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どうせ2日で終わる日記-49-【4/4-4/10】

マナ

センスってなんだ

ここ最近創作意欲に溢れているという話は先週もしたと思う。
良い物をたくさん見て、良い物を描きたくなったというのもあるし、卒業研究が一段落して、大学院での研究のちょっとしたインターバルを楽しむ余裕ができた、というのもある。
そういう理由で、イラストの投稿頻度もここ最近は各段にあがっており、そのおかげか、Twitterのフォロワーも徐々に増えてきて少しずつ自分に自信も出てきた。
もしかして、僕はやればできる子なのではないか?
意外とセンスとか、そういうのがあるんじゃないか?
そんなことを思うようにもなっていた。

そんな折、ふとこんな動画を見た。

僕は普段YouTubeばかり見ているが、見るのは基本QuizKnockかオモコロチャンネルかこのゆる言語学ラジオだけで、ここ一年くらいずーっとこの三角食べをしている。
この動画も更新されたから何気なしに見たのだが、まさかこの時こんなにショックを受けるとはつゆとも思わなかった……。

この動画の趣旨を一言で表せば、「子供の言葉のセンスが芸術的かどうか」ということだ。
それを検証するために、この動画では片方が詩、もう片方が子供の発言の二択を出し、どちらが詩の一節かを当てるクイズをしていた。
どちらかといえば本の虫で、さらには絵も趣味として描いている身としては、それなりにそうしたセンスも身についている自負が多少なりともあった。
だから僕は動画を見ながら、直感的に良いと思った方を選んでみることにした。

結果は惨敗だった。
僕が直感的に選んだ一文は、全て子供の発言だった。
ショックだった。
たかだか5問程度のゲームだが、こんなにもショックを受けるとは思ってもみなかった。
動揺しながらも、「ぼ、僕みたいな人間もそれなりにいるだろ……」と思い、僕は軽く眩暈を起こしながら血眼になってコメント欄を探したが、全問不正解だった人間は見つけられなかった。
勿論そういう人は書いてないだけなのかもしれないが、それでもそれなりに正解している人はかなりいたので、ますます僕の動悸・息切れ・眩暈その他諸症状は悪化した。
僕はそこまで芸術のセンスが無いのだろうか……。
つい先程まであった僅かばかりの自尊心は灰燼に帰した。
今日はもう辛くて何もできそうにない。僕は所詮ダメ人間だ。こうして布団に包まりながら毒にも薬にもならない駄文をインターネットに流し込むことしかできない人間なんだ。チョコレートパフェでも食べれば元気になるかもしれない。あぁチョコレートパフェが食べたい。ガストのチョコレートパフェだ。それがいい。誰かチョコレートパフェを……。いや、でもパフェには「完璧」という意味があるからそれは今の僕にはあまりに不釣り合いかもしれない。ああ僕はこうして一生パフェも食べられずに布団の中でミノムシになっていくんだ。パフェのミノムシだ。僕がセンスがないばかりに……。せめて僕にも人並みのセンスが一かけらでもあれば……。

というか、そもそもセンスとは何なのだろうか。
ふと我に返って考え直してみるが、しっくりくる答えが出てこない。
こういう時にインターネットとは便利なもので、言葉の意味はいつでもどこでも手軽に調べることができる。

ということで調べてみると、要約すると「人それぞれに備わった内面的な感覚、特にちょっとした行為についての感覚や行動」を指すらしい。
なるほど、しかしこの定義なら僕にだってセンスはあるはずだ。
もしセンスのない人がいたら、それは何の感覚も持たない人間ということになる。
芸術にしてもファッションにしてもなんにしても、この定義通りに解釈すれば人それぞれその事物に対して何らかの感情を持っている状態、その時の感情そのものがセンスということになる。
だったら僕にもセンスがある。
さっきの二択クイズだって、子供の発言の方が僕は「良かった」と感じた。これこそが辞書的な定義のセンスだろう。

では、センスが良いとか悪いとか、それは一体何なのか。
何となくだが、結局のところ社会に迎合するかどうか、そういう話になるのではないだろうか。
なんたることか!誰にもどの価値観にも囚われずに、自己の内面を、つまりセンスそのものを表現するはずの芸術は、結局社会性という芸術としばし対立する概念の縛りから逃れられないということになってしまった。
「この絵はセンスが良い」「この詩はセンスがない」という文言は、「この絵は(自分の感性と合っていて)センスが良い」「この詩は(自分のセンスと合わないから)センスがない」という言外の意味が隠されていたのだ。

つまるところ、例えばもし僕のような絵描きが「センスの良い絵」を描きたいのならば、社会の大多数から迎合されるような「みんなが好きそうな絵」を描かなければならないということだ。
「芸術は自己と向き合うもの」などと言われるが、それは「芸術は自己と向き合い、自己の他者と違うところを認識し、表現過程で自己のずれが現れないように気を配る作業」でしかないのかもしれない。

……まあ勿論、これはこんな気付きがなくとも、ある意味自明ではある。
自分の作品が評価されたければ、みんなから評価されるようなものを作れ。自分の作りたいものと評価されるものが必ずしも一致するとは限らない。
そんなありふれた言説と結論は同じだ。
けれど、僕はこの言説をこれまでただの慰めだと思っていた。
いや、事実ではあるとは思っていた。けれど、僕は当てはまらないと思っていた。だから僕にとっては評価されない僕への慰めにしか過ぎない、そう考えていた。
本当に僕が良いと思えるものを作れれば、周りも良いと思ってくれる。足りないのは自分の努力と技術だ。
そう考えていた。
しかし、どうもそれは違うようで、これはそういうものらしい。
今回の動画を見てはっきりわかった。僕は一般的な感覚からずれているのだと。
だから僕は、今諦めがついた。
僕がどんだけ良い、と思えるものを作れたとしても、それが必ずしも社会一般と合うとは思わない。
けれど、僕は僕なので、僕の良いと思ったものは僕が良いと思ったものとして、周りと比べて、周りを見て自分の感性に蓋をするのはやめにしよう。
評価されたい自分もいる。だから、ちゃんと評価されに行こう。そういう戦略を練ろう。社会にこちらから迎合しよう。
そう考えていくことにした。
今思えば、これまでが傲慢な考えだったのかもしれない。
なぜ僕なんかに社会が合わせなければならないのか。僕が社会に合わせなければならないのではないか。僕の感性と社会の感性が合致している、というのは大きな誤りであり傲慢さの表れなのではないか。
22にもなってようやく気付いた。
これからはもう少し気楽に創作活動を楽しんでいけそうな気がする。

今日は気分が良いので、ガストのチョコレートパフェを食べに行くことにした。



それでは。

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