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どうせ2日で終わる日記-54-【5/16-5/29】

人ならば誰しも一度は「ついうっかり」という状況に陥ることがある。
確かに僕は完璧で無比な天才かもしれないが、弘法にも筆の誤り、河童の川流れとはまさにこのことで、僕にも一度や二度の凡ミスはある。
という訳で先週分の日記を更新し忘れたということが僕の人生で唯一の失敗となってしまった。恐らくこれまでも、そしてこれからもミスすることのない僕の唯一の汚点だ。
しかし、ここで中途半端な天才ならば自分の初めての失敗に悔いて思考が停止し目の前が真っ白になり、次の手以降も失敗して主人公にメタメタにやられるのだろうが、完璧な天才である僕はそのようなことにはならず、即座に思考を切り替えて次の手を打つことができる。
つまり、今週分の日記で先週分も合わせて更新する、という手だ。

気になってはいけない

とある漫画でこんなセリフが出てきた。

「どうやらこの謎の数列、全て円周率の一部のようだね」

セリフも一字一句同じな訳ではないが、その漫画の中で科学者のキャラクターがこんなことを言っていた。
重要なシーンと言えばそうなのだが、物語全体の中で見れば大して重要ではないシーン、そのシーンのたった一セリフなのだが、僕はこのセリフにびっくりして思わず巻き戻してもう一度同じシーンを繰り返してしまった。

わかる人にはわかるだろうが、このセリフはいうなれば「この数列は数字の列ですね」というようなものとほぼ同じくらい当たり前のことを言っている。
一応解説しておくと、円周率というのは学校でも習うだろうが無理数の一種だ。
無理数というのは有理数同士の分数で表せない数のことであり、小数点以下が循環せずに無限に続く。つまり、ありとあらゆる数列が無理数の小数点以下に出現する。
したがって、ある謎の数列が円周率に含まれるかどうか、というのはいかなる数列でも100%出現するため無意味な問い なのだ。
例えば僕が今キーボードで適当に「39204849241」と打ったとしよう。本当に適当に打った。
今現在も円周率の小数点以下は計算され続けているから、この数列を円周率中に「人類が発見しているか」と言われれば分からない。
しかし、少なくとも今は見つかっていなくとも、無限時間計算し続ければどこかで出現する数列なのだ。ちなみに上の数列は少なくとも小数点以下20億桁には出現しなかった。(こちらのサイトで確認できる)
だからそういう意味で、ある数列が円周率に含まれるかどうかという問いは何ら意味をなさない。ただ無理数の定義から導ける現象を述べているに過ぎない。
しかし作中ではそれをそれなりに重要な気付きであると語られており、そういう事情の上で、僕は上述のセリフに驚いたのだ。

さて、ここまで書いて置いた上で、先に勘違いされそうなことを解消しておく。
僕はフィクションはフィクションで割り切っておくべきだと思うし、フィクションなのだから嘘があってもいいと思っている。
つまり、僕は上述のような間違いを別に悪いことだとは思っていない。
いや、言い方が適切ではないが、大まか悪くはないと思っている。そもそも間違っている=悪いという図式が僕にはあまり理解できないが、そういう考えは日々SNSを見ていれば嫌でも目に付くので予めここにその旨を付しておく。

フィクションはフィクションであって嘘が書いてあってもなんら問題ない、「俺の宇宙では音が伝わるんだ」理論は人口に膾炙してからそう短くはない。
この意見の支持者は多くいる。それは火を見るよりも明らかである。
しかし、この説を支持している全ての人間がそれを実行できているのだろうか、と時々思うことがある。
というのも、これもSNSで定期的に話題にあがるのだが、例えば銃の描写について、変な銃の描写があるとそれをあげつらって面白おかしく指摘する、という一連の流れのようなものがある。
オタクの中にミリオタが多いのかは知らないが、こちらから能動的に調べでもしない限り銃の形や持ち方なんてそうそう知り得ない。まだ中学数学で習う無理数の性質のほうが広く知れ渡っていても可笑しくないと思う(どちらがどれだけ知られているかなどはこの際どうでもいいが)。
まあだからこそ良く調べなかった作者がそのように槍玉に挙げられる訳だが、僕はこういう流れがあるにもかかわらず上述の理論を支持するのはどこかダブスタな気配を感じてしまう。

結局のところ、自分の知識に基づくその解像度がフィクションという真実の嘘のグラデーションをその側面から明確に分断することができ、その結果違和感に気付き指摘することになるのだと思う。
とはいえ、気付いてしまうものは仕方が無い。
誰だって何の気にもせず作品を楽しみたいし、僕だって上記の漫画を何の気もなしに楽しみたかった。ただ、僕が勝手にその間違いに気付いただけだ。
クリエイターとしても活動している身である以上、なるべく真実を織り込み完璧に仕上げたいという精神をクリエイターが持っていることは知っているが、一方で全ての情報を的確に調べ上げ、それを作品にストーリーに沿って反映させるのは中々難しいことは十分承知している。
だからこそ気付いてしまう側の気持ちをわかるし、作る側の気持ちもわかる。
こういうジレンマを、ひいてはこれによって生じる対人的な軋轢を解消するには、社会に「間違い≠悪い」という考えを流布させる、つまり間違いを指摘しても「へぇそうなんだ」程度で終わるようにする、もしくは全ての人類が全ての側面において「これはフィクションだから何も気にしない」という考えを持つか、のどちらかしかないと思っている。つまりどちらにしても受け手側からしかアプローチが不可能なジレンマだ。
一応第三の選択肢としてジレンマを解消しない、という手段もあるが、これは僕がこのジレンマに苦しんでいるのでなるべくなら避けたい。

そういう訳で、僕は二つ目の選択肢、「何も気にしない」ということを努めて意識している。
一つ目の方法は実行するには僕が沢山間違いを指摘しながらも「問題無いからねー」と喧伝して回るしかないのだが、それは過程で敵を作りすぎる可能性があるし、何より時間と労力がかかって僕一人ですべきことでもないし、そこまで熱意もあるわけではないので選べない。
消去法的に個人的にできる二つ目の選択肢を選ばざるを得ない、ということだ。
とはいえこれも難しい。
上述の例だって、無理数の何たるかを知っていれば普通に気が付いてしまって、一瞬でも気になってしまうのだ。
SFアニメや映画で「それは間違いでは?」と気付いてしまう瞬間が沢山ある。それでも、僕はその感情を努めて殺している。じゃないと没頭していた世界から一瞬現実に引き戻され、作品に対する読後感などの充足感が鑑賞後少しばかり減ってしまうからだ。
十全に楽しむには、心は感受性豊かに、それでもって理性を殺しながら理性でもって作品を考察しなければならない。非常に難しい。ジレンマを解消するために新たなジレンマ(トリレンマ?)が生じてしまう。

クリエイター側としても、大筋と関係ない、簡易に修復可能な点についてはなるべく正しい情報を置き、間違いによって生じる受け手側のノイズを少しでも減らした方が作品を十全に楽しめる可能性がある、という点においては意識した方がいいのだが、上述のようにすべてを完璧に調べ上げるのは不可能なため、成し得ない。
僕個人として何か物を作るときにはなるべくそれを意識している、もしくは間違いのあることを予め述べておくのだが(この日記みたいに)、やはり完全な回避は出来ないと感じている。

個人的には、フィクションの内容を鵜呑みにせず、誰もがフィクションで得た知識を裏取りもせず使うようなことをせず(必ずしも絶対的に正しい知識は認識的な観点までさかのぼると存在し得ないので、漫画と教科書での信頼性の違いはあくまでも尺度の割合的な話になるが)、間違いが必ずしも悪と直結しないという認識が流布し、全てを完璧に調べ上げられるようなプラットフォームの感性を目指す社会であるべきだと思っているのだが、まあそれは恐らく不可能なので少なくとも僕個人レベルでもこうした「気付き」は努めて抹殺しておきたい。
……意外とフィクションをフィクションと完全に割り切るのも難しく、結局フィクションとは何かという定義的な話にまで遡ることになってしまうのだが。

本当に終わっていたのは

小学生の頃、親に隠れて親のパソコンを使ってネットサーフィンをしていた。
当時はYouTubeは日本ではまだ下火で、どちらかといえば国産サイトのニコニコ動画が最盛期を迎えた頃だった。
会員登録をしなければ見ることのできないそのサイトは、小学生の僕にしてみれば明らかに怪しいサイトであり、きっと登録したが最後高額な請求が来て僕はしこたま怒られるだろう、と直感したため無料で誰でも利用できるYouTubeで実況動画やニコニコ動画から転載された音MADやうごメモの動画、まだ残っていたFlash動画なんかを見てインターネットというものに少しずつ身を沈めていった。

中学生の頃、中学受験で合格したお祝いとして何か一つ何でも買ってくれると親が言うので、ノートパソコンをねだった。
人生で初めて自分専用のノートパソコンを買ってもらったその時から、僕の生活は全てインターネットと共に存在した。
学校から帰るとすぐにYouTubeを開き、実況動画や音MAD、当時ハマっていたアクアリウムの解説動画を夜更けまで見た。2chなんかの掲示板にも張り付いて、半年どころか永遠にROMり続けながら、インターネットの向こう側にいるユーモア溢れるニート達に想いを馳せた。
初めて聞いたボカロは『アンチクロロベンゼン』で、一度聞いて以来頭から暫く離れなかったその曲のおかげで僕はVOCALOIDにハマり、そして東方に、そしてアニメにハマり無事に重度のオタクになった。
そして、中学一年生の夏休み、僕はニコニコ動画に登録した。
それからは殆どの時間をニコニコ動画で過ごした。当時のニコニコではゲーム実況――特にMinecraftの実況が特に盛り上がっており、学校にいる間以外の殆どをゲーム実況とVOCALOIDに費やした。

そんなこんなで時は過ぎ、中学二年生で東方にハマってから、好きな絵描きが作業配信をやっていたのを契機にニコ生にも入り浸るようになった。
高校にあがり、当時ニコ動で大流行していた淫夢系のMADも一通り見た。
この頃は僕が一番アニメを見た時期と言っても過言ではない。一挙放送は漏らしの無いようにしっかりとチェックをして、気になったアニメは全部観た。
この頃には自分でもイラストを描くようになり、ニコ生も始めた。自分でコンテンツを生み出す楽しさを、そしてそれを誰かに見てもらう楽しさをこの時覚えた。
そして高校二年生の冬、けもフレに出会い、そして人生が変わった。
コンテンツと共にあった僕の人生だ。ハマっているコンテンツが変わると僕の人生も大きく変わる。それまで東方一色に染まっていた僕の人生はいつの間にかけもフレ一色に置き換わっていた。
恵まれたことに学業の方は問題なく、志望校についても高校三年生の春の時点でA判定が出ていたため切羽詰まった勉強をする必要もなく、適度に勉強しながらけものフレンズに関するあらゆるコンテンツをTwitterで、Pixivで、即売会で、そしてニコニコで摂取した。
高校三年生の冬、丁度その頃からVTuberと呼ばれる職業が話題に上り始めた。
勿論僕もその流行りに乗じてコンテンツを摂取した。

少し時は経ち、大学に入学した僕はそこで出会った人達に影響を受け、僕の芯とも言うべき最大コンテンツ「魚」に、幼少期以来再び頭から浸かることとなった。
この時から、僕は少しずつインターネットから無意識に離れていった。アニメも少しずつ追わなくなっていた。即売会からも少しずつ足が遠のいていった。
20歳を超えたあたりから明確にインターネットとの距離ができた。VTuberがこれだけ巷で流行しているのにそれを追うことは無くなった。受験期の忙しい時期でもあれだけ見ていたニコ動のランキングも観なくなった。絵を描く頻度も少し落ちたし、同人誌はここ数年作っていない。
逆に言えば、それだけ実生活が充実していた、とも言える。実際そうで、僕の頭の中には魚の事しか無かったのも事実だ。これも楽しい思い出だ。

そして一年ほど前のある日、何となく帰巣本能のようなものから来る懐かしさを覚え、久しぶりにニコニコ動画のランキングをチェックした。
そして驚いた。
ランキング上位は全てVTuberの切り抜きが占めていた。ニコニコ動画では配信のしていない人達の切り抜きだ。そして少し視線をずらすと、怪しい政治系の動画、そして釣り動画のようなものが数本。あとはまばらにボイロ系の実況動画と歌ってみた・踊ってみた系の動画が2、3あるのみだった。
僕の見知った、VOCALOIDオリジナルや音MAD、未だ名を馳せる有名実況者の実況動画はどこにも挙がっていない。あれだけしぶとく生き残っていた例のアレ関係の動画でさえ大きくコンテンツとなりえるようなシリーズは無かった。
この時、僕は明確に「ニコ動はとうとう本当に死んだんだ」と思った。現在のオタクの中心的コンテンツはYouTubeを活動拠点とするVTuberであり、ボカロPや有名実況者はその活動中心をYouTubeを始め他配信サイトに移していた。音MAD製作者でさえYouTubeで活動する人が増え始めた。
ニコ動発のオリジナルコンテンツはもう無いんだ、そう感じた。コンテンツを生み出すクリエイターのいないサイトにもう余命は無いのだと、そう感じた。
だから、僕はその一度きりでニコ動をチェックしなくなってしまった。

それからまた暫くして、僕のオタク生活が少しずつ元の調子を取り戻してきた頃、再びニコ動のランキングを見るようになった。
最初は悔しさからだった。
「ニコ動は死んだ」と感じてしまったから。僕の大好きだったニコ動はもう死んだんだ、と確信しながらも、それを否定したくて、そして実家のような安心感を感じたくてランキングをチェックしていた。
けれど、ある時から悔しさは消え去り、少しずつ期待を胸にランキングをチェックするようになった。
未だ生声実況者は殆どがYouTubeで活動し、その影をニコ動で見ることは出来ない。
しかし、ボイロ実況やボイボ実況はそれなりに盛り上がっているし、ちゃんとランキングにも上がるくらいには注目されている。
アニメもいくつかランキングにあがっている。今期の注目株たちが、その名前を連ねている。
音MADも良く見るとそれなりに数が上がっているし、急上昇も獲得している。しかもニコ動だけで動画を上げている投稿者だ。
以前としてVTuberの切り抜き動画は多いが、それは今もなおオタクの一大コンテンツとしてVTuberが君臨しているからであって、これ自体が残っていることが必ずしもニコ動がクリエイターを生み出さないサイトになったことを示す訳ではないとも考えられる。
ボカロオリジナル曲だってYouTubeで流行ったのは勿論、ちゃんとニコ動でも再生数が伸びている。
以前と比べれば怪しげな政治系動画やしょうもない釣り動画をランキングで見ることは無く、代わりに実況動画も多く見られる。ゆるい手描きMADや手描き劇場のようなものも少しずつ増えている気がする。
そういえばYouTubeで見るMADや一発ネタ系も、発端はニコ動から、というのもここ最近の流行りを見てもちゃんと指折り数えることのできるくらいには見かけるようになったように思える。

ニコ動は死んだと思っていた。
けれど、砂漠のように白い砂地を良く見てみれば、そこには小さな宝石のような輝きを放つ、小さく白い花が芽吹いていた。
自分の足元も顧みず、ただ遠くの方を見て「涸れ果てた」と判断したのは僕だったが、それは間違いであったと、手近な地面を眺めてみて初めて分かった。
本当に死んでいたのは僕の感性、思慮、そして情熱だったのかもしれない。
もしかしたら本当に一度は死んでしまっていたのかもしれない。けれど今、少なくとも今目の前に広がっていた砂漠には無数の芽が、いずれ一面の花畑になる可能性を秘めた若き命が、僕の記憶と郷愁を塗りつぶしてくれるような眩い光を放ちながら芽吹いている、そのように感じた。


二週間分の日記を一つにまとめたせいで分量もいつもの二倍になっている。
あまりに長すぎると日記として見返しずらく、またこれを読んでいるユーザーの皆様も読みにくいのではないかと疑ってしまうが、ここまで書いてしまってはもう消すのも勿体ないのでこのまま更新することにした。
あまり内面を曝け出すような日記は説教臭くてどうにも残したくなくなるし、数年後の自分が見返したら悶絶しそうなので残すべきではないのだろうが、ここ数週間ひたすら家にこもってスライドやら発表資料やらの作成や論文調査などをしていたせいで、どうにも日記に残すに値する出来事が生じない。
上に書いたような戯言も、まあ文字通り戯言と思って適当に流してくれればそれで僕も嬉しい。
というような予防線を張っておけば、例え数年後の自分が見た時にでも少しは後悔や羞恥の念が消えるだろうと信じている。


それでは。

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