どうせ2日で終わる日記【9日目】

今日はガストでナポリタンの上に巨大なチーズインメンチカツが乗ったおバカ飯(誉め言葉)食べたら見た目の五倍くらいにお腹が膨れてお腹壊しました(日記)。

今日の日記はこれくらいで終わらせてもいいのだが、それだけだとツイッターで書けばいいやろがいアホチンが!と怒られそうだ。
という訳でもう少し何か書くことが無いかと考えていたが、正直今思いついたのはクッソ汚い月食の写真を撮ったことのみだった。

これについて書こうと思っても、如何せん綺麗なはずだった月食が汚く撮れた、という事以上の話が広がらないし、僕は月食の話をしたいのにどうしてもiPhone夜の写真全部最悪みたいなiPhoneに対する文句しか出てこない為今回それに触れることはしない。まあiPhoneはもう少し夜のカメラ性能を何とかして欲しいとは常々思っている。何とかなる設定かガジェットかあるのだろうか?

そういえばここ最近何となく感じていたことなのだが、写真を撮る機会が異常に少なくなったように思う。
これは単純に写真を撮る機会に巡り合えない、という話ではなく写真を撮る機会に恵まれても写真を撮るという行為を行わなくなった、ということだ。
それこそ以前であったら外食をした際にはたとえファミリーレストランのメニューであっても写真に撮っていた。しかし今回冒頭で話したおバカ飯の写真は僕の手元にはない。つまりそういう些細な出来事の時に写真に撮る、という習慣が無くなったのだ。
以前、とはいっても去年のnoteにも書いたのだが、約二年間にも及ぶ長い自粛生活の中で、これまで何となしに行ってきた些細な習慣が消失しているのだ。
前回書いた曜日感覚は流石にそろそろ取り戻してきたのだが、家にこもりっぱなしで飯の写真など撮ることもそうそうなかったため、ご飯を食べて「写真を撮ろう」という思考になることがそもそも無くなってしまったのだ。

これは別に良い悪いの話ではない。
ただ単純に僕はこうした自身の変化というものに興味が惹かれる。
これは僕だけの変化なのだろうか?それとも他にも同じように感じている人がいるのだろうか?
iPhoneの写真を時たま遡って見ているのだが、ここ二年間とその前の二年間では明らかに写真の量が違う。
外出していないから、というのもまあまああるかもしれないが、それでは説明がつかない程差が開いている。
僕はこれも記録の性質、なのだと思う。
つまり、データが大量にある時期はそれだけ「データ集めに腐心していた自分がいた」ということが明瞭にわかるのだ。
写真も含め、データとはその中身のみが示すものが全てではないらしい。その存在そのものがまた新たなデータを生み出すのだ――何となくそんなことを感じた。

随分と深いような話になってしまったが別に対して深くない。
アルバムをめくると赤ちゃんの時の写真ばかりで年齢が上がるにつれ写真の枚数が少なくなっているのと似たようなものだ。「いやこの時期の写真少ね~~ww写真全然撮らなかったでしょww」という、誰でも認識可能なシンプルなものだ。
ただ、なんとなく抽象化してみるとそれっぽく聞こえるので、今日は良い日記が書けたと安らかに眠ることが出来る。
そういえば去年noteを始めた時もそんな感じ小さな感覚がコンセプトだったような気がした。たまにはこういう原点回帰も悪くない。

それでは。

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