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どうせ2日で終わる日記-45-【3/7-3/13】

ども。
最近花粉が異常に異常でもうほんとヤバイ!と僕の心マンションに住んでいるギャルが声高に叫んでいる。
突然暖かくなるとこれほどまでにひどくなるのか、我々はその答えを探しにアマゾンの奥地へと足を踏み入れた・・・。


レトリックうんぬん

僕がクイズが好きだという話は既にガンジス川の砂よりも多く話しているので今更改まった説明は必要ないだろう。
クイズの勉強をしていると、結構な確率で心理学的な用語や学術的な専門用語に出会うことがある。
それは勿論その内容が面白い知識ということもあるし、何より固有名詞だからクイズとしても聞きやすい、そういう性質をもったものだから必然的に出会う回数は多くなる。

それで、そういう知識を付けるとふと使ってみたくなる。
漫画で教師が生徒に期待をしておらず、生徒もパフォーマンスを発揮できていない場面を見れば「おっ、ゴーレム効果だなぁ」とか言いたくなるし、ちょっと危ない場面に出くわすと「ハインリッヒの法則だから気を付けなくちゃ」とか言いたくなるし、ツイッターで別に凄くもない知識マウントを取っている人を見れば「ダニング=クルーガー効果だなぁ」とか思ってしまう。

これは別にクイズに限った話ではないが、そういう「良く体験する気がするそれを一語で言い表す端的な表現」というのは得てして便利なものだ。
何よりそういう言説をどんな場面でも良く見る。
本の中でも、インターネットの掲示板でも、SNSでも、どこでも見る。

しかし、僕はこれが危険な行為なのではないかと思うのだ。
これ、というのはつまり、科学的な事実に対してそれを固有名詞として概念化し、さらに一般名詞的にレトリックな運用を行うことだ。

僕はこれが危険だと思う。

それは一言で言えば、安易な敷衍に過ぎないからだ。

こうした効果や法則というと、どうしても「科学的に裏付けがある」という安心感がある。
勿論、その効果や法則の提唱自体には科学的な裏付けがある(元々レトリック的に生まれた言葉もあるため、一概には言い難いが)。
だからそれ自体安易であるとは言わない。
しかし、その事実があることと、今現在誰かが類似した状況にあることに対してその概念を運用することが必ずしも成立する訳でもない。

ダニング=クルーガー効果にしろ、エビングハウスの忘却曲線にしろ、ハインリッヒの法則にしろ、いずれにせよそれが当てはまる範囲はあくまでも客観的な観測に基づいてそれらが検証された範囲に過ぎず、今誰かが似たような状況に陥っているからといって、必ずしもそれに当てはまるとは限らない。
しかし、それを当てはめることで今目の前で起こっていることがこれまで知られている概念に基づき発生していると錯覚してしまう。
その推測が科学的根拠に基づくものだと錯覚し、自分の推測をあたかも科学的裏付けに基づくゆるぎない事実だと錯覚してしまうのだ。

まあ勿論僕は心理学の専門家でも、社会学の専門家でもないので上にあげた例が適切じゃない可能性もある。つまり、例えばダニング=クルーガー効果が提唱時からこうした現象をすべて含んだ概念であった可能性もある。
ただ、僕は少なくとも僕みたいなその背景すら知らない素人が、そうした事象を安易にレトリックとして用いることをしてはいけないと思う。
人がモノを忘れるパターンは必ずしもエビングハウスの忘却曲線に則る訳ではなく、ハインリッヒの法則に基づいて必ずしも一つの重大な事故の裏にはヒヤリハットが300個ある訳じゃない。

自分の気持ちや体験を言い表す端的な一言はとても便利で、それが無くとも比喩が使えればそれはそれでとても便利だ。
しかし、それはあくまでも比喩であり、必ずしも同じ状況であるとは限らない。
そのことは常に念頭に置いておかなければならず、どうしたって可能性の域を出ないことを認識し続けなければならない。
上記の通り、僕も幾度となくそういう運用をしてきた訳だが、今一度これは反省したいところだ。

部屋の電気が切れっぱなし

部屋の電気が切れっぱなしだ。

先月頭に突如としてシーリングライトが点滅、その後息を吹き返すことは無かった。
その後色々あって2月末くらいにやっとのことで電気屋さんに行くことができ、新しく蛍光灯を買った。
そこまでは良かったのだが、どうも帰ってつけてみても発光しない。
ちゃんと店員さんとも相談したし、自分でも調べたので型が違うとかそういうことじゃない。
つまるところ、蛍光灯本体ではなく、恐らくシーリングライトの方に何か問題が生じているのだろう。

本来ならばとっととそちらも交換すべきなのだろうが、生憎ながらそれなりに忙しく、またそこの交換となると業者も呼ばなければならず、買い替えもお金がかかる為、節約中の今そんなことはしたくない。
そういう訳で僕は標本撮影用のLEDランプを天井から吊るして現在も生活している。
最初の頃は暗さに不便を感じていたが、流石に一カ月も経過するとあまり不自由することは無くなり、寝転がっての読書が少ししにくくなったくらいで特に生活に支障はきたしていない。

写真 2022-02-25 2 28 39

因みにここに映っている時計も止まっている。
電波時計なのだが、買って三カ月ほどが経ったある時一日中ずっとぐるぐると高速回転をしていたかと思えば、まるで死んだようにぴたりと動きを止めてしまったのだ。
え?缶バッジ?いいだろう、これ。
缶バッジの保存方法に困っていたのだが、こうやってダイソーで買ってきたラックに付けることでインテリアとなる。

いや、缶バッジも時計も今はどうでもいい。
こんな感じでライトを照らしているのだが、まあこのライトがそれなりに明るいということもあり、この真下にいる限り十分に明るさの恩恵に預かることができる。
しかしこれもずっと付けている訳にもいかないので、いつ寿命を迎えるか……。
これが切れた時が本当の死を意味するので、なるべくその時が来る前にお金も余裕も貯めておきたいものだ。


なんだかんだでこの日記も続けてそろそろ半年が経とうかとしている。
やろうと思えばできるんだな、と少しばかり自信につながった……という程のことは無かったが、それでも「これからも続けようかな」くらいのモチベーションにはなっている。
やってみて分かったのだが、自己完結的な目標しか持っていない今、この日記を続けることに苦悩を感じていない自分に驚いたんだよね(ひろゆき)。
これまで色々続けようと頑張っては――対して頑張りもしなかったが――挫折を繰り返していた僕だったが、目標が下がるだけで継続がこれほど楽なものになるとは思いもしなかった。
他の趣味に対してもこれくらい肩肘張らずに悠々自適に向き合えたらいいものだ。


それでは。

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