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ネガティブな気持ち

ご家族さまを亡くされた方のご遺族のために、定期的に訪問をすることがあります。

それは診療としての訪問なので、カルテ記載もしながらのお話になります。

ご家族を亡くされて間もないころは、生活そのものが成り立たないほどの悲しみがある場合もあります。


そのようなときはどうすればいいのでしょうか。


私は以前グリーフケアの勉強を始める前はいろいろアドバイスをしておりましたが、どうにもアドバイスは意味がないように感じておりました。

そこで、グリーフケアを教えておられるお坊さんにお尋ねすると「お話をひたすら聴くことです」とおっしゃいました。

「グリーフ『ケア』であって、グリーフ『治療」ではないのです。』とのことでした。

なるほど…目からうろこが落ちたように思いました。


何か良いことをお話ししようとしなくていいのだ、というか、そのようないいお話をすることは意味がないのだ、ということです。


「寄り添う」と皆さんおっしゃいますが、寄り添うってどうすることなのでしょうか。

「頑張ってね」と声を優しくかけたら「寄り添っている」という気持ちになりますよね。そういうことでしょうか。

寄り添うというのは動作とすると「聴く」と「待つ」だと思います。

相手のいう言葉を聴く。それはただ「ふんふん」聴くだけではなく、相手のお話をしっかりと認識しながらの聴き方です。

具体的には反復を使いながら聴くと、聴いてもらっている人は「ああ、わかってもらえた」と感じられるようです。

そして「待つ」のは相手の気持ちが出てくるのを待つ、相手の言葉を待つ、日常生活を取り戻す気持ちが出てくるのを待つ、などですが会話の上では、沈黙を用いて相手の言葉が出てくるのを待つ、ということをします。


ここで「聴く」「待つ」どちらもとても消極的な態度だと感じられるかもしれません。こちらから言葉をかける、こちらから何かを誘いかける、そんな「何かいいことをしたい」ということは求められていないということなのです。


寄り添う、ということは「聴く」と「待つ」だといいました。寄り添うというと「私、『前向きにやっていくことが供養ですよ』『泣いてばかりだとご本人が成仏できませんよ』ってご遺族さまにお話しするのです」などということもあるかもしれませんが、これは全く寄り添にはなっていないと思います。

泣いてしまう、悲しい気持ちをお話しされる、それはとても自然なことです。

そして、このようなネガティブな気持ちが出てくると私は「大切な気持ちが出てきたな」と思い、丁寧に反復をしてお聴きします。

「自分も早く死んでしまいたい」と言われたら「ご自身も早く‥‥。そう思われるのですね。」と反復しています。すると「そうなんです」と、ご自身の気持ちをわかってもらえた、と感じられるお返事をいただけます。

このネガティブな気持ちが出るのは自然なことです。そしてこの気持ちが出るときは、回復の一歩を踏み出すことになるのです。ですから私はこのネガティブな気持ちが出てくるとよかったと思います。

ご家族が亡くなって悲しいと思う気持ち、それは自然なものです。

私はこれを「心のウンチ」と呼んでいます。

生きている人がウンチをするのは当たり前です。体調が悪くなってウンチが出ないと病院では心配されます。そしてウンチが出ると、医療職は喜びます。

ウンチが出たら喜んでもらえた、といって、ご家庭でもウンチが出たのをご家族に見せたならば「ちょっと、もうー、やめてよー。」と言われることでしょう。

ウンチが出るのは自然なことだし、ウンチが出なくなっていたのが出れば医療職が喜ぶのですが、ご家族に見せると嫌がられます。

このネガティブな気持ちも同じです。つらいことがあってネガティブな気持ちが出るのは自然なことです。心が弱ってくると、このネガティブな気持ちをうまく出せないことがあります。そして、ネガティブな気持ちを出すと、医療職は喜びます。でも、ご家族に何度もネガティブな気持ちを伝えると「もう、いい加減にしなさい」と言われてしまいます。

心のウンチであるネガティブな気持ち。これを聴くのがグリーフケアだと思います。

そして、「前向きに頑張ろう」という声掛けは、ネガティブな気持ちを受け止められない人が「そんな言葉を言ってはいけない」と、相手の気持ちに蓋をすることなのです。

「寄り添い」に前向きな言葉は必要ではありません。むしろ、ネガティブな気持ちをそのまま受け取ることが大切です。そうして、自分の気持ちをしっかり受け止めてもらえることが大切です。

人がグリーフから回復してくる過程の中で「悲しみの気持ちをしっかり味わい、消化して、自分の一部になってしまうほどにする」というものがあります。

人は悲しみと一つになり、悲しみを得る前の自分とは違う自分になってまた新しい自分を生きていくのです。悲しみを乗り越える、という表現がありますが、悲しい出来事をよっこいしょと乗り越えて、それを置き去りにしてぐんぐん進んでいくのではありません。

悲しみの荷物を背負い、日常を取り戻しながら悲しみとともに進んでいくのです。

そして時に荷物をひろげてまた涙して、ひとしきり泣いたらまた大切に風呂敷に包んで荷物に載せて歩いていく。何度かこのブログでも書いておりますが、悲しみがあっていいのだ、悲しみとともに生きていくことが自然なのだ、ということです。

そして支援者としてはこちらからいいことを言おうとしなくていい、ただ、相手の気持ちをしっかり聴くことがたいせつなのだ、ということです。


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