どうせ2日で終わる日記-44-【2/28-3/6】

ども。
つい最近まで「いつになったら春になるのだろう」と体を震わせながらあれほど待ち望んでいた春が今週になり突然やってきた。
気温はぐんぐん上がり、昼間は暖房もいらないと感じるようになったのは良いことだが、気温と比例するように花粉が日増しでひどくなってゆく。
特に今年の花粉はひどく、窓を10分も開けていればたちまちくしゃみと鼻水が止まらなくなってしまう。
「春なんてくそくらえ!」と思わず叫ぶも、花粉の猛攻の前にはその言葉を発する猶予さえ与えられず、ただ涙が頬を伝うばかり。
地獄から地獄へと移り変わった今日この頃、お変わりなくお過ごしでしょうか。

……などという時候の挨拶があっても良いのではないだろうか、としょうもないことを考えていたら一日が終わってしまったおきあみです。
こういうくだらないことをだらだらと考え続けてしまうのも春のせいなのだろうか。きっとそうに違いない。そうだろう、春!

イメージの源流

ここ最近こんな本を読んだ――いや、読んでいる。

僕が小学生の頃、古本屋でたまたま見つけて読んでいた本なのだが、最近ふと本棚の隅にこれがあったのが目に留まり、読み返しているのだ。
今しがたAmazonのリンクを貼った訳だが、値段を見て腰を抜かした。
どうやら印刷数が少ないのか、2000年に出版されたこの本にはかなりのプレミア価格がついているようだ。
今ではそんなレアな本になっているとは思いもよらなかった。本来ならばスムーズに本の中身に入るはずだったが、あまりの値段にツッコまざるを得ず、話が逸れてしまった。

さて、値段の話は非常に気になるところだが、それは置いておいて、この本の中身の話をしたい。
先程も述べたように、この本は僕が小学生の頃親に古本屋で買ってもらった本だ。記憶が正しければ1000円もしなかった気がする。
その時から魚少年であり読書少年だった僕は、そこそこ分厚いハードカバーの本ではあったが、楽しんで読むことができた。
そして、ふとその記憶がよみがえり、大学も卒業しようかという今、改めて手に取ってみたのだ。

この本は端的に言えばタイトルの通り、熱帯魚好きの間では有名なカミハタグループの創業者、神畑重三の旅行記だ。
話は魚中心に展開され……ると思いきや、それ以上に現地との交流や苦労話、ちょっとした冒険譚などが中心に展開されるため、いたってオーソドックスな旅行記となっており、魚に詳しくなくとも楽しんで読むことができる、はずだ。
ただし、旅行の目的自体は魚の採集であるため、そういう意味では魚中心に話が進んでいると解釈できるかもしれないが、十数ページごとに大量の写真が掲載されているため、読むのに苦労は無いだろう。

読み始めたのが昨日のことなので、まだ読み終わっている訳ではなく、また一度読んだ内容なので新たな発見なども無い……と思っていたのだが、一つ驚いたことがあった。
それが、僕のイメージの源流がここにあった、ということだ。
イメージ、といっても具体的には南米やアフリカといった日本人にとっての所謂”秘境”という場所に対するイメージだ。
小さい頃からドラえもんが好きで愛読していた僕の”未来”に対するイメージの源流はそこにあると思っている。
それと同様に、そうした”秘境”に対するイメージの源流がここにあったのだ。
つまりこの本は、僕にとっての秘境の原体験だった。

今でこそ南米といえばアマゾンの熱帯雨林が広がり、高いアンデス山脈があることで高地の環境にも富んでいる……そんなイメージを知識として持つことができるが、それをグラフィカルに示したのがこの本だった。
まだ小学生で世界のことを何も知らない僕にとって、アマゾンがこれだけ河川に覆われて、熱帯雨林はこれだけ鬱蒼としていて、観賞魚として有名は魚は現地では食用魚で、南米北西部は治安が悪くて……といったような南米に対するイメージを始め、ここで紹介されている各地域の僕の持っているイメージとぴったり一致するイメージがここにあった。
一応補足しておくと、何もイメージに合致したからこの本が源流だ、と述べている訳ではなく、僕の記憶にこの本の鮮烈なイメージが読んでいくうちに蘇ってきたからこう述べているに過ぎない。
ともかく、僕のイメージの源にこんなところで出くわすとは思ってもみなかった。

小さい頃からの読書は後の人生で役に立つ、と人は言う。
勿論僕もそれには賛成しているし、実際受験期に現代文はほとんど勉強をせずとも問題無く、論文も比較的スムーズに読め、クイズで活きた知識もあるため、後の人生で小中学校時代の読書量に助けられた事実は数知れない。
しかし、小さい頃の読書を有用性のみにて語るのは些か不十分であり、本への正しい姿勢だとは僕は思えない。
本が与える最も大きな影響は、自身の記憶における世界の形成だと思っている。
この場所はこういう場所で、この人はこういう人で、こういう言葉がこういう相手にそういう影響を与えて……という具合に、ボヤっとしている世界に対するイメージを鮮烈な画像や動画として残してくれる、文字から映像へとそのイメージを変換し記録してくれるのが、小さい頃の読書の最も力強い部分であると思う。
こうしたイメージが出来上がると、大抵の場合その源流自体は忘れさられ、いつの間にか自身の世界で完結したイメージが出来上がる。
勿論僕はそれでいいと思う。そうして出来上がった世界にとっては、どこからその知識を得たのかはさして重要では無く、どんな世界が出来上がったかが重要だ。
それがどれほど鮮烈で、繊細で、連続で、巨大か。それを支えるのが読書であり、まだ不完全で柔らかい粘土のような世界しか持たない子供が読むことでその世界を著しく発展させることができる。
そういうことが、小さい頃の読書が肝要であると言われる所以なのではないか。
……まあ、今何となく思ったことを書いただけで別に常日頃こんなことを考えている訳ではないのだが、こうして適当なことをベラベラと喋ることができるのも読書のおかげなのだろうか。


今日は日記の事をすっかり忘れてSAKAMOTO DAYSを読みふけってしまったので短めになってしまった。
ここ最近時間感覚がおかしくなっているようで、どうも休日と平日の区別がついていない。
この日記があったからなんとか曜日を思い出せた訳で、そういう意味では僕の正気を保ってくれるのはこの日記だけなのかもしれない。


それでは。

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