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江戸散策 第三回「種徳寺」(続続<時に海を見よ>)

 赤坂五丁目の交番で種徳寺の場所を聞いたら、交番の前に案内板があるからそれを見てほしいと素っ気ない。案内板に種徳寺の名前が見えないのだ。
 三分坂を右手に細い小路を少し登ると左側に広い境内が見えてくる。今はだいぶ縮小されたが、江戸時代の種徳寺の広さは、この周辺では随一の規模を誇った由緒ある寺だ。
『江戸名所図会』には、報土寺に並ぶように種徳寺の総門があり、前には、武士や町人が歩く。正面が本堂、右手が庫裡、左手に塔頭、石塔があり、医王水と記された井戸が描かれている。
『図会』の刊行は、天保5年(1834)。江戸の名所、旧跡、著名な寺社を描いたもの。18世紀後半、江戸でも屈指の大寺であったことを示したものだ。解説には、「當寺は大徳寺派の禅園にして昔は相州小田原にありしを天正十九年糀町に引き後又當所に移さる」などとある。禅寺である。小田原の北条氏ゆかりの寺で、開基は北条氏綱の弟綱成。北条氏は赤坂と関連が深い。(因みに大河ドラマの北条のことではない。)
 北条氏綱は、戦国大名小田原北条氏の二代目の当主。父は、初代の伊勢宗瑞(北条早雲)、子には三代当主の北条氏康がいる。早雲や氏康に比べれば、やや知名度は低いかもしれないが、北条と改称しその名を知らしめ、関東一円を領有し一時代を築いた人物である。大永4年(1542年)小田原勢三千余騎は、渋谷方面に陣を敷き、上杉朝興の江戸城を攻略した。「その後江戸城に打ち入、敵首ども実験ありて、一ツ木原へ旗ども打ち立て、法の如く勝鬨(かちどき)を上げる事三ケ度なり。」(『相州兵乱記』)とある。太田道灌が築城して67年後江戸城は一日で落城し、勝利の勝鬨を赤坂一ツ木で上げたのである。
 寺の文化財の一つに「北条氏の検地帳」(港区教育委員会編『港区の文化財・第5集』昭和44年に掲載)がある。検地帳は土地台帳で田、畠、屋敷、作人などが記載されている。種徳寺のものは、天文19年(1550)相模国足柄郡のもの。中世末の武家支配の実態を探るうえではまことに貴重なものだ。文書の最後には、有名な北条氏の「虎」の朱印が押されている。縦横7.5センチ、方印の上に「虎」がうずくまり、印文は「禄寿応穏」とある。虎は領民を守る為政者の権力シンボルであろうが印文と和して考えれば領民の安泰を意味しているのであろう。
 境内の井戸は、霊泉「医王水」。井戸のそばの石碑は元禄十二年と刻まれているはずだが、背面は摩耗していてよく見えなかった。
 本堂左のやや急な石段を上って墓所をめぐった。今こそビルの谷間のようなところだが、以前は見晴らしの良い、赤坂の岡といった雰囲気であったに違いない。
 墓域には、大名家の墓が多い。大溝藩主分部家・黒羽藩主大関家・須坂藩主堀家などだ。これほど立派な大名墓が集まっている寺は、都内では稀有なのではあるまいか。この寺には、天皇の綸旨も数種残っていると聞く。格式の高さを示しているのであろう。
 若い御住職の導きで長崎奉行渡辺永倫(ながとも)の墓が見つかった。墓碑正面には「享保十四乙酉 霊臺院殿前太守忠岸随節居士 五月十三日」とある。背面及び側面には、彼の事績がびっしりと刻まれている。長崎奉行の第一級の資料である。生まれは寛文九年、六十二歳の時に亡くなった。おそらく奉行としての多難な業務で心痛が重なったのであろう。永倫は、享保2年(1717)長崎目付となり「西海唐船打取検使」として活躍する。しかし逃げる唐船を追わず弱腰の処理と批判された(『江戸幕府と国防』講談社選書メチエ)。弱腰ではあるまい。防衛第一の平和主義者とも思えるが……。その後享保12年(1727年)から同14年まで長崎奉行に在職。この時に交趾国(ベトナム北部)から象がやってきた。八代将軍徳川吉宗のたっての希望によるものだ。この時の受け入れ、移送の総責任者が渡辺永倫だ。象は人々の熱狂的な歓迎を受け江戸にのぼった。今のパンダ歓迎の比ではない。何しろ京都では天皇に謁見、従四位を授けられ……?、深く鼻を垂れ一礼したと云うのだ。
 名墓は狩野興以の墓。江戸絵画の世界で興以の名を知らぬ者はいないであろう。狩野光信の高弟で、江戸城・二条城・高台寺・等持院など、桃山から江戸初期の著名な障壁画の制作に関与し、狩野探幽・狩野尚信・狩野安信三兄弟の養父の役割を果たし、晩年には最高位の法橋の位も与えられた。紀州徳川家の御用絵師でもあり、その跡を長男が継いだ。次男は水戸德川家、三男は尾張徳川家のそれぞれ御用絵師となっている。狩野派の大立者だ。水墨画の展示会などがある時にはぜひ注目してほしい人物だ。興以の子供と動物の絵は実に可愛い。
 帰路、北条の印文が浮かんだ。「禄寿応穏」は、民の禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべしと云った意味。織田信長の武力を以って天下をおさめる「天下布武」の印とは大違いだ。
 北条氏の家訓もなかなかいい。<勝って兜の緒を締めよ><役人は身を慎め><上に立つ者は清貧であれ><身分にかかわらずすべての人材は必要な存在である>などとある。
 もう一つ気にいった家訓は「酒は朝酒」というものだ。夜に飲む酒は深く酔ってしまう。朝にちょいと一杯ひっかけるのは、健康にも、気分昂揚、景気づけにもいいと云うのであろう。
 温泉の朝風呂あがりに、冷酒をひっかけるなんぞは実にいいものであった。
 種徳寺の墓群は、東日本大震災以降だいぶ荒れている。港区でも主導し文化財の保存を急がねばなるまい。観光案内板への記載はもちろんである。

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