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江戸散策 第四回 神田ぶらぶら(続続<時に海を見よ>)

 JR総武線浅草橋駅で降りて、神田川の土手を秋葉原方面に向かって歩く。
 この土手にそった町は、江戸時代の初めには、武家地が広がり、中期になると、町人の町へと変わっていった。
 「柳原の土手」辺り、古着を扱う露店が並んでにぎわった。古着の店が閉まり、露台が片づけられると、夜には袖を引く夜鷹の巣となった。黙阿弥「三人吉三廓初買」のセリフに「金を受け取り帰る道 柳原で袖引かれ、思わず遊んだ夜鷹小屋」などとある。
 古着屋・夜鷹小屋の並ぶ少し前である。
 明暦三年正月の火事は、江戸中をなめつくした。
 世に云う、明暦の大火である。
 その後、一月もたたぬ二月十日朝、この辺りの土屋民部利直の仮屋敷、で「火の子」が生まれた。後の新井白石だ。
 白石の父正済は、土屋家の足軽小頭。主人利直はおさな子の異相を見て、これをかわいがり、戯れに「火の子」と呼んだ。明暦の大火の落とし子と云った意味もあろう。
 白石、長じて眉間の皺が火の字をなし、「火の精」などと呼ばれた。
 和泉橋の柳原土手の碑を見て、水天宮通りを南へ。右に曲がって細い路地に「繁栄於玉稲荷大明神」の赤い旗ははためいている。小さな祠でちょっと見過ごしそうなお稲荷さんである。『江戸名所図会』では、植えた桜が池のほとりを囲み、お玉と呼ばれた少女が茶をたてている。この少女の悲恋物語を語り継いだ場所だ。初めは不忍池よりも大きかったというが、江戸時代には、池も小さくなり名残を少しとどめる程度であった。 
 ここには江戸文人カルチャーサロンとでも云えそうな雰囲気があった。
 まずは、ご存じお玉が池の千葉道場である。私などには、<お玉が池>は、マンガの赤胴鈴之助が通い、千葉周作の娘(吉永小百合のラジオ初出演)との淡いラブロマンスの場所のような気がして懐かしい。
 千葉周作には、剣術指南のみではない、水戸藩お抱えの思想家といった雰囲気がある。桜田門外における井伊大老襲撃事件の背後には、千葉周作の影が見え隠れする。
 千葉道場の隣にあったのが、東條一堂の開いた儒学の「瑤池塾」。周作と一堂は、昵懇で、「お玉が池」に行けば、文武両道を学べると若者が集まった。門下三千、中には、坂本竜馬・清河八郎など維新の志士も多い。竜馬は、周作の弟の弟子であったようだ。
 お玉が池は、江戸漢詩壇の俊秀が輩出した、市河寛斎によって、天明七年(1787)に始まった「江湖詩社」の有った場所だ。寛斎は、昌平黌の教官であったが、松平定信の寛政の改革に際して職を辞して、この詩社を結成した。
 寛斎の詩集に「詩を論ずれば心師となる」、又「相ひ値ひて席を争ふを休めよ」の言がある。
 詩を論じることは、師弟の関係を作ることではない。議論は序列を決するものではない。自らの心が師となるのである。文学の自立が自由をかなえさせると説いた。
 この門下から、抒情豊かな放浪詩人柏木如亭、全国規模の詩壇ジャーナリズムを形成した菊池五山、詩界の寵児ともてはやされた大窪詩仏等が生まれたのである。
 殊に、柏木如亭は、幕府小普請方の息子、神田で生まれた神田っ子である。
 讃岐生まれの鬼才平賀源内は、江戸の町を転々としているが、神田との関連も深い。矢田挿雲は、『江戸から東京へ』の中で、「神田っ子の帰化人らしくていい。」と称賛している。源内は、初め聖堂の昌平黌に寄宿したが、次に神田鍛冶町、神田白壁町と移り住み、最後は、神田橋本町に住んだ。源内が、殺傷事件に巻き込まれ、獄中で亡くなったのは、安永8年(1779)51歳。
 この時、柏木如亭は、17歳である。父の死により大工棟梁の職を継ぎながらも<遊情>堪えがたき煩悶の日々を送っていた若き日の如亭は、源内の狂気を神田地内の身近で受け止めていたのである。
 「江湖詩社」門中で当時の詩壇のアイドル的存在ともいえる成功者は、大窪詩仏だ。随筆『ありやなしや』は、詩仏が、お玉が池に建てた「詩聖堂」の文政年間の盛況の様を記す。
 「お玉が池のうちなれども、詩聖堂と云は二階屋にて、上は塾生、下は家内の住居なり。お玉が池三四百坪の地にて、蓮をうえ、柳を植え、池のほとりに翠舎屠蘇といふ一室を作り、はき庭の体にて、飛石伝ひ十五六畳の座敷あり。先生それに住して来客に接し、人のもとめに応じて書画を揮毫す。・・・」などとある。
 「翠舎屠蘇」。「緑の屋根の幸せレストランバー」とでも云おうか。詩仏は、ここで列をなすファンにサイン会を開いたのである。男性のみならず女性も交じり、食客・塾生10余人、専門料理人も置いた。詩仏の年収は、三百両から四百両。ざっと五千万円弱というところ。馬琴をはじめ戯作者連中の売れっ子の約十倍はあろう。文芸の質が違うのである。ここは、江戸のメインカルチャーなのだ。
 お玉が池に喧騒に近い活況の文人サロンがあった。安政5年には、この地に江戸の蘭学者が資金を出し合って、「種痘所」も開設された。その石碑もある。
 今も、「お玉が池」は愛されている。金山神社の斜め横、「お玉湯」。ビルに埋もれたような銭湯だが、どっこい神田っ子生きているみたいな雰囲気がある。小ざっぱりした銭湯だ。臍の上までの深い湯船の脇には「埋め過ぎ注意」とある。神田っ子は熱めの風呂が好きだ。
 因みに、江戸では、自前の井戸でも持っていない限り、かなりの大店でも、又大名屋敷の組屋敷程度でも、家に風呂はなかった。
 坂本龍馬等、千葉道場に通う者も、「江湖詩社」「詩聖堂」の面々も、蘭学者たちも、漢学者梁川星巌によって建てられた「玉池吟社」の人たちも、さらに云えば、逮捕直前の三日前にコレラによって死亡した、星巌と交遊をもった、安政の大獄の対象者、吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲浜・橋本左内そしてもちろん同じく獄に繋がれた星巌の愛妻紅蘭も、この辺りの銭湯に通ったに違いない。
 桜田門外、井伊大老斬殺の背後にある千葉道場の若者と安政の大獄の犠牲者とは、一緒に風呂に入っていたかもしれない。桜田門外の変は、風呂仲間の仇討かも知れないなどと空想をめぐらす。
 この辺りは、昭和通りが分割した感じになっているが、東紺屋町。紺屋町は、江戸名物藍染の浴衣と手拭で知られた所。そして、講談や落語でおなじみの紺屋高尾と染物屋の職人久蔵が、晴れて夫婦になり所帯をもったのが、紺屋町三丁目。吉原の遊女高尾には、何代かあるが、紺屋高尾は、元禄・宝永の頃に全盛を誇った吉原の花魁。神田の銭湯でなら、湯上りの浴衣姿の高尾に会えたかもしれない・・・。
 昭和通りを渡ろうとすると、東紺屋町の町名由来案内板がある。粋な纏をデザインしたものだが、何ともバックの首都高速が無粋。
 乗り物職人の威勢のいい声が聞こえて来そうな北乗物町を過ぎて、神田駅。電車の下に「北白壁通り」とある。
 かって平賀源内が、この辺りに住んでいたことは記した。コスプレ繁盛、大森彦七ならずとも、化け物に食べられたくなるような町だ。好奇心の塊であった平賀源内の好きそうな町である。
 神田駅から、外堀通り、淡路町の手前、神田司町二丁目に、江戸文化愛好者には、必携の『江戸名所図会』の編纂者斎藤月岑(げっしん)の顕彰碑がある。斎藤家は内神田雉子町に住み、江戸初めからの名主で月岑は九代目。正真正銘生粋の江戸っ子。この周辺、六か町を支配し、町内見廻り、町触れの伝達、証文の奥書・加印などを取り仕切った。自治組織江戸の町内会、今でいえば都議会の大物ドン。趣味人、歴史好き、文化振興には、金を惜しまない。顕彰という文字に値するのはこの人を於いて他にない。江戸およびその近郊の絵入地誌『江戸名所図会』は、斎藤幸雄(長秋)・幸孝(縣麻呂)・幸成(月岑(げっしん))親子三代にわたって四十年以上の歳月をかけようやく刊行(天保五年)された労作である。六百五十景にも及ぶ挿絵は、長谷川雪旦。旅のスケッチ画家の巨匠。雪旦もお玉が池周辺をぶらりとしていた文人である。
 「江戸百景」に描かれた湯島の聖堂の塀は、今の位置より少しお茶の水駅よりにあった昌平橋からの眺め。
 昌平橋通りから、神田明神下、妻恋坂の手前を右折すると、芳林公園。この地、同朋町に、曲亭(滝沢)馬琴が、約五十坪の土地を二十両で買い上げ、家の造作に二十五両、何や彼やで、五十両ほどで建築途中の物件を買ったのは、文政元年七月。
 病弱、神経症の息子宗伯の医者開業の準備にと買ったのである。ここには、癇癪持ちで先夫を追い出したと云う妻お百と宗伯を住まわせ、自分は、婿入りした、九段下の十坪に足りない下駄屋の二階に長女と住んだ。馬琴がここに移ったのは、文政七年、馬琴五十八歳。孫のために買った、信濃町に移ったのは、七十歳。二十年近くこの地に住んでいたのである。
 息子のために家を買った馬琴は、次に嫁をと、越後十日町の「北越雪譜」で著名な鈴木牧之のもとに次のような手紙を書いている。息子への溺愛に溢れたもの。以下は私の超現代語訳。
 「悴宗伯は、まじめ一方で、文才はありません。今年で、二十二歳になり、療治の腕前はそれなりですが、親子とは云え、生活のパターンも違いますので、同居をしましては、息子の自立にもよくありませんので私とは別居するつもりです。神田明神下のあたりに、いい売家物件がありまして、その相談で忙しい日を過ごしております。・・・ところで、大変厚かましい話ですが、そちらの方に、貧しい家の出で、江戸に住みたいと云った娘さんはいらっしゃらないでしょうか。そんな人がいましたら息子の嫁にと思っております。正直者であれば他に望みはありません。江戸の娘は、どうもすれっからしばっかりですので安心が出来ません。とにかく育ちのよい娘さんをご紹介ください。よろしくお願いいたします。」
 この結婚話はうまくいかなかったのは、馬琴にとって幸いであった。息子宗伯が、結婚したのは文政十年、相手は医者の娘、路であった。宗伯が亡くなったのは、天保六年、馬琴は六十九歳であった。この時すでに右眼を失明、路の手助けなしには、執筆は不可能であった。両眼を失明したのは、七十四歳、その一年後の天保十二年、路の口述筆記によって、『八犬伝』はようやく完成する。この年、妻百が亡くなり、隣地に住んでいた国学者屋代弘賢が亡くなり、宗伯とともに絵を学んでいた渡辺崋山も亡くなった。茗荷谷の深光寺には、滝沢家一族の墓が沈黙して並んでいる。
 晶平坂通りを渡って、神田明神。平将門が御祭神。江戸っ子反骨のシンボルと云ってもいいであろう。拝殿正面右側に獅子山の石像。
 幼い獅子を滝つぼに落として這い上がってくるのを待つ父の獅子の姿に馬琴親子が重なる。
 江戸のみならず、全国の秀才が、立身出世と故郷の期待を背に受けて湯島の聖堂の坂を上り下りしたにちがいない。晶平坂は小さなひっそりした坂である。
 聖橋で神田川を渡って、淡路坂の上にレンガ作りの瀟洒な案内板が出来た。以前は、木立の中でなかなか見つけることが出来なかったが、三菱財閥第二代総帥の「岩崎彌之助邸跡」と大田南畝こと「蜀山人終焉の地」が一つになって案内されている。
 南畝が大久保からこの地に転居したのは、文化九年(1812)64歳の時、居宅は孔子の故事によって緇(し)林(りん)楼と名付けられた。
 永井荷風は、「芭蕉と蜀山人の吟詠を以て江戸文学の精粋なり」と云う。江戸時代後期文芸の頂点に位置するのが、蜀山人である。
 伝蜀山人作とされる狂歌がある。
 「詩は詩 仏書は米庵に 狂歌おれ 芸者小万に 料理八百善」文化文政の文化、19世紀初頭の文化最盛期の人気者・グルメベストファイブといったもの。
 米庵は書家の第一人者。前述市川寛斎の長子。安永八年生まれ、安永八年は平賀源内獄死の年であることも述べたが、この時南畝は、三十一歳。小万は、南畝御贔屓の深川芸者。この狂歌も落ち目になった彼女の依頼とか・・・。八百善は、当代随一の山谷掘りの割烹。この狂歌の変形に、「詩は五山 書は鵬斎に 狂歌おれ 芸者はお勝 料理八百善」。まだ変形はあるそうだが、変わらないのは、「おれ」と八百善。南畝山脈あるいは「江湖詩社」の自慢とも取れよう。
 文化十一年二月。江戸文化人の緇(し)林(りん)楼詣でも、千客万来極みに達した頃、南畝は、大窪詩仏・柏木如亭等とつれだって、緇(し)林(りん)庵から上野に花見に行き、和解?を目的に、同行の国学者の高田(松屋)与清と清水浜臣に<一物>「松茸くらべ」をさせた。
 南畝は自ら随筆「半日閑話」に「鳥羽僧正のなどの書る絵巻物みるこゝちして古代なる戯れ、今の代ありがたくなん覚べし。 松の屋の松たけよりもさざなみや志賀の浜松ふとくたくまし」と記す。
 放埓は続く。この年の十一月には、亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁らとの千住の酒合戦でも南畝は一役買っている。
 緇(し)林(りん)楼を中心に繰り広げられた江戸知識人大御所の悪態狂態などと一笑に付すことも出来ようが、これが、雅俗渾然の江戸文化の爛熟であった。奢侈から倹約、高騰から沈滞、自由から制限、開拓から閉鎖、天明から寛政へ、田沼から松平へ、と歴史に翻弄された曲学阿世のインテリ世界に竿を指す、反骨の匂いをかぎ分けられぬわけではない。
 「山東の 嵐の後の破れ傘 身は骨董の 骨とこそなれ」
 戯作の筆を折られ、実証考証、骨董集に興味を移した山東京伝の葬儀、文化十二年二月に、南畝が詠んだ一首である。
 この年の正月のことだ。孫と散歩で神田橋を通った南畝は、息子の定吉に会った。定吉は、狂喜の振る舞いがあり、五年前にお役御免になっていた。定吉は、月代も剃らず、長髪をうなじまで垂らし、強度の自閉症らしく、緇(し)林(りん)楼の一室に閉じこもっているばかりであったという。息子の狂気に孫との散歩の途中に出会ったのである。
 神田橋は、南畝にとって凶所であったのかもしれない。文政元年二月、江戸城出仕の途中、古希を迎えた南畝はこの橋で転倒した。そして八月には、大吐血をした。南畝は随筆『奴凧』で、
 「神田橋のうちにつまづきころびし後、はづき十日に血を吐きしより、もとの健にたちかへるべくもあらず。酒のみても腹ふくるゝのみにて微醺に至らず。物事にうみ退屈して面白からず。」と記す。一杯の酒のほろ酔いの微醺も楽しめなくなったと云うのであろう。
 文政五年、南畝七十四歳。「老いて書を以て命となす」と精力を示すも、三月三日花見の帰りに、「酔中歩を失し楼下に落候て暫く絶入候」と、二階から転がり落ちた。
 そして、翌年七十五歳、彼は、二月の末から床についた。中風であろうか。それでも、四月三日には、若い妾に手を取られ芝居見物に行ったりしている。五日、南畝は、少し飲み、ヒラメで茶漬け飯を食い、六日熟睡して起きず死出に旅立ったのである。まさにヒラメで大往生である。
 九段下から神田橋と妙に心落ち着かぬまま、馬琴・南畝の息子への思いを引きずった。

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