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「歌」は「詠」になるというお話

NY修業時代。                                     耳にタコができるといわんばかりに。                                    jazzが歌いたいなら生涯訓練を怠るな                          

と言われ続けたのが「米語力」。


ここでいうMOMOSEさんが師匠に言われた米語力とは                                               「楽曲の背景の解釈」と「米語ネイティブ発音」のこと。


Jazzは、いわばアメリカ文化、歴史を喜怒哀楽の感情で奏でるジャンル。背景には、自由を掲げる国の中で起こっている人種の葛藤、差別や階級といった不自由を訴えてる闇世界が見え隠れしているわけです。その見え隠れした部分をできる限り正確に。できる限りの感情で奏でる「スキル」がマストになってくるわけです。

特に。シンガーというポジションは、ほかのセクションのプレイヤーとは違い、唯一「言語」と「感情」を音に乗せて伝える役割を担っています。ゆえに、作品の感情と背景を読み取る力とその意味を伝える適格な発音力がダイレクトに問われるポジションでもあるわけです。

中でも、訛りには特に敏感で。基本、曲そのものが持ってる世界観を語尾の発音ひとつでぶち壊すことはタブー中のタブー。地方出身のシンガーはこの言語の壁を超えるだけでもかなり苦戦したりするわけです。

例えば。                                                         

ニューヨーカーの米語は良いけど                                                                          ニュージャージー訛りの米語はどうなんでしょうね。 

といった言語分野の細かいチェック項目から

黒人の背景を歌った曲を白人が歌えるわけがない。                                     ましてや母国語を話さない外国人がにわか発音で歌えるわけがない。    

みたいな、文化の壁問題までもが抑圧としてのしかかってくれば、発展途上中のプレイヤーとしては、こんな厳しい外野の声を聞くたびに思いきり凹むわけです。

あ~だめだ~~

あかんわ~~

まだまだだわ~~と。 


しかしながら。


楽曲を書いた作家の意図、思惑、時代背景といった表層意識を頭で理解し、ネイティブスキルおしで表現できるようになれば合格圏内なのか?というとそれは全く別の話。

Jazzを歌うとは実のところ「人間力」が要だったりするのです。

楽曲を的確に表現する、正確に発音するといった、クオリティが高いところに常に位置しているのはプロとして必須なスキル。                                         

ただ、そもそも母国語でもない異国の言葉をネイティブレベルに近づけて表現するというポイントだけに集約し拘ってると、楽曲のエネルギーが十二分に発揮せず、それどころか作品の存在感そのものまでもが薄れてしまうということが起こるのです。実のところ。ここ。以外と気が付いていないプイレイヤーも少なくないのです。

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Jazz本来の面白さというのは、奏でる「人」の人間味が掛け合わされることで初めて「伝える」という力が加わり、なおかつ、本来の表現の自由そのもののベーシック部分が息づいてくるのです。                                          

プロとしてひたすら真面目にスキルを磨きクオリティをあげていくことは大事なこと。                              ただ、クオリティばかりに目がむいてしまう演者になってしまうと、作品の世界観はおろか、演者の人間力までもが薄れた状態でオーディエンスに伝わってしまうのです。

どこかオートマチックに感じるプレイだな~とか。              やたら凄いんだけど何か足りないね~あの演者さん・・

といった、本来音楽の中にあるべき人間臭さや面白味といった「愛」の部分が見えてこないということが起こるわけです。

かくいうMOMOSEさんも修業時代は、血の気も荒く、スキルばかりを磨くことにフォーカスしておったわけです。その時に見えていた世界は、所謂「カッコよさ」「スタイル重視」な世界観オンリー。

当然、作品に込める「愛」の部分を完全にはき違えたうえにスルーしたまま歌っているわけです。言うなれば、ほぼ自己満のてい。「愛」なんてものは微塵のかけらもない言うなれば中身の全くない歌なわけです。

 でも、ある日、気が付くわけです。

あれ?なんか自分の歌、歌えば歌うほど、歌ってて気持ちがはいらん上に、ちっともあったかくもならんと。自分はいったい何に向かって誰に何を歌っているんだ?と。

 その時。師匠がいうわけです。

米語力を磨くことの意味をはき違えてはだめだと。

正確な発音や作家の意図ばかりを重視するシンガーよりも、言語の訛りの良さを敢えて作品の表現として生かすシンガーのほうが、リスナー(聴き手)の心をぐっと捉える歌に聞こえてくるものだったりする。

だから、日本人として歌いなさい。アメリカ人にならなくていい。と。

 

   目からうろことはこういうこと。


言葉というのは、感情をいかに近い感覚の言語にあてがって伝えるための「代理」的なもの。

その言葉だけにこだわり、言葉そのものが持っている背景も、自分自身の人生の背景までもスルーした状態で、上っ面のスキルごときで人様に何かを伝えたいだなんてのはおこがましいにも程があるわけです。

 作品に対する愛情のかけ方を間違えるとはこういうこと。

「楽曲の背景の解釈」×「米語ネイティブ発音」×「シンガーの人生背景」

この3つが揃ったとき、はじめて自分が歌った歌が人の心に響く「詠」となる。  

 まさに字のごとく。言葉が永遠になる。

伝えることの難しさ。これが師匠の言う「米語力」の神髄だったということをMOMOSEさん36歳の時に学んだわけです。

以来。

                                   日本人が歌えば日本人のjazzの世界ができあがる。いたってシンプルに。                       これでよしとしております。 

                                                                                                                                   スキルを磨いたものには磨いた年数分だけ、演者自身の人生を進めてきた時間分だけ、喜怒哀楽が豊かになって「音」にのっていくもの。

音楽は蘊蓄も理屈もいらない、本来、演者も聴き手もただただ感じる世界でいいのです。

いつもナチュラルに。しなやかに、風が吹くままに。スイングするような日常の中の人生を歌うように過ごしていければよいなと。

MOMOSEさんはふわっと思っておる次第というお話です。

 

     

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