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どうせ2日で終わる日記-39-【1/17-1/23】

マナ

2年半ぶりに……

今日、こんな催し物が開催されていた。

そう、同人誌即売会だ。

新型コロナウイルスの蔓延からそろそろ二年が経とうとしている。
僕が最後に行った即売会が一昨年の10月とかのはずだったから、それからもう2年半ほど経過していることになる。
僕を取り巻く状況も、僕の好きなコンテンツを取り巻く状況もだいぶ変わった。
しかしながら、僕の即売会の記憶は2年半前のままであり、既に先端からは大分取り残されていた。

そんな折、僕が参加していた合同企画がこのイベントで頒布されることが決まった。
二年半の間、時たま即売会に想いを馳せることがあった。
僕のオタク人生の中でも輝かしく、そして楽しさに満ち溢れたあの時間を、また味わいたい。
そんなフラッシュバックを定期的に発症していたそんな時分だった。
僕は一も二も無く会場で献品を受け取ることに決めた。

という訳で今日は東京ビッグサイトに行ってきた。
りんかい線のあの改札を降りて、顔いっぱいに凩を受けたその時から、僕は昂りを抑えられず、思わずニヤニヤと通報されても可笑しくない形相を浮かべながら足取り軽く会場へと歩みを進めた。

どれだけ時間が経っても僕の青春の一舞台といっても過言ではない東京ビッグサイトで、迷うはずがない。
駅から斜め右前方に見える通路を進めば、すぐ目の前に見慣れた逆三角形が姿を現した。

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これだよ、これ。
ああ愛しのビッグサイトよ。ああ愛しの逆さ金字塔よ。
私は帰ってきた。この地に!長き戦いの果てに、ついにやってきたのだ!!

ということを書こうか、などと思いながら久々の道を堪能した。
今まで何気なく歩いていた道であったが、久々なこともあってか、いつも以上にワクワクした気がした。

上まで登ると、いくつか看板が目に入った。
どうやら今日開催しているのはBS祭だけではないようで、他にもいくつかマーケットなどが開催されていた。

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いつもの電光掲示板を見ると、何故かBS祭だけ表示されていなかった。
いや本当に何故だ……。

まあここに表示されていようがいまいが開催されていることは確かなので、謎電光掲示板を横目に会場へと突入した。
謎で思い出したが、このビッグサイトのクソデカノコギリもずっと謎に思っている。これは何なんだ。ケモ夫人?

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11時開場のイベントであったが、僕のお目当てのけもフレ関連はサークルが少なかったので余裕をもって11時半頃向かったせいなのか、それとも元々少ないのかは分からないが、ほんの一分も待つことなく入場できた。
唯一コスプレ申請の受付だけそれなりに長い列ができていたが、コスプレなぞ生涯で一度もしたことすらない僕にとってはあまり関係の無い話だったので、受付でリストバンドを貰い入場した。

会場に入って見て一番驚いたのは、その人の少なさだ。
少ない。
とにかく少ない。
来る途中寄ったコンビニの方が混んでいた。

ただ、これは仕方がない。
丁度先週あたりから感染者数が急激に増えているという状況もある。
実際ツイッターで検索を書けると感染者数が心配だから、という理由で参加を取りやめたサークルも多くいたようだ。
というか僕が行こうと思っていたサークルの6割くらいが参加を取りやめていた。会場に行って初めて気が付いた。
まあ、僕自身も感染は心配だったので、空いているのは本の売り切れを心配しなくていい、という点においてもメリットではあった。

このBS祭というのは様々なオンリーイベントを合同で開催するもので、僕が行きたかったけものフレンズオンリーイベント「ふれんずちほー」もこの内の一つだった訳だが、けもフレの場所は島一つ分しかなかったため、合同作品を受け取った後、参加サークルを全部見て回り気になったのは買ったのだが、ものの10分程度で全てが完了してしまった。
完全に手持無沙汰になってしまったが、入場料1500円のためにも、高々10分程度で帰るわけにはいかない。
見ると、どうやら飲食コーナーというスペースがあり、そのスペースの前で軽食を売っているではないか。
これは丁度いいということで、僕はフランクフルトを買ってゆっくり戦利品を眺めることにした。

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因みにこれがそのフランクフルトだ。大きく見えるが人差し指よりちょっと長い程度の長さだ。
価格は一本500円と毎度おなじみ即売会価格だ。この少しのぼったくり感さえ懐かしい。……いや、やはりこれで500円は少し高くないか?高いだろ!おい!!!!!!!!!

……まあそんな訳で軽食コーナーで作品を吟味していた訳だが、如何せん参加サークルが少なく、そしてさらに僕が購入したものはそこから限られてくるので、結局ここでも30分程度しか滞在しなかった。
かといってやることも無く、適当に痛車展示を少し覗いたり他のオンリーを少し覗いたり、会場を練り歩くトトロとガンダムを眺めたりしながら少々の時を過ごした後、帰還した。
帰る途中で会場に来ていたのだろうフォロワーさんから連絡が来て少し落ち込んでしまった。あと20分くらい会場でボーっとしておけばよかったと少し後悔した。

まあそんな訳で楽しみにしていた割には速攻で帰宅を決め込んだ二年半ぶりの即売会だった訳だが、それでも僕個人としては十分楽しむことが出来たと感じている。
今後の情勢がどうなっていくかは分からないが、こうしたイベントに気軽に足を運べるようになれればいいと、心から祈っている。

表現と云々

言葉に人の意識を変えるだけの力があるだろうか。
恐らくこれまでにこのトピックに関して様々な議論があっただろう。
聞き齧った話でしかないのは申し訳ないが、これはいわゆるサピア・ウォーフ仮説であり、その中でも強い仮説に該当するものだと思う。
この仮説は弱い仮説は実験的にその存在が示唆されているらしいが、強い仮説については未だ仮説でしかないらしい。
学問としても気になるような話題であり、実際問題この仮説の検証は社会的に大きな意義があることだろう。

さて、話は少し変わるが、僕は言葉で人の意識は変わらない、と思っている。
つまり、言葉自体が何か人の認識を大きく変えるようなことは無いだろうという立場をとっている。
勿論、言葉は無力だ、みたいなことを言っている訳ではなく、その言葉の存在の有無だけで何か意識が決定する、ということは無いだろうということだ。言葉だって上手く使えばそれは大きな感情を引き出すことが出来るのだから。
この考えについて、別に何か実験的な証拠がある訳ではない。あったら既に発表している。
ただ、これまでの経験から言えば、それはあまり現実的でないように思えるのだ。

人を罵る言葉を全て封じたとする。
その時、人は全ての人間と仲良くできるだろうか?
もっと限定的に人を馬鹿にするような行為が行われるだろうか?
僕には、それは些か不可能のように思える。
そもそもその様な言葉だけを封じたところで、相手に「自分は罵っているぞ」と伝える手段は言葉の数だけ存在する。どんだけ褒めても態度や文脈、その背景によってそれは人を罵る言葉に変わる。

そもそも、言葉を使う時、そこには何かしらの意図や意識が組み込まれるはずだ。少なくとも僕が発話する時、意識的かどうかに関わらず、そこに何かしらの感情や意識は組み込んでいる。
結局のところ、言葉自体は人間間での情報の伝達手段の物理的実体の一種でしか無く、そこにどの様な意図を込め、そこからどの様な意図を汲み出すかは言葉に依存しないように思える。
もちろん、人が言語に依存した思考をする限り、人の思考において言語が重要な意味をもつことは周知の通りではある。
しかしながら、高々数十、数百の直接的な表現を封じたところで、それらの意識にまで影響を及ぼすとは思えない。人と違うところがある時、例えその人の違うところを罵る様な表現を封じたとしても、自身が何であるかを記述できさえすれば、相手が自身と違うことを記述することは可能であり、そこから生じる排他的な感情を抑制することは難しい。
そうなる以上、封じることは意味が薄いのではないか。
もちろん、繋がるような全ての言葉を封じればいずれはそうしたことも無くなるのかもしれないが、それはあまりにも非現実的であり、生活に支障が出るレベルでの語彙の消失が簡単に予想される。

今更で申し訳ないが、一応僕の中――少なくともこの文章中において――の「言葉を封じる」ということについての定義をここに付しておく。
封じるという表現が良くないかもしれないが、これは言葉を抹消することを意味する。今この社会からその言葉をありとあらゆる場所から消す。それが僕の中での封じる、という表現の意味するところだ。

さて、ここまで長々と持論を展開した訳だが、そもそも僕が何故突然こんな話をしたかと言えば、今日こんな記事を読んだからだ。

無料分だけしか読んでないが、正直、僕はこれを読んで少し安心した。
僕と似たような考えを持つ人が――しかもこれほど著名な人がいたのだということに。
とはいえ、恐らく僕の主張の方がもう少しラディカルにはなってしまうと思う。

僕は、そもそも四半世紀以上前には溢れていた差別用語についても、近年の表現に対する様々な議論に関しても、一貫して規制の必要は無いと主張したい。
勿論各々が自主的にやめるのなら別にあえてそれを止める必要もない。
しかし、積極的に表現を規制することは敢えて行う必要が無いように思える。そこにカロリーを使うこと自体が無駄でしかない。であるならばもっと本質的な問題に対処した方がいい。そう感じるのだ。

インターネットの普及に伴って、顔も知らない誰かの発言が身近なものとなった。
発信者にとっては文脈のある発信だったものが、一部分だけが拡散され、もしくは一部分だけが文面としてツイートされ、その一部分だけが誰かの元に飛び込んでくる。
文脈がわからなければ何のことだか分からないはずだが、そこは人間がこれまで数千年の歴史の中で培ってきた補完能力で勝手に補完されてしまう。
こうして、物理的実体でしかない言葉に、本来あったはずの意図は置き去りにされ、誰かが取ってつけた様に意味を付与するのだ。
言葉と意識は必ず繋がっていたはずなのに、それがSNSでは切り離されてしまう。
新聞などは昔からこの性質がどうしても付き纏ったが、それが一個人レベルで生じてしまう。
だからこそ特にSNSなどは文面以上のことを汲み取ってはいけない、という戒めのような呪文が役に立つのだと解釈している。

「不快に思う人がいるからだ」
そういう理由でこれまで多くの言葉が規制されてきたが、これは大きな勘違いを孕んでいるのではないかと考えている。
言葉と意図を別のものとして考える必要があるのではないか。
言葉と意図の違いは上述の通りであるため、敢えてもう一度説明はしないが、結局のところ問題の本質は「なぜ不快になるのか」だ。
これは過去に不快になる様な「事態」があったからだ。決して言葉そのものに原因がある訳じゃない。その言葉が使われた時の状況や発言者の意図、そういったものが問題なのだ。
極論を言えば、差別用語であってもそこに込められる悪意を根絶さえできれば言葉自体がどういった文字列だろうと関係がない。そこに何かしら貶める意図も意味も存在しないのだから。最終的に左手右手程度の区別を示す言葉でしかなくなる。
だからこそ、言葉を封じることにカロリーを使うのは得策じゃないのではないか。
ただ、一応補足をしておくと、言葉と意図が分離可能だとしても、ほぼ一意に意図が決まるような言葉に関しては、使っていいとは中々言い辛い、というかそれ以外の用途で使う想定が難しいが、ただこういったものは実際問題そこまで多くないのも事実だろう。特に最近は。

こうした規制が簡単に実現できるのならばやってもいいのだろうが、実際問題そのようなことは無い。
多くの場合、反発がある。そうした言葉に何ら悪意も差別意識も悪いようなことも何も混ぜていない純粋な意思で使っている人たちからだ。
そんな意識もない人達に突然「お前は差別をしている」なんて言えば反発が返ってくるのは当たり前だ。なぜなら本人たちにしてみれば、差別をしていないからだ。
こういうと大抵受け手側の判断が全てだ、という話になりがちだが、それは断じて違う。
これの問題は情報が断絶している点だ。言葉だけが伝達してしまえば、受け手側の経験からその裏の意図を勝手に補完してしまう。これを発信側のせいにするのは少々無理がある。根本的な原因はそう補完せざるを得ないような状況にさせた人間たちだろう。
相手が純真無垢な子供で、決して人を悪く言わないという情報を持っていれば、例え引っかかるような表現をしていても「この子は別に悪意があって言っている訳じゃないな」と判断できるように、言葉には必ず意図が乗り、それで初めて意味を断定できる。
つまるところ、そうした問題は意識を伴う問題であるがゆえに、表面上だけの――字面上だけの判断で断定することは好ましくなく、当然その間で軋轢が生じ、その解消には多大な労力と時間を要する。具体例は挙げるまでも無く、今はSNSを3日も眺めれば実例が流れてくるだろう。
そういう訳で、表現規制にはそこそこのカロリーを使う。ならばその分をとっとと問題の本質的な部分への対処に充てればいい。
そちらの方が不幸な事故も起きずに済むのではないか、そんな事をーー特にここ最近は感じる。

が、しかし一方でやはり過去を想起するような言葉を規制するのがその場しのぎのちょっとした安らぎになることは十分に理解できる。
しかしこれは甘い罠でしかなく、費用対効果がとてつもなく悪い。
そして何より、「その言葉が悪い」と主張したときから、その「言葉の悪さ」が増加するのだ。
禁止すればするほど、その言葉は悪さを増してゆく。
こういうことも考えられ、やはり表現規制はあまりにも効果の見込めない手法であると感じられるのだ。

一時間程度で書きたいことを勢い任せで書いてしまったため、構造などはぐちゃぐちゃになってしまったが、それでも何とか伝えたいことが伝われば嬉しい。
希望的観測かもしれないが、僕はこうしたものが無くなれば差別やその他云々の解決は一段と早くなるんじゃないか、そう考えている。


前半と後半であまりにも温度差があるが、これは前半を家で、後半を外で書いている都合上仕方がない。
一段と寒くなり手の皸が尋常じゃないことになり始めているため、そろそろキーボードをたたく気も失せ始めている。
来週はこの手がもとのツルツルピカピカのピカになっていることを祈って、ここで筆を置く。


それでは。

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