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どうせ2日で終わる日記【7日目】

とうとう1週間だ!!
1週間投稿し続けて偉い!!
偉いので今日は「日記投稿一週間連続したぞ!記念の日」として祝日にしました(総理大臣)。

……。

…………。

……さて、日記を書こう。

今日は一日中家にいて特に目立ったこともなかったが、まあ僕のTwitterを見てる人ならわかると思うが、なんかTwitterでわちゃわちゃと世間に物申していたら夜になっていたので、どうせならとここで色々と書きたい。

僕が物申していたのは今色々と話題の『温泉むすめ』についてだ。

もう今更こんだけSNSで話題になっているものなので敢えてここで説明するほどの物でもないと思うのだが、一応説明しておくと『温泉むすめ』というのは日本各地の温泉を擬人化したキャラクターで全国の温泉街を活性化させよう!みたいな感じのメディアミックスコンテンツだ。
どうやらそれが今「性的搾取だ」ということとして一部で批判されているらしい。

まあ正直こういう争いは「もう何度目だよ」とうんざりしたくなる程にはマンネリ化したものではあるので、性的搾取かどうかに関しては他に議論を任せるとして、僕は違う方向から自分の見解を話したい。

それは「嫌い」という気持ちについてだ。

温泉むすめについて触れるといったが、これまでの事例を考えると個々のコンテンツが「こんだけ素晴らしいんだぞ」だとか「こんだけ経済効果が」だとかそんな話をしていても、少なくともこの話に関してはしょうがないのは火を見るよりも明らかだ。それは地方経済だとかそういう文脈で話して欲しい。
どんなことにせよ、一番の根本は「見る人が不快になる表現」というものなのではないだろうか。
まあいいかえれば「自分これ嫌い」というものだ。

先に自分の立場を表明しておくが、僕は誰かが何かに対して「自分は嫌いだ」と表明することは当然の権利だと思っている。一方でその言葉自体に何かを強制する力は無い、とも思っている。
つまり、誤解を恐れず簡潔に言い換えるならば「嫌いと主張するのは自由だがそれを退けることは出来ない」ということだ。

温泉むすめにしてもそうだが、性的搾取とかそういう問題とは別に、一定数「公共の場にこういう不快なものを置かないで欲しい」という意見がある。
正直言って不快である、とか嫌いだ、という気持ちを持つことは仕方がない。僕だって嫌いなものなんかいくらでもあるし、こういう意見に対して「なんだと!」と憤るオタクだって嫌いなものの一つや二つあるだろう。

これは別にオタクコンテンツに留まらない。
テレビにせよYouTubeにせよ「見る人が不快になる表現」は昔から非難の的にされていた。

僕は疑問に思う。

この不快な表現とは何なのだろうか?

誰に対しての配慮なのだろうか?

それを好きだと思う人に対しての配慮は無いのだろうか?

要するに、線引きがあいまいなのだ。
まあ社会が結局のところどれだけ発達しても多数決で決定する、つまり力を持つ派閥の意思によって動くという性質を持つ以上、多数が「不快」と思ったら社会的な合意として「不快」なのだろう。

別にこれで良い、と思うならそれでいいと思う。
僕もこうやって声をあげても結局数の暴力には叶わないし、僕が刺されればそれでお終いだ。どんだけ意見を詰めても結局は一個体の生物に過ぎない。

ただ、今の風潮を見ているとそうした数の暴力には屈しないぞ!みたいな意思を多くの人間が持っているように思える。
それは例えばマイノリティだとか社会的な権利だとかそういった様々な議論のもとに醸造された意思だと思う。

しかし僕は現実は何ら変わっては無いと思っている。
結局は、昔マイノリティだった人たちが力を持つようになり、数は小さくとも人口に膾炙したからそういう意見を持てるようになったのだと思っている。
しかし当の本人たちはそれに気が付いていない。
自分たちがマイノリティだと思い込み、自分たちの権利獲得がマイノリティの権利獲得だと思っている。
僕は自分がオタクなので角が立たないように自虐的にオタクを例に挙げるが、オタクはまさにこれだと思っている。

本当の多様性の社会とは何だろうか?
マイノリティが力を持ち全ての力が均衡することなのだろうか?

僕は違うと思う。
それでは社会の成熟にはあまりにも遅すぎるし、結局人口は有限かつ流動的である以上そうした完璧な均衡を保つことは難しく、この思想では完璧に保った状態を維持できなければ破綻してしまう。
そしてその破綻状態が現状だと思っている。

本当に数の暴力に屈しない、というのだったら、僕は抑圧をしない、ということなんじゃないだろうか。
例え少数の人間であっても、それがそのままで居てもいい、そういうことを認める社会が今我々が掲げている「良い社会」なんじゃないだろうか?

恐らくここまで読んでくれた方は「いや、そりゃそうでしょ」と思っている方が多数だと思う。
そりゃそうだ。言葉上我々は常にこれを目標としていたのだから。

少し――というか大分話が逸れてしまったので本題に戻る。

昔、こんな事件があった。
今は復活しているのだが、「ジャポニカ学習帳」の表紙から昆虫が消えたのだ。
これは昆虫が嫌いな子供や先生、親からの要望で消えたらしい。

虫が嫌いだ、という人は多い。
だから、公共の場からこれを無くせ、という話になりやすい。
社会的な合意を得やすい。
だからこそジャポニカ学習帳から昆虫が「排除」されたのだ。

こういう事件があった上で僕はもう一度主張したい。

「嫌いである」と主張できる社会になるべきだ。
それと同時にその言葉から「排除の効力」を無くすべきだ。

社会を運営するには誰もかれもが全部自分の心地が良いように操作したら破綻してしまうというのは誰でもわかる話だ。
昆虫が好きな人と昆虫が嫌いな人が互いに好きなように過ごしたら喧嘩になる。それが全ての事象で起これば社会は破綻する。
ではどうするか。
誰かが一方的に割に合わない損を担うのはまさに現在の社会だ。現状が最良であるという人は殆どいないだろう。
かといって誰もが何不自由なくなに一つの割も食わない社会を目指す、というのは上述のように不可能だ。可能であるとしても恐らくもっと先の話になる。
では今、我々が生きている時間スケールの中で実現可能な案は何だろうか、と考えた時に一番良いのが上述の「嫌いと言える社会」だ、と僕は主張する。

どんなものでも自分の好きなものが社会にある、それがもたらす安心感は個人の満足度を非常に高めるだろう。
一方で自分が嫌いなものが溢れている社会はそれはそれで自分の中にストレスが蓄積する。それを主張することで軽減できる、それが「嫌いと言える社会」だ。
嫌いなものの排除は出来ないから完全に住みやすい、というのは無いだろうがそれでもこれが一番全体的な利益が高く、共存可能な社会なんじゃないだろうか。
社会の中で生活する以上、それぞれが割を食わなきゃいけないのはもうどうしようもないことだ。少しでも減らそうと運動を起こすのはいいことだが現実問題それはすぐに解決できる問題ではない。少なくとも僕もお前も一人では無理だ(チクチク言葉)。

これも一般的で平凡な論だ、という人もいるかもしれない。
しかし、現実問題これは達成できていない。
何故ならばこれは社会全体の個々人がこれを念頭に置いていないと実現不可能だからだ。
「嫌い」という言葉に「排除」という意味が絡み合っている。
「嫌いなら見なければ?」みたいな言葉がまさにそれを象徴している。
別に嫌いという意見があってもいいだろうになぜ「嫌い」という主張をする人を退けるのか。
それは社会的に「嫌い」という言葉に「排除」という意味が絡んでいると認識されているからだ。
それは使う側も使われた側も同じだ。
基本的に使う側に「嫌い」と言う言葉に「排除」の意味を込めているから、言われた側も「じゃあ見なければ?」と退けようとする。
もし完全に「排除」の意味を排除したのなら、「嫌い」と直接言われてもその言葉は結局個人のその人や物に対する感想でしかなく、「好き」や「おもしろい」、「かっこいい」、「かわいい」、そういった言葉と同平面に存在するもので並列使用が可能であるはずだ。
そして実際「嫌い」という言葉をそのように扱う人もいる。
ただ、そうでは無い、「排除」の意味を絡めて認識する人の方が圧倒的多数であるために、そういった認識の差によるいざこざさえ生まれてしまう。

別に「嫌い」という言葉だけに拘っている訳ではないことはちゃんと書いておく。そういう意識の問題だから言葉は拘らない。他の言葉でも同様である。

という訳で僕は「嫌いと言える社会」になるべきだと思う。
嫌なものは嫌と言う!みたいな文言は度々言われているが、結局それは個人間のトラブルというスケールでしか話されないし、そのスローガンの「嫌」という言葉自体に「排除」の意味が込められている。
そういう意味ではこのスローガンはいい社会の形成を遅らせているのかもしれない。ちゃんと「やめて欲しいと思ったらやめろ!と言え!!」と書かなければ。

何度でも言うが、個人的に考えているこの社会は嫌いなものは「排除」してはいけない。だから「やめろ!」というのは駄目だ。その言葉に効力はないし、言うべきじゃない。
でも自分の中のフラストレーションである「嫌いだ」という感情くらいは素直に吐露できるような社会になればいいと思う。


まあ、ここまでつらつら書いてきたが実際問題これの実現自体非常に難しい。これも線引きの問題だ。
例えば騒音問題はどうだろうか?
僕は表現に絞って今回論じたが、それはもっと一般化できるもので、その一般化の中にはこうしたものも含まれる。
騒音が好きな人はいないとは思うが、想像力には限界がある以上、想定もしない方向で問題が生じる可能性が高い。
だから、こうした問題に「騒音が好きな人もいる」と仮定した上でどうするべきか考える必要がある。
こうしたバランスは結局司法でパターンとして一つ一つの事例に対して定めるしかないのだろうが、そのバランスが難しい。

……まあ、とはいっても僕も完璧にこの社会が完成しうるとは思っていない。
嫌だな、と思いながらも社会で過ごすことは難しいが、そうでもしないと言い争いはどこかで勝負がついてどっちかが割を食うことになる。それは良くないことであると思う。
ただ、結局完璧に住み分けることは出来ずに、誰かが好きでやっていることに対して「やめろ!」と声が上がるだろう。それでも少なくとも今よりは少しは過ごしやすいと思える人が増えるんじゃないか、そんな些細な事を考えている。


日記なのか何なのか、良く分からないが、まあこういう考えをつらつらまとめるのも悪くない気がする。
いや、自分の考えをちゃんと文章にできているとは思えないが。何せ推敲なんかしてないからね。
志高いことを書こうとしたが、最終的には等身大の望みに落ち着いてしまった。まあ日記なんだしそれくらいでいいことにしよう。結局言ってることは「僕も嫌なこと少し我慢するから僕らの好きなモノをもっと自由にやらせてよ」みたいなものなんだから。

それでは。


※追記

自分で読み返したら本当に何が言いたいのか分からないレベルで話題があっちこっちに言っていたので簡潔にまとめるんですが、結局僕が言いたいのは「嫌い、ということに対して内外共にもう少しみんなが寛容になれたらいいよね」ってことです。それ以上でもそれ以下でもありません。

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