薄羽蜉蝣のように頼りないけれど、本当にそこに在る、そのものから、わたしのなにかが転げ落ちてゆくのである。それを拾いながらついてきてくれる、誰ぞ、わたしの分身か、はたまた、私の思いの化身か。来世を司る阿弥陀如来様は、時折、ほんとうに、時折、振り向いてくださる。


光か。



ただ、歩いている。




わたしは何者か。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?