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どうせ2日で終わる日記-52-【5/2-5/8】

在宅中、窓を開け風を取り込むと涼しさが一気に部屋を抜ける。
そんな快適な日和に感謝しながらいざ長袖で外に出かけると、少し動いただけで汗だくになり後悔する。
僕の代謝が良すぎるせいなのか何なのかは知らないが、21世紀にもなり、そして僕自身20数年生きてきているはずなのに、未だ自分の体温調節もままならないのだから生存し続けるというのがいかに難しいかがわかる。
もしくは家が快適すぎるだけなのかもしれないが。

クイズチューニング

「おけらになる」という言葉がある。
端的に言えば「一文無しになる」ということを表す慣用句だ。
足を上げるおけらの姿がお手上げ状態の人のように見えるからとも、身ぐるみをはがされた状態からとも、語源は諸説ある。

どうやらこの語句、ごく一般的な表現のようなのだが、恥ずかしながら僕はこの表現をつい最近になるまで知らなかった。

これに最初に出会ったのは、とあるクイズ番組だった。
テレビでなんとなしにその番組を見ていた時、「おけらになる」が答えのクイズが出題された。
勿論、それが答えられればファインプレーな難解な慣用句として出題されていれば別段僕も気にすることは無かった。
しかし、実際にはそう出題されることは無く、むしろその番組内ではこの語句が半分ひらめきのような形式で出されていた。
あまり前提知識を必要としないひらめき問題においてこれが出題される、ということはこれが一般的な語彙であることを示している。
僕は驚いた。この語句に対する僕の認識とスタジオの認識に大きなギャップがあったからだ。
そしてこの時、この語彙が余りにも僕にとって耳馴染みがなさ過ぎたことと、そういった経験がこれまでの人生であまり無かったために、その時はテレビが難易度調整をミスって特殊な語彙を出してしまったのだろう、とやや逃避的な考えに至ってしまった。

ところが、間をおかずして再びこの語彙に相まみえることになった。
それは、この間またもや何気なしにYouTubeを観ていた時の事。
別段勉強ができるとか、語彙力が豊富だとか、そういうものを売りにしている訳でも無ければ動画内でそれがアピールされることも無いYouTuberがこの慣用句をごく当たり前のように使っていたのだ。
そして勿論動画内でそういう注釈もない。
さらに加えればそれをコメントで触れる人もいない。
ここまでくると、流石に僕でもこの語彙が人口に膾炙した語彙であり、僕はそれに人生で一度も出会わなかった稀有な人間である、ということに気が付いた。

……上に「こうした経験(=一般的な語彙を知らないこと)があまりない」と書いた。
確かに語彙に関してはこういう経験は少ない。単純に読書が好きだからかもしれない。
しかし、それ以外では思い返してみればクイズを通して初めて一般常識的な事実を知る、ということはそれなりにあったように思える。
スポーツや芸能に関しては、僕はてんで興味が無かったため世間一般の常識から外れていることはもはや言うまでもないが、例えば僕はクイズを始めるまでシュラスコもナポレオンパイも全く知らなかった。
しかし、これらは特殊な語彙ではなく、大学の同期はBBQ感覚でシュラスコをしていたし、コージーコーナーに行けばナポレオンパイが売っていた。
初の女性宇宙飛行士、テレシコワも同じくクイズで初めて出会い、その時は「クイズ常識」的に思っていたが、その後高校の頃の同期との会話でごく一般的に出てきて驚いた記憶がある。

これは何回か話したかもしれないが、僕は常識という言葉が嫌いだ。
いや、嫌いという言葉には少し語弊があり、どちらかといえばそれが使われるシチュエーションが嫌いだ。
常識、という語彙は度々相手の知識不足を責める時に使用される。
勿論それ以外の用途もあるが、このようなシチュエーションで使われる頻度が圧倒的に高いから、この言葉に対してもあまりいい感情を抱かない。
全人類誰もが絶対的に知っているものなど一つとして存在しない。
強いて挙げるならデカルトの指摘する通り、「我思う、故に我あり」のみだ。
コミュニティを限定すればその中で広く知られている知識のリストは充実していくに違いないが、それでもそこに属する構成員全てが共通して知っている事象は限りなく少ない。
したがって、この世界に誰もが知っている常識というものは殆ど無く、「比較的大勢の人間が知っている多数派の知識」という意味が最大限の常識に対する定義であると言える。
まあ、ありふれた定義ではあるが、ここで一度定義を明示しておかないと食い違いが発生して困る可能性があるため改めて定義した。

さて、その上で僕は「常識的でありたい!」と常日頃から思っている。
これは社会からの目を極度に気にする性格に由来するとも、周りが知っていて自分だけが知らないのが悔しいという負けず嫌いな性格に由来するとも考えられるが、それはこの際どちらでもよく、とにかく結果としてそうした願望が僕の中に生じている。
ところが、そう考えたとしてもそれを実行するのは難しい。
何故ならばその常識に出会うかは完全にランダムであり、自ら全てを収集するのは困難を極める、というか不可能だからだ。
しかし、だからといってそれを諦める訳にはいかず、何とか効率の良い方法を模索することになる。
そして、僕はこの方法の内最も効率の良い方法こそがクイズなのではないかと思っている。
通常、こうした一般常識は積極的に開示されるものではなく、自然な会話の中などで気まぐれに顔を出すことが多く、つまりそれはこちらからの能動的な検索網に引っかからない可能性があるということでもある。
その点、クイズは難易度を調節するために一般的な常識から出題されることも多く、恐らくこの世界で唯一常識に能動的に触れることのできるシステムといっても過言ではない。もし「人間社会入門」という書籍があるならば別だが。是が非でも買うのでamazonのリンクを送ってください。

実際、僕は上で挙げたようにクイズで初めて知った一般常識がかなりの数ある。
別に知識があることが社会の一員の資格という訳ではないが、同じコミュニティにしか通じないキーワードを知っていると面白くそのコミュニティの構成員であるという自覚と安心感があるように、社会常識というこの社会におけるジャーゴンを有していることで、僕がこの社会の中の一員であることを何となく認識させられて安心感が生じる。
僕にとってクイズは、ただ単純に面白い遊びであると同時に、そうした安心感をわずかながらも与えてくれるシステムでもあったのだ、ということに「おけらになる」という慣用句が教えてくれた。皮肉。


ここ最近ワントピックで終わることが多いが、それはつまり僕がここで話せないような私生活が忙しいということの表れでもあるので、どうかそっと温かい目で見守ってほしい。
ところでこの最後のあとがきのようなものも前書きの「マナ」と同じように略してもいいのではないだろうか。
前書き無し、の略で「マナ」なのだから後書きが無い時は「アナ」にしようか。
いや、しかしそもそも終わるときにわざわざ「アナ」だけ書いて終わるというのも味気ない、というかそれだけ書くのだったらそもそも後書きを書かないという選択肢もあるのではないだろうか。
今後どうするか分からないが、もし後書きが消滅したら実験の結果それが一番具合が良かったのだろうと思っておいて欲しい。
果たして後書きはこの先生きのこれるのだろうか。

それでは。

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