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どうせ2日で終わる日記【30日目】

今日はちゃんと日付が変わる前に投稿できるぞ!!

ちゃんとしてるなってやつ

今日こんなツイートを見かけて、思わずRTしてしまった。

毎回毎回ツイッターの事ばかり話してお前はツイ廃か!と怒られるのが目に見えているが残念ながら僕はツイ廃なのでそこは潔く諦めるしかない。

……いや、僕がツイ廃かどうかは別に今関係は無い。
観て欲しいのはこのツイートだ。
僕はこのツイートを見て、素直に「ちゃんとしてるなぁ」と思った。
ちょっと上から目線みを感じるような言葉になってしまったが、もっと的確な日本語を僕が知っていればそれで済んだ話なのでこれからの話を聞いてもっと的確な言葉を知っている人がいたら教えて欲しい。

で、何を見て僕がそう思ったかというと、このツリーにぶら下がる参考文献の数だ。
僕はここを見て、ちゃんとしてるなぁと感じたのだ。

ツイッターでよく科学的な議論をする際、論文一つだけを取り上げて主張する人がいる。
尤も、論文というもの自体多くの人にとってはなじみが無く、進んで読んだり調べたりするものじゃないという前提があることは知っているから、その知らないことに対する批判をしたい訳じゃない。
ただ、それでも論文一個だけを取り上げてそれがどうだこうだと言うのは良いことでは無いと思う。

そもそも、知識や知見とは何か、という話からになるが、データにしても論文にしても、エビデンスの存在の有無でその情報の良し悪しのすべてを決めている人が一定数いるように感じる。
勿論、データや先行研究を取り上げることは大事だ。
しかし、こうした知見には幅というものがある。
もっとイメージしやすい表現で言えば、有意水準のような、そういう幅が知識・知見には存在するのではないかと思う。
よく使われる表現で言えば、「支配的な説」というやつだ。

今現在地球上に存在する論文や研究報告の数は計り知れないほどある。
それほどまでに大量にあるのだから、どんな仮説であっても基本的に素人が考えるような範疇における自説を補強するようなデータや論文は存在して当たり前なのだ。
だからこそ、そこに存在することがその説を支持する根拠にはなり得ない。
もっと厳密に言えば、その説が支配的になることは支持しうる研究結果の存在のみでは叶わないのだ。

例えば完全に対立するAとBという説があるとしよう。
その時、現時点でAが支配的な説である時、Bの説を補強する知見が出たから、といってじゃあBの方が正しいね、とはならないのだ。
何故なら既にAが支配的な説になる段階でAを補強する仮説が大量に出ているからだ。
こうなった時、普通考えられる道筋は取られたデータや実験デザインに不備がある、もしくは統計的な差異があったと考えBの説の支持にまではいかない、あるいはそれぞれの知見から矛盾しない新たな説Cを考える、という方向に行くが普通だ。
だからこそ、論文の一つや二つ程度で主流な説が覆ることは無いのだ。

そういう点で、上述のツイートは素晴らしいなと感じたのだ。
ある一つの主張に対してそれを裏付ける研究を何個も用意しているからだ。

別にこれは通常の研究論文ではごく当たり前のことだ。
しかし、これをちゃんとツイッターでも実行しているのが非常に良い。
できれば他の人もちゃんと見習って欲しい。


……とまあ言ったものの、実際インターネット上での誤った論文の扱い方や「エビデンスは?」みたいな無闇なエビデンスの要求やエビデンス偏重主義は、実は恐らくもっと深い――例えば過度な論文への高尚なイメージやそもそもの検索能力、偏った知識、データやグラフの扱い方の知識不足、その事象に対する認識の齟齬など、様々な要因が重なり合った結果なのではないかと考えている。
そういう訳でこういった問題が解決される日は遠いだろう。
もういっそのこと一億総博士時代にでもして、大学院まで義務教育に組み込んじゃえばいいんじゃなかろうか。そうするときっと少子高齢化がさらに進み人口減少に歯止めが効かなくなり経済も回らず闇の博士課程を多くの人がトラウマとして植え付けられレジスタンスが立ち上がり文明は滅びやがて灰になり星に還りそして緑に覆われた太古の如き地球へと戻るだろう。


それでは。

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