もう一度聴かせて #創作大賞2024
-①-
文香はその夜、幼い時によく見た夢を見た。
文香が父親の首を信じられない力で絞める夢だ。
父親は無抵抗のまま力を込められた首から何とも言えぬ音だけ鳴らし、目を見開いて視線だけが合う。
真っ白なノースリーブ、くるぶしまで丈のあるワンピース姿。
首から上は見えないのだがそれでもその女性が自分だと分かる夢。
今年初めての台風が日本列島に直撃をして蒸し暑く、寝苦しい夏の夜の事だった。
県内外でも有名な進学校。
今時珍しい私立の中高一貫の女子校に文香は通っており、6年間通った学校最後の夏休みを迎えて居た。
お気に入りのクラシックなデザインの夏物のセーラー服とも、学校が始まればあっという間にお別れな事が文香を大学受験より憂鬱にさせて居た。
それでも朝が来れば受験勉強の為に学校と同時刻には塾へ向かわねばならない。
起きる際、目覚まし時計のアラームの必要は習慣により無かった。
夢見も悪く、相変わらず降り続く雨の中、いつも通りAM6:00、文香は愛着湧いて使い続け、色が濁り始めた白の綿の夏掛け布団を勢い良く身体から離し起きる。
チェックのパジャマからデニムとTシャツへ着替えを進めている時、そこでようやく文香は起きてから一度も音を自分が認識して居ない事に気が付いた。
クローゼットを何度も開け閉めしても、メイク用品が入るチェストの引き出しを何度も開け閉めしても、降り続く雨に窓を開け放っても、問題集を机から一冊づつ床へ叩き付けても、両耳は静寂なままで有る事を行動の一つ一つが文香へ知らしめた。
前兆も無く訪れた絶望は文香の心を折るに充分過ぎた。
その場でパジャマ姿へ戻り、ベッドに潜り込んで塾の連絡mail先へ仮病を使い目眩が酷いと言う理由を付け、場合によっては数日間休む旨を送信した。
学校も塾や以前していた習い事も皆勤賞を通す健やかさが自慢の文香にとって、休みの連絡一通が罪悪感で全身を纏った。
文香の住む広い一軒家には文香一人しか住人は居ない。
両親は高校に進級した春、二人揃って交通事故で天に召され、それにショックを受けた同居して居た父方の祖父母も相次いで呆気なく後を追う様に天へと向かった。
母方の祖父母は文香が生まれる数年前には双方共に他界して居り、兄弟の居ない文香は天涯孤独の身と成って居た。
幸いにも遺された財産と自宅を予め、生前弁護士に文香が成人する迄を護って貰う為の手続きを祖父母がして置いてくれ、加えて生活能力を厳しく幼い頃から躾を施されたお陰で、文香は一人でも不自由を感じる事も無く、時に寂しくも生きて行けて居た。
しかし、今回の件は風邪を引いた等とは全く意味合いが異なる大問題で、ベッド上でみの虫みたく夏掛け布団を身体に巻き付け、文香は固まったままで身動きが取れずに居た。
これほどまでに恐怖心と不安感に苛まれる事は初めてだった。
自分の声すら耳を澄ませても文香自身には届かない。
まるで赤の他人の身体へ魂だけ入り込んでしまった様な気持ちに成った。
泣く事さえ出来ず、呆然とするしかない自分が虚しかった。
みの虫姿から脱出し、2階の自室から1階のリビングへ向かった時にはAM10:00を回って居た。
ソファーへ寝転び、スマホで自身に起きている耳が聴こえない原因や今後の見通し、治るのか否か、通院をするべきかを調べる。
生憎近所の花粉症で行きつけの耳鼻科は本日診療定休日。
何とか今の自分に出来る事が有るなら、そして何より不安感を諌めたかった。
突発性難聴と言うのが当て嵌る感じがしたが、前兆の無い点が引っ掛かったりし、結局スマホ相手では得たい結論は手に入らない状態で、明日耳鼻科で詳しく診て頂く事に決め、その場でネット予約を入れた。
今出来る、やるべき事は行った。
それでも心は沈んだまま。
寂しさと孤独感、恐怖心の塊に押し潰されそうで深呼吸を何度も繰り返した。
ふと隣の畳の部屋にある仏壇が視界に入ると、ソファーから文香はヨロヨロと立ち上がり、仏壇前で正座をし、仏壇の中にある六つの位牌に向け手を合わせてからお線香に火を付けて手向けた。
藁にもすがる思いで自分には聴こえないまま、位牌相手に不安感を口にする。
『パパ、ママ、おじいちゃま、おばあちゃま、助けて下さい。
私の聴力を奪わぬ様に助けて下さい。
怖いよ、独りで耐えられる自身が有りません。
皆んな、傍に居てよ、独りは辛いよ。
お願い助けて……』
文香は自分の両頬に雫が落ちては流れるのが止まらない事に身を委ね、その場で寝転び天井を仰ぎ見てからまぶたをそっと閉じた。
ようやく涙を流せた事、不安感を口に出せた事で肩の力が少し抜けたのか、文香はいつの間にか鼻をグスグス言わせながらも柔らかい寝息を立て始めて居た。
文香が目を覚ますとお昼の12時をとっくに過ぎてPM13:00に近かった。
流石にお腹減ったな、と思いながら立ち上がろうとした際、文香の目に古びたアルバムが数冊止まった。
今すぐにでも見なければと衝動に駆られたが、そこはグッと我慢してお腹を満たす為にキッチンへ向かった。
文香は昨夜大量に作り過ぎたカレーを冷凍庫から取り出した。
一人暮らしも3年目に入ると、一人前の適量を上手く買い物して朝夕餉とお弁当等をいい塩梅に作れる。
しかしカレーやシチュー等の大きなお鍋でじっくりたっぷり作ると美味しさが倍増する気がする物は冷凍して保存も効く為どうしても多目に作ってしまう。
作るのが面倒臭い時に冷凍庫にこれらが鎮座していると更に美味しさは有難みと共に倍増する気がする。
今日も有難く冷凍して置いたご飯とカレーをレンチンして、カレー用にらっきょう、きゅうりとトマトとレタスをざっくり切ってドレッシングを掛けた即席サラダでお昼ご飯にした。
用意時間と食べ終わる時間が同等位な事に気付き、文香は自分のこんな時でも食い意地が健在な事に今日初めて思わず吹き出す様な笑顔と成る。
文香は食器類をシンクで水に浸け置きにすると、畳の部屋に直行し、仏壇下のアルバムを全て出した。
それ等は母が整理したのだろうか。
アルバムは一冊づつ微妙に布地が異なる装丁のしっかりとした物だった。
母方の祖父母の物には各々の生まれた年月日と没日が名前と共に刺繍されていた。
父方の祖父母と両親の物も各々の生まれた年月日が名前と共に刺繍されていた。
没日だけが記されて居ない事に、文香の胸は冷静さを取り戻すかの様に鼓動が静に成った。
作った母はまさか自分がこんなにも早く逝かねば成らないと考えもしなかっただろう。
祖父母だって息子の死が自分達の生命の時間を短くするとは思いもしなかっただろう。
文香自身、たった16歳で天涯孤独に生きる事と成るとは予想だにしなかった。
そして、このアルバム達の中に自分の物が存在して居無い事に少し傷付いた。
一先ず自分の傷付いた心は後でケアをする事にして、と言うか、自分のアルバム探しもしてみようかなと考えを前向きにし、目の前のアルバム達のページを開く事にした。
それにしても、この3年近くもの間、毎日仏壇前で手を合わせ、時には話し掛けて来たにも関わらず、このアルバム達の存在にどうして気付け無かったのだろう。
自分の狭まった視界に驚く気持ちと申し訳無く思う気持ちに文香は揺れた。
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