見出し画像

メッセージ 第6回 エッセイ「女医荻野吟子―理想と失意」(前自由学園最高学部長ブログ)

※写真は雑司ヶ谷墓地 荻野吟子

生家俵瀬村

 荻野吟子の故郷を訪ねた。俵瀬村は2005年の町村合併で熊谷市に編入されたが、もとは妻沼町である。ここは妻沼文化圏と云った地域だ。
 大宮から高崎線で熊谷に出て、そこからバスというのがオーソドックスであろうが、急ぐ旅でもない。荒川を越え、関東平野の奥深い広さを実感しながら行きたいと思った。池袋から東上線で東松山、東松山からバスで熊谷に出た。
 熊谷からさらにバスで25分ほど、福川を渡ると、利根川べりの葛和田の渡しに出る。今もこの渡しは現役だ。利根川で唯一の「水上県道」扱いで無料だ。熊谷側では、葛和田の渡しと呼ばれるが、400メートル対岸の群馬県千代田町側では、赤岩の渡しと呼ばれる。群馬県管轄で赤岩渡船が正式名称だ。
 熊谷からこの渡しまでのバス便は一時間に一本程度、渡船も客が自らポールに黄色い旗を掲げ、対岸の赤岩側で待機する船頭を呼んで渡るといった形だ。今では利用客も少ないようだが、この渡船は、江戸時代の初期からのものだ。明治に入って高崎線利用が本格化する明治16年頃までは、江戸・東京や房総地方への物資輸送の要であり、河岸場として繁栄した。人や物資を運送する高瀬舟が16艘、砂利船が8艘、遊覧船が4艘、出水の時パトロール船が13艘、他にも小船など6艘ほどがこの渡しに係留されていたのである。利根川は、この赤堀地域までは水深が深く大型船が遡行出来る終着点でもあった。船問屋が3軒あり、運上金(税金)を負担し、米・雑穀・酒・材木を中継したのである。又、中山道の熊谷宿と日光裏街道の舘林を結ぶ街道としても栄えたところである。
 今はグライダー滑空場がある静かな所だが、吟子が生まれた頃は、多くの人の声で賑わい、白い帆をあげた帆船が利根川をゆったり航行していたのだ。江戸の商業のみならず文化の波がこの地に届いていたのである。
 俵瀬は妻沼地方の東の端に属し、北に流れる利根川には堤がなく、南側には中条堤があるだけで福川に接している。そのため、福川と利根川にはさまれ、洪水のたびごとに水が滞留した。「水場」と呼ばれる所以である。今はやや高い堤防が築かれているが、吟子の生家から利根川は、何の障害物もなしによく見えたそうだ。洪水で悩まされる一方で、俵瀬は利根川の氾濫がもたらす肥沃な沖積層の中にあり、標高も海抜30メートルほど、ほとんどが平地である。農業生産に適したところでもあったのだ。
 近くには、埼玉県で唯一の国宝指定である妻沼聖天山もあり、周辺は多くの参詣客でにぎわいを見せた。聖天山の本殿は、日光東照宮を彷彿させる装飾建築で、平成15年から7年の歳月をかけて現代によみがえっている。
 この地が衰退する大きな契機となったのは、上野、熊谷間の線路(第一区線あるいは上野熊谷間汽車また中仙道線と呼ばれた)が開通する明治16年である。幼少期の吟子は、けっして田舎住まいで成長したのではない。少なくとも、今見る俵瀬のイメージから吟子の故郷を想像するのは適当ではあるまい。
 葛和田の渡しから、吟子の生家俵瀬まで10分もかからない。空にはグライダーが気持ちよさげに飛んでいる。

吟子少女時代

 吟子は、嘉永3年(1851)荻野綾三郎・嘉代の4男5女の末娘として生まれた。誕生日は3月3日。荻野家は、代々名主を務める豪農である。その大きな長屋門は、明治20年頃に対岸の千代田町光恩寺に移築され、その威容を見ることができる。明治20年といえば、この地域や荻野家の衰退の頃と重なる時期である。
 大きな長屋門は、苗字帯刀を許された豪農荻野家の象徴でもあった。村人は「長屋んち」と呼んで尊敬していたというが、吟子は、「長屋んち」の末娘、家中からも村中からも可愛がられて成長したのである。吟子の幼少期は、幸せそのものであった。
 当時の教育体制は、藩校・寺子屋と郷校及び私塾で行われていた。吟子がまず学んだのは、家から1.5キロほどの大龍寺に開かれた寺子屋「行餘書院」である。この当時、妻沼には、16か所ほどの寺子屋があった。(『妻沼町誌』妻沼寺子屋一覧表)今も筆塚が地域各所に散見するからかなり教育熱心な土地柄であったにちがいない。「行餘書院」の師匠北条察源は、本堂建立の再建を取りやめ、庫裡を仮本堂とし寺子屋として使用した篤実な人物であったという。吟子の学び始めが恵まれた環境にあったことは記憶されていい。
 藩校は藩士のためのものであり、もちろん吟子が学ぶ機会などはない。吟子が次に学んだのは郷校である。郷校は、藩の影響を強く受けた準藩校的なものもあるが、武士のみではなく庶民も教育を受けることができた。私塾が、自らの学説を展開するための個人的な性格を有しているのに対して、郷校は土地の有力者たちが共同出資して、著名な学者を招いて開き、庶民強化を目的とした所も多かった。幕末から明治にかけて作られ小学校組織の前身ともいうべきものである。よく知られた郷校では、京都の有力町人(町衆)が設立した小学校(明治に入ってできる学制の一般的呼称の小学校とは別)、さらに多くの自由民権指導者を輩出したことで知られる武蔵国南多摩の小野郷学などがある。この地域の藩校は、忍藩(行田市)の進修館、郷校で吟子の家から近かったのは妻沼に開かれた両宜塾ある。両宜塾まで吟子の家からは、利根川沿いの道を約6キロほどだ。妻沼の聖天山近くの住宅街に、「両宜塾跡碑」がある。吟子が聖天名物の大きなオイナリサンを食べながら学ぶ姿を想像するのは楽しい。
 両宜塾の創設者は寺門静軒。静軒が記す「両宜塾記」は、学問の意義を格調高く述べ、又風光明媚なこの地に愛着を持って描写している名文だ。熊谷市の有形文化財である。
 寺門静軒が、両宜塾を創設したのは、万延元年(1860)。寺門静軒は、江戸で多くの読者を獲得した『江戸繁盛記』の作者だ。『江戸繁盛記』は、江戸時代後期の漢文の戯作。江戸の相撲・吉原・両国の花火などの風俗を活写し、諧謔、風刺をこめたもの。天保の改革では、その描写が風俗紊乱に及ぶという罪により寺門静軒は、江戸追放になった。静軒は、上州・越後などを放浪したのちこの地に安住の地を得たのである。彼を支援したのは、妻沼聖天山歓喜院の英雅上人やこの土地の名主たちである。吟子の父もその一人であった。静軒は、しばしば荻野家に招かれ出張講義をした。吟子もそのそばで傾聴していたと云う。吟子10歳の頃だ。江戸の新たなる気風が、少女吟子の胸に宿ったであろうことは想像に難くない。
 そして、老齢の静軒の跡を継いだ松本萬年のもとで、吟子は学問への目が開かれたのである。松本萬年(まつもとばんねん)及びその周辺の人物は、吟子に多大な影響を与えた。松本萬年のことは、手軽に引くネット辞書「ウイキペディア」にも掲載されていない。吟子伝の基本書である『荻野吟子』(奈良原俊作著 国書刊行会 昭和59年)・『日本女医史 追補』(日本女医会 平成3年)にも、ほとんど触れられていない。萬年の門下からは、荻野吟子のみならず、公認女性医師第2号の生沢クノ(彼女は、熊谷の隣、深谷の出身で、吟子の11歳後輩になる)も輩出している。幕末の教育者萬年のことはいささか触れねばなるまい。
 萬年は、文化12年(1815)秩父郡大宮郷(現秩父市)で生まれた。江戸に出て寺門静軒の克己塾に入門し漢学を学んだ。この塾には、吟子を医学の道に導いた湯島順天堂医院創始者佐藤尚中もいた。後に、越前の矢野陽次郎からは蘭学・医学も学んだという。萬年は、息子の儀三郎に秩父の家を継がせ、娘の荻江とともに、両宜塾に移り住み、医業の傍ら近隣の子弟の教育にあたったのである。萬年、53歳、慶應3年(1867)である。荻江は、23歳(上野谷中の天王寺の墓碑による)であった。荻江は、19歳の時に結婚したが、男の子を生んだ後、その子が亡くなった折に離縁し、実家に戻り、父万年の手伝いをしていたのである。荻江は、学問好きであり、離縁という状況を乗り越え、自立の道を歩みながら、萬年の助教を務めていたのである。吟子は彼女の教えも受け、学友としても意気投合していった。
 この年、吟子は17歳、両宜塾で将来への夢を吹くらませて、利根川べりを少女は駆け抜けていたに違いない。この頃までが彼女が人生でもっとも幸福な時間であった。

吟子の離婚と医学への道

 翌年明治元年(1868)、18歳になった吟子は、北埼玉郡上川上村(現熊谷市のスポーツ公園近く、吟子の家から6キロほどである)の名主である稲村弥五右衛門の長男貫一郎に嫁ぐ。上川上村は、古河藩8万石の飛び地で村高1392石である。稲村家は、その村の名主である。貫一郎は、父五右衛門が36歳という若さで家督を貫一郎に譲っているので当主である。荻野家としては、まったく不満のない、むしろ格上の相手との縁組であった。しかし、吟子の結婚生活は、貫一郎から淋病を移されたことによって破綻・離婚という結果に終わる。
 貫一郎は、明治8年に「七名社」という自由民権運動の結社にも参加している。土佐の民権運動「立志社」が設立された翌年である。北埼玉の地が新たな思想に深くかかわっていたことを示す例と云えるであろう。その後、貫一郎は県会議員を務め、さらに熊谷銀行頭取などを歴任し、この地方の名士として活躍している。荻野家と稲村家の関係はその後も続き、わだかまりのあるような付き合いではなかったようだ。貫一郎がどこで罹患したかなどわかるわけがないが、明治初年、深谷・熊谷などの中山道筋に多くの飯盛女ら遊女の姿があったことは事実である。買売春の場に遊ぶに行くということもおそらく多くの若者にとって日常的なことであったに違いない。新妻に性病をうつしたということにも、特別な罪悪感など持っていないのがこの時代である。
 協議離婚が、成立したのは吟子20歳、明治3年(1870)である。短くも不幸な結婚生活であったが、この時上川上村の稲村家で出会った一人の女性について触れておきたい。幕末の画壇で一世を風靡した女流画家奥原晴湖である。彼女は、古河藩出身で、藩の大番頭といわれた池田右衛門の四女である。江戸での住居は、上野に近い摩利支天横町(明治22年上野と秋葉原間鉄道敷設のため買収される。今上野アメ横に摩利支天神社がある)であったが、彰義隊の戦いに巻き込まれることを恐れ、上川上村が古賀藩の飛び地であったことの縁によったこともあり、かねて昵懇であった稲村家に仮寓していた。そこで吟子と知り合いになったのである。晴湖は渡辺崋山に私淑し、画壇のみならず多くの文人たちや明治の高官らと交友関係を持ち、上野下谷サロンとでも呼ぶべき文芸圏で中心的な存在であった。晴湖は、懐にいつもピストルを携帯する攘夷論者であり、才気煥発、美人の誉れも高く、昭和4年刊行の『奥原晴湖』の編者稲村量平(稲村家子孫)の言を借りれば、断髪のモダンガールの元祖であった。生涯独身、強い自立の精神を有した女性であったことは確かである。
 吟子と彼女の交遊は、短期間であり、婚家先での不幸な一時期ではあったが、吟子が、「女医にならんと決意するに至った経緯を述べ、第一番に意見を求めたのも、決意実行の第一歩を踏み出すにあたって身をゆだねたのも、晴湖であった」と、前掲書『荻野吟子』(奈良原俊作著)に記してある。
 吟子は、実家にもどり、松本萬年の加療により体力を回復、又、萬年の紹介により、佐藤尚中が校長を務める大学東校(この時は、下谷和泉橋通りの津藩藤堂家跡にあり、その後本郷に移転東京大学医学部)の病院で治療を受ける。尚中が萬年と同じく寺門静軒の門下であったことはすでに述べた。ここでの治療に女性として強く羞恥心を感じ女性医師の必要性を感じたといわれている。
 吟子は二年間の入院生活を経て、船で利根川を下り俵瀬に帰る。彼女を迎えたのは、姉とも慕う松本荻江であった。両宜塾は、明治5年(1872)に新たな学校制度がしかれ、閉鎖となるが、それまでの間吟子は、ここで向学心を燃やしたのである。
 明治6年(1873)吟子23歳、医学への道を志し、奥原晴湖に伴われ上京する。時は春4月であった。利根川の土手には、私が訪ねた時と同じように菜の花が咲き誇っていたに違いない。
 翌年明治7年には、松本萬年と荻江も上京し、九段に止敬学校を設立している。萬年はその後、友人中村正直の推挙により、明治8年に東京師範学校教授も兼ね、萬年の孫にその名を付けるほどに昵懇の間であった福地源一郎(桜痴)「東京日日新聞」の論説委員も務めている。著書には、師寺門静軒を意識したのであろう『田舎繁盛記』(明治8年刊)がある。その中の一章「止血法」では、西洋医学を修める友人(佐藤尚中がモデルか…)から、「お前の止血法は旧い」と云われて憮然とする老医師(自らがモデルか…)の姿が記されている。明治時代初期の教育・医学の急激な変化を見つめる老学者の冷静な目がここにある。それは、吟子を見つめる時代の目でもあったに違いない。
 中村正直(敬宇)は、サミュエル・スマイルの『Self Help』を明治3年に『西国立志編』として翻訳刊行、100万部以上を売り上げる大ベストセラーで大きな反響を呼んだ人物であり、ジョン・スチュアート・ミルの『自由之理』を訳した啓蒙家である。個人の人格を重んじ個性と自由の人権思想を日本に移入したと云ってもいい人物である。正直は「良妻賢母」の表現をはじめて使ったとも云う。しかしその意味するところは現在一般的に使われている意味と少し異なる。現在は、<もっぱら視野を家庭内にとどめる>閉鎖的な感じがするが、正直の言うところは<高い教養を持ち、視野の広く><男女の教養等しかるべし>(『女二代の記』山川菊栄)という思想であった。正直の理念と近い思想が松本萬年にもあり、それが吟子に少なからず影響を与えたことは推測されよう。
 東京に出た吟子は、萬年の紹介で当時著名な国学者であった井上頼圀(よりくに)の門下に入り、抜群の評価を得、明治7年(1874)には、甲府の私塾の教師に赴任するが、それは吟子の意に満たないものであったようだ。
 翌年吟子25歳、中村正直が、校長代行(摂理心得)をつとめ開学に努力していた東京女子高等師範学校(お茶の水大学1期生)に入学する。吟子に入学を進めたのは、松本荻江である。彼女はその優秀な成績により女子師範で教員を務めていた。荻江は、女子師範で教えるかたわら、止敬学校でも教えている。その止敬学校には、明治10年、深谷から上京した生沢クノも学んでいる。荻江が当時の自由民権運動にも関心を寄せていたことは、「松本荻江さんという女子師範を中退した人が、自由党の女壮士となり・・」(『女二代の記』)などといった記述もある。自由民権運動が男女同権思想を信条として有していたことも記憶したい。やや時代は先のことになるが、明治17年(1884)の秩父騒動が北埼玉の地域を巻き込み、荻江に大きな影響を与えたであろうことは十分に想像出来る。

医学の道へ

 吟子は、明治12年女子師範を抜群の成績で卒業(一説に卒業試験未済で卒業直前に退学とも)し、なおも強く医師の道を切り開かんことを切望し、同年9月、後に共立女子大学創設にかかわるなど、女性の自立をその教育信条とした永井久一郎や当時の医学会の有力者で後に日本赤十字社の社長となった石黒忠悳(ただのり)の尽力によって、女子禁制であった医学校好寿院へ入学する。
 吟子は、その服装を男装に変えるなど、周囲の女性差別の現実と闘い苦節3年、明治15年(1882年)好寿院を卒業する。しかし彼女は、女性に認可を与えないという医術開業試験の旧弊の大きな壁に突きあたる。
 石黒忠悳は、昭和10年、91歳の時、『日本女医会雑誌』のインタビューに答え、「2,3日後、衛生局へ行って、長与専斎(衛生局長)に逢って頼んだが、女は困るという。そこで自分は、医師開業試験に「女が医者になってはいけない」という条文があるか、無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもいいではないか、もし女がいけないとならば「女は医者になる可からず」と書き入れておくべきだ、といってやった。そんなことで二、三回衛生局に行った結果、許可することになった。開業免状を取ってから数回来たが、其後見えなくなったと思ったら、結婚して北海道に行くようになったということであった。」と語っている。
 吟子は、石黒忠悳らの尽力を得て明治17年受験資格を得ることが出来たのである。そして、見事合格。明治18年に本郷の三組町(現、文京区湯島三丁目、三組坂交差点付近)に待望の「荻野医院」を開業することが出来た。吟子35歳の時であった。
 女医生鈴木源子が、吟子のこれまでの苦労を『女学雑誌』354号に聞き書きしている。その激越且つ格調の高い一文の一部を記しておく。
 「小家を出てかぞふれば、早くも爰に十余年、流浪変転人世の苦辛既に味ひ尽せるの暁、世はいまだ予を容れず、世容れざるをあやしむに足ず。親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ。進退是れ谷(きは)まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。」
 筆舌に尽くしがたい辛苦のはてに、希望を失わない吟子の女性医師としての出発があったのである。
 今、吟子の生家跡には、長屋門を模した熊谷市立荻野吟子記念館があり、来訪者に吟子の歩んだ道が紹介されている。記念館の周辺は整備され生誕の地公園もある。その一画に、埼玉が生んだ硬骨の俳人金子兜太の一句を刻む碑がある。
 「荻野吟子の生命とありぬ冬の利根」
 利根川の川風に吹かれ、厳しい冬の日に耐えた命が、やがて春の日を迎えるのだ。吟子の懸命な精進努力が春の日を呼んだことは、もとよりのことながら、封建制を打破する北埼玉の地の開明性が、塙保己一・渋沢栄一と並称される荻野吟子の業績につながったこと、吟子をささえた松本荻江、奥原晴湖らの自立を目指した女性たち、さらに明治初期の啓蒙思想家たちのことも忘れてはなるまい。

キリスト教との出会い

 吟子は、湯島に「荻野病院」開業の翌年、明治19年(1886)6月、海老名弾正によって、本郷教会でキリスト教の洗礼を受けた。海老名弾正は、植村正久、内村鑑三らと共に明治から昭和初期における、代表的キリスト教(日本組合基督教会、後に日本キリスト教団として統合)の指導者だが、雄弁かつ激烈な説教は先鋭的であり多くの若者の心を引き付けた。この時、吟子と一緒に洗礼を受けたのは、田口卯吉とその妻である。卯吉は、ジャーナリストとして著名だ。海老名弾正が、新島襄の薫陶を受け、上京したのは明治16年(1883)、本郷教会の設立にかかわったのは、明治19年である。海老名弾正は、若き日に熊本英学校で学んだ、所謂熊本バンドとよばれる人脈の一人であり、明治33年(1900)には、雑誌『新人』を刊行し、当時のキリスト教運動の展開に大きな足跡を残し、大正9年(1920)には、第8代同志社大学総長も務めている。吟子が結婚する志方之善が同志社の学生であり、新島襄から洗礼を受けたことを思い合わせれば、吟子の後半生はこの時既にその道が見えていたと云ってもいいであろう。
 又、この時期に、内藤ます・古市静子・矢島楫子との出会いもあった。内藤ますについては、前稿「荻野吟子医院開業前夜」では、ふれることなく、明治7年甲府の内藤宿への赴任を吟子の意に満たないものであったなどと記した。脱稿後『やまなし地域女性史「聞き書き』プロジェクトの2015年報告書に、山中淑子氏による、内藤ますの詳細な報告のあることを知った。そこには吟子から内藤ます宛の書簡も紹介されている。吟子を甲府に誘った内藤ますは、国学者井上頼圀の同門でその縁によって、行くことになったのである。又、ますについては、『明治烈婦伝』などにも紹介される著名人であり、一説には吉原などで遊女であったとも云う。ますは、山梨県甲府で創刊された「峡中新聞」の創設者内藤伝右衛門の養母として当時の孝女伝などでも知られている。一方、女子教育の先駆者でもあり、意志の強い反封建的な女性像の一面も有していた。吟子はキリスト教の影響によって、廃娼運動にかかわったと云われるのが通説であるが、それのみならず、内藤ますとの交遊が少なからず影響があったのであろう。
 古市静子は、幼い時から学問を好み、男子として生まれなかったことを悔やみ、種子島から東京へ学問を志した人物である。後に幼児教育家として知られているが、吟子と東京女子師範学校では同室であり、両者は明治17年、京橋の新富座で行われたキリスト教大演説会にも同行している。吟子が静子の婚約者であった森有礼が静子を裏切り結婚に至ったことに異を唱えて、森に直談判したという話も巷間よく伝わった話である。又、静子らは、明治19年湯島四丁目の「博愛館」(本郷教会の前身)と号したキリスト教の伝道所で布教活動を行っているが、吟子はそこの集会にも出ている。又博愛館は場所を西方(東京都文京区)に変えているが、そこは吟子が勤めることになる明治女学校の創設者木村熊二の宅地内、木村熊二の妻は、吟子が共に洗礼を受けた田口卯吉の姉である。
 女子学院創設者である矢島楫子については、ここで述べるまでもないが、彼女の姉徳富順子は横井小楠の高弟に嫁ぎ、次姉久子も横井小楠の門下であり、海老名弾正の妻は小楠の長女である。
 荻野吟子のキリスト教との関係では、もとよりその思想が、当時の男女不平等の社会状況に与えた思想的影響への共鳴が重視されなければならないが、彼女を取り巻く人間関係が極めて姻戚関係などの個人的関係性や湯島周辺、熊本周辺といった周辺地域との関係性によって取り囲まれていたことも注視しなければならないであろう。吟子は、北埼玉の血縁を脱皮して、東京しかもかなり限定的な本郷・湯島における熊本関係者と云う新たな知縁を獲得して脱皮していったのである。それは、背景となっていた封建的儒学思想で培われたものから、近代へと変革する日本が求めたキリスト教思想による自己変革への始動でもあった。
 その象徴が、矢島楫子の廃娼運動への参加である。東京キリスト教婦人矯風会が組織されたのは、明治19年(1886年)、アメリカの禁酒運動家マリー・レビット夫人が来日したのをきっかけにしてであった。最初、禁酒運動を旗印としていたが、翌年には、「一夫一婦制」・「海外醜業婦取締に関する」建白書を提出している。同じ明治20年(1887)に吟子は、大日本婦人衛生会設立の発起人13人の1人に加わり、明治21年には同会の幹事にも選出されている。主に関心を持ったのは、風俗部長としての役割を担った廃娼運動であった。それは、最初の結婚生活の破綻が夫の性病感染によった経験を踏まえ医学的観点から女性の尊厳を求めるものであった。又、廃娼運動への関心は、先に記した内藤ますが、女工場と呼ばれる芸娼妓及び貧困生活を送る女性達の更生施設に奔走した人物であることの影響によるところもあったと思われる。
 明治22年(1889)には、明治女学校教師として、生理・衛生を担当、校医として活動している。
 さらに吟子は、明治23年の国会開設に際しては、婦人の議会傍聴を求める請願書記名の21名の1人として名を連ねている。

再婚

 明治23年(1890) 11月25日熊本県、志方之善(しかたしぜん)の生家で米国宣教師O・H・ギューギ司会により志方之善と結婚式をあげる。吟子40才之善26才であった。二人を橋渡ししたのは、大久保真次郎夫妻である。大久保は、同志社を卒業後、東京医学校に学び、牧師としても活動歴のある人物で、妻は、徳富蘇峰・蘆花兄弟の姉であり、廃娼運動で知られる久布白落実の母である。
 二人の結婚は幸せな出発とは言い難い。大久保夫妻も媒酌人を断り、海老名弾正も反対したと云われている。
 明治24年(1890)5月、之善は、吟子を東京に置き、犬養毅らが有していた開墾地の権利の一部を譲り受け、友人の丸山要次郎らと、北海道の瀬棚郡今金町に渡り、開拓の一歩を踏み出している。結婚後、半年に満たない時である。
 吟子は、明治25年、巌本善治が校長をしていた明治女学校の舎監となるも、明治27年(1894)6月のその職を辞し、之善の後を追うように北海道へ向かった。
 明治女学校関係者が主に編集に関わった雑誌『文学界』の有力者であった星野天知(妻は吟子と同僚の万)は、渡道の旅費に困り天知を訪れた吟子の言葉として次のように記している。
 「神の事業として集つた此神聖な教育事業、並に巌本氏が知己の重用に感激して党人と成つたものだが、巌本の頼朝政策たる事を看破したので、こゝは久恋の地に非ずと思ひ、近日後志国利別の開墾地へ移住して理想村を起し、伝導に従事しやうと準備中であります。それにつき、どうか旅費中へ百円貸して下さらぬか」(「荻野吟子の事」『女医会雑誌第76号』1936年)
 巌本の頼朝政策の意味を、深く考える暇はないが、私が、この頃の吟子及び之善に関連して重ねて思うことは、北村透谷のことである。透谷の矛先は、徳富蘇峰、山路愛山であった。それは労働と距離を置いた浪漫主義的キリスト教と云っていいものである。対して透谷の激しさは、狂気に似ているが、地に無理やりにでも足を踏ん張っているようなリアリストとしての信仰であった。巌本はロマンティストであり、夢見るような優柔不断さを持っていたような気がしてならない。キリスト教への教条主義的姿勢、現実を見下すような教養主義と云ってもいい。吟子は、明治女学校に満たされぬ思いを抱いていたのだ。又、同書には、星野の感想として「其天分は女医の開眼にあるのだ、即ち未開の女医の開拓者であれば足りるのである」との指摘もある。彼女は、キリスト者であるよりも医師であったのだ。
 この年竹ノ谷トミ(志方トミ)生まれ、志方之善の養女となる。又この年明治27年8月、日清戦争が始まる。渡道2か月後のことである。

渡道

 吟子は、渡道後、利別(今金町)インマヌエルに在住。
 インマヌエルは「神ともにいます」の意味である。現在の今金町字神丘に作られたこの地域は、北海道のキリスト教伝道の歴史においても、きわめて特異なものである。開拓布教では既に、浦河に赤光社が明治14年(1881)に、同27年には、浦臼の聖園農場が伝道基点を置いている。この利別インマヌエルは、先の団体が会社組織を母体としているのに対して、開拓を望むものでキリスト教徒であれば自由に参加できたと云う点で異彩である。教派を越えたキリスト教徒による理想郷の建設を目指したのである。ここに集ったのは、二つの会派の人々を中心としたものである。即ち、組合(会衆派)教会と日本聖公会である。
 吟子が属していたのは、組合(会衆派)教会である。この教会の中心が、志方之善である。志方は、同郷、熊本の先輩である田中賢道が政府から利別原野が借り受け、開墾計画のあるのを聞き、学友らと共に、この地にキリスト教の理想郷を建築しようと夢見たのである。明治24年というから、吟子がまだ明治女学院の舎監であった時だ。現在「神丘発祥の地」と記された記念碑のある地点である。明治25年の5月には、志方は、母や姉さらに同志社の仲間と一緒にこの地に移住している。吟子渡道以前である。
 一方、日本聖公会の中心となったのは、埼玉県熊谷の聖公会信徒であった。中心人物は天沼恒三郎である。彼らは、明治25年来道し開拓をこころざすもその土地の確保に困難をきたしていたが、明治26年4月に、志方のキリスト教村建設の理想に共鳴し、共にインマヌエル共同体の建設に、教派を越えて一致して行動を起こすことになる。聖公会の北海道での布教の最初は、明治6年、函館におけるデニング司祭によってである。又、アイヌの教育に貢献したジョン・バチュラーは、明治10年(1877)に函館で布教活動し、同12年には、有珠(北海道伊達市)を訪れている。聖公会と北海道のかかわりは深い。
 ここで注記して置きたいことがある。吟子の故郷が熊谷と云うことである。今、天沼恒三郎及び主だった山崎六郎右衛門と吟子が、知り合いであったと云う確証はない。同じ熊谷と云っても知り合いであるかどうかは、不確定である。しかし、吟子の名前は、おそらく熊谷という地域の中では、知らぬものがなかったであろう。今後の調査を行わなければならないが、組合(会衆派)教会即ち熊本の地縁によったものと日本聖公会即ち熊谷の地縁によったものと云う構図の中で、吟子は、ある意味で架け橋にもなりえたであろうし、二つの間での軋轢にも苦しんだのではなかろうかと想像する。この点の指摘は寡聞にして知りえていないが、吟子の生涯を考える上で重要なものではないかと思う。
 志方の掲げたインマヌエル共同体の主義綱領は以下のようなものだ。これはそのまま吟子が理想としたものである。
 一、基督教主義ヲ賛成シテ移住スル者ハ、何人ヲ問ハズ、定域内ニ於イテ原野地一万五千坪ヲ託シ、成功ノ上十分ノ一ヲ教会費トナスコト。
 一、移住者ハ禁酒ハ勿論、凡テ風教ニ防害トナルコトヲナスベカラズ。若シ犯セシモノハ契約ヲ解除スルコトアルベシ。
 一、大祭日、毎日曜日ヲ休業シ、他愛主義ヲ採リ艱苦互ニ相助ケ、猥リニ貸借ヲ禁ズ。
 一、移住者ハ自活自由ヲ重ンジ、各自独立ヲ図ルコト。
 (『新撰北海道史』北海道廳 昭和12年 第四巻)
 しかし、理想郷の建設は、思うようには進まなかった。明治28年(1895)の道庁への未開地拓返上と同30年の一般移住者への開放という原点の挫折、さらに組合(会衆派)教会と聖公会の間に教義、礼拝形式などにおいても溝が生じていたようだ。
 現在見ることの出来る第三代の会堂改築に際して開墾当時の思い出を天沼義之進は語る。「若き同志の自由で熱心な主義主張の中にも組合教会と聖公会の異質性は、何時しか同志関係に、若干の阻隔を生じ、そのための集会の悩みも生じ始めて来た。」(『日本聖公会 今金インマヌエル教会沿革史』昭和44年)
 カトリック系の礼拝を旨とする聖公会では、明治29年には、函館聖公会の援助により茅葺の教会堂が設立された。一方組合系(プロテスタント系)では、明治31年に笹小屋の教会堂を建て、同32年には、今金町の街中に移転している。教派を越えて一体化するという開拓教会の理想は挫折したのである。

失意と死

 吟子は、明治29年 8月国縫(山越郡長万部町国縫)に転居しているが、以上のような教会の分裂さらに理想主義の挫折が影響しているのであろう。キリスト者としてよりも自己を医師として見つめなおしたのかもしれない。なお、明治26年11月には、瀬棚~国縫間の道路が完成している。それまで函館から瀬棚までは船路を頼るしかなかったが、この年以降交通は飛躍的に便利になる。
 翌明治30年(1895)2月、ニシン漁をはじめ漁業で活況に沸く瀬棚町会津町で、吟子は荻野医院を開業する。吟子47歳であった。瀬棚では、「瀬棚淑徳婦人会」を結成、日曜学校なども開設したと云う。
 『瀬棚町史』(平成3年刊)は、「女医として話題になっても商売繁盛には遠いものだった」(『開道百年』北海道新聞)の一文を引き、「中央でいかに名声の高かった女史も、北国の荒くれ男たちの住む新開地ではではこの論は正しいようである。」と記している。
 さらに明治36年(1903)之善が同志社大学へ再入学し、吟子は一時瀬棚の医院を休業し、札幌での開業を目指すのであるが、既に医学は、吟子を置き去りにしたかのように急激な進歩を見せていたようだ。吟子は札幌での開業を果たせず再度瀬棚に戻っている。
 明治37年(1904)夫、之善、同志社大学を卒業、浦河のキリスト教会の牧師となる。しかし、思いを果たせず、病のため翌38年瀬棚に戻り、同年9月病死した。享年42歳であった。
 明治41年(1908)11月、吟子58歳、姉の強い勧めもあり瀬棚の地を離れる。東京都本所区小梅町でふたたび開業する。いかなる理由か、大正元年(1912)には志方籍を離れ、荻野姓に復籍している。亡くなったのは翌大正2年6月23日である。享年62歳であった。司式を務めたのは先に述べた海老名弾正である。
 夫之善の墓は、今金、神丘開拓墓地(インマヌエルの丘)の地で埋葬され、墓石には、両親の名にはさまれて之善の名がある。(「今金町フットパスガイド」参照)吟子は、東京都豊島区雑司ヶ谷の墓地に埋葬されている。立派な顕彰墓地だ。若い日の凛々しい洋装の立像もある。明るい墓である。美化された魂の底に私は栄光の寂しさを感じざるを得ない。若き日の理想に燃えた恋の結末を、離れ離れの吟子と之善二つの墓はものがたっているのであろう。晴れがましくもどこか寂しい墓である。

※追記
 このエッセイは、『性の健康』(性の健康医学財団発行)の2021年夏号「荻野吟子医院開業前夜」と同書2022年夏号「「その後の荻野吟子―再婚・キリスト教・瀬棚」の二つをまとめ補筆したもの。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?