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メッセージ 第3回  対馬紀行「懐ふかき国境の島へ」(前自由学園最高学部長ブログ)

はじめに

 2022年『明日の友』夏号(8月発売 婦人之友社)に「懐ふかき国境の島へ」と題し対馬紀行を書いた。最初は梅光女学院短大時代、学校紹介業務に5,6年通った。偶然出会った画家の津江篤郎先生から、文書の整理がほぼ終わったが、江戸時代の雑書?がまだ残っている、整理をしてみないかと話があった。故人の市古夏生さんや木越治さんらに声をかけ、宗家の文書蔵の庭で書誌をとった。その後立教に移ってからも、公民館の和書を、院生と一緒に整理をした。
 先生が熱弁していた吉田弦二郎にも触れたかったが力不足。先生の絵には、骨太な対馬の逞しさと優しさが同居している。対馬人の血統色濃く、まさに偉丈夫、海かけめぐる<倭寇>のロマンを感じさせる人柄だった。
 約35年ぶりの対馬。宗家の文書蔵もなかった。ホテルも立派、観光案内板も整備されていた。取材最後の夜、川べりの古いスナックで飲んだ。ママは、ほぼ私と同年代。懐かしい人の名前が出て嬉しくなった。一人カラオケ、鼻歌で「函館の女」。ホテルまでの道、川面に月明かり、小さなボラが群れていた。
 翌朝、雨森芳洲の墓。朝鮮外交への貢献と、80歳に一念発起二万首の和歌を残したことを書き記した。他に、対馬と万葉集、新羅仏、小西マリア、ヤマネコ、大西巨人『神聖喜劇』を取り上げた。今月の『明日の友』は、生活特集「台所」、健康特集「脂肪肝」。平和特集での高齢の読者からの戦争体験の記事が胸を打つ。ブログ写真は、百済観音「銅造如来像」。本誌では、同行の川口誠氏撮影の美しい写真も掲載されている。御笑覧ください。

「懐深き国境の島へ」

「ありねよし」(在根よし)は約9割が山地を占める対馬の枕詞である。福岡空港から35分。飛行機の真下、流麗に重なる稜線「ありねよし」の上に、一直線に引かれた滑走路、対馬やまねこ空港が見えてきた。
 もっとも上手いパイロットが操縦する路線で、霧が深いと引き返すこともあるという。今回お世話になる松井康一さんがお出迎え。空港ターミナルビル社長、私は勤めていた自由学園の、初等部の卒業生でもある。
 天気快晴、爽快な気分だ。空港の傍の公園で、万葉の歌碑を見る。
「竹敷きの玉藻なびかし漕ぎ出なむ君がみ船を何時とか待たむ」
<竹敷の玉藻をなびかせながらあなたの船が漕ぎ出して行きます。あの船に何時の日にかまた逢えるでしょうか、私はその日を待ちましょう>(『万葉集』巻十五)
 倭の国は、韓半島で百済と連携、新羅・唐軍と戦う。所謂「白村江の戦い」(660年)だ。倭の国は、この前後朝廷を中心に「大和」の国として結集し、新羅との間に27回もの外交使節団<遣新羅使>をおくる。
「対馬の娘子、名を玉槻といふ。」と作者の注記がある。今も竹敷の北に玉調(たまつき)の地があり、玉槻は、真珠を採る海女の名かと云う。又一説に遊女の歌かとも云う。以下はこの歌に応じた遣新羅大使のもの。
「玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我行く帰るさに見む」
<あなたのように美しいこの渚に潮が満ち私は行かねばなりません。心残りですがまた戻った折には会いましょう>
 この歌は、天平8年(736)の頃のもの。巻十五は<万葉集二十巻のあるうち、読んでももっとも心弾まない巻>などと云うが、対馬での厭戦望郷の思いは私の胸を打つ。
 竹敷から黒瀬観音堂までは、歩いて30分ほど。御堂には、新羅時代に鋳造された国指定重要文化財の「銅造如来坐像」(高さ46.7㌢)と高麗時代末鋳造の対馬市指定「銅造菩薩坐像」(49㌢)。如来を「女神さま」と地元の人は呼ぶ。安産の守り仏として信仰を集め、安産成就の際には毛糸の帽子、着物が奉納されたそうだ。「男神さま」の菩薩はちょっとユーモラスな感じの御姿だ。
 仏さまは共に大きな火傷の跡があるが、如来の尊顔には、わずかだが金色のメッキの跡が残る。黄金仏であったのだ。インド形式の流れをくみ、衣は左肩を覆い、右肩を露出させている。東大寺の大仏のひな型を示しているとも云う。瞼・唇・優美な顔立ちそして衣のひだの微妙な流れ、まさしく古代が奏でる曲線である。請来時期は不明だが、万葉の歌が作られた頃と同じ時期であろう。長くこの地で対馬の人々を見守りまた、親しく愛されてきたのだ。忘れられない百済観音の微笑である。
 観音堂を出ると渚の向こうに国指定時別史跡の金田城の石塁が見えた。天智6年(667年)大和朝廷が新羅・唐の来襲に備えたものだ。2.8キロにも及ぶ石塁が城壁を囲む。高い所では6メートルにも及ぶ崖に石が組まれている。NHKスペシャルでは、日本最強の城として紹介された古代の山城である。
 昼はそば粉十割の対州そば。米のほとんど取れない対馬、蕎麦は人々の命をつないだ。かっては繋ぎが弱くボロボロしていたが、卓越した技術と努力で見事に生まれ変わったそうだ。太めの名物アナゴ天ぷらとの相性は抜群である。
 昼過ぎに対馬の中心厳原へ。町中を縫う掘割、石垣で固められた武家屋敷、海の幸は言うまでもないが、厳原は、和菓子と酒のうまい、10万石の品格を持つ城下町だ。
 今年4月30日に新装オープンした対馬博物館へ。古代遺跡から近代までを概観できる博物館だが、圧巻はやはり朝鮮通信使絵巻。長い巻物が、デジタル加工され人の動きを再現している。絢爛たる朝鮮からの使者を迎える鼓動が伝わるようだ。全島がまさに<博物館>とでも云うべき対馬での新たな博物館創生である。地域振興又対馬の平和教育のセンター機能につながる予感がした。
 分館の『対馬朝鮮通信使歴史館』では、美麗な通信使船の模型が置かれていた。対馬市民が寄託したものだ。国境を越えた民衆のもてなし心が日韓友好の歴史を培ったのだ。
 夕方ぶらりと散歩、厳原の八幡宮境内で「今宮若宮神社」に出会う。この神社は、朝鮮の役の将軍小西行長の娘で、対馬藩主宗義智に嫁いだ「小西マリア」を祀ったところだ。キリシタン禁教後長崎に逃れたマリアを宗家墓地近くのこの地に鎮魂したのである。神社にキリシタンと云うのは一見不思議な気がするが、天草などにもキリシタンを手厚く葬る寺がある。不思議さよりもこの地の懐の深さを思うべきであろう。マリアの思いと黒瀬の渚と観音そして「玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった」という聖書「ヨハネの黙示録」の言葉が私の脳裏に交差した。
 翌日も晴。
 杖をしっかり握って烏帽子岳の頂上へ。眼下360度にエメラルドグリーンの浅茅湾。聖なる神々の息吹が頬をやさしく撫でる。大海原の向こう、夜は釜山の町の明かりが見えるそうだ。
 麓の浅茅湾の和多都美神社へ。ワタは海を、ツは助詞、ミは蛇の意だと云う。御神体は白い蛇。名著『新対馬島誌』はこの島を「神々が揃いも揃って鎮座せられている。日本建国史の縮図である。」と記している。和多都美神社はその中心的存在。海に浮かぶ鳥居は神秘な湾にたたずみ聖地<竜宮>へと招くが如くだ。
「ツシマヤマネコは昼寝中かな。」ツシマヤマネコを撮り続けその環境保護に関わるカメラマン川口誠さんと、「対馬野生生物保護センタ」へ。希少生物の絶滅危惧に分類されたヤマネコ。ガラス越しに飼育された昼寝中の「かなた」が、ちらりとこちらを振り向いた。
「生き物と出会うと云うこと。それは生き物と地球の40億年をこえるつながりに向き合うということ」という展示の文字に胸が締め付けられる。悠久の自然の営みは対馬で生きている。
「姫神山砲台跡」へ。国防の最前線対馬には、30か所を越える砲台が設置された。日露戦争での防備として当時世界最大規模の最新防衛機能を有したと云う。うっそうと茂る緑の向こうに大海原が広がる。戦跡は美景と同居するものなのだろうか。美しさは哀しみを思い起こすものかもしれない。
「かって、この島は日本第一の要塞と言われた。」戦後日本文学の金字塔『神聖喜劇』の冒頭の一文だ。対馬重砲連隊での作者大西巨人の軍隊生活を描いた作品である。分厚い文庫本5冊、完成に23年を要した長編がこの場に重なる。残酷無比な上官の自慢話、喜劇と呼ぶには悲しすぎる軍隊生活、対馬の情景や民謡が随所に書き込まれている。平和が脅かされそうな現在であるからこそ、軍隊とは何かという問いかけを避けて通ることは出来ない。「軍隊は嫌だ」と対馬からの叫び声が聞こえてくるような作品だ。対馬が生んだ文学の代表作である。
 帰路につく朝。儒学者雨森芳洲の墓へ。日韓の平等友好「誠信交隣」を提唱し、幕府と対馬藩の間に立って外交政策に苦慮した人物。卓越した朝鮮語能力は朝鮮の役人との信望を深めた。かって韓国の大統領が来日した時、日韓友好の第一の恩人としてあげたのは雨森芳洲である。中国、韓国の文学に慣れ親しんでいた彼は、80歳を越えた時1万首の和歌を作ることを発起し、最終的には2万首にも及ぶ歌を残した。その内の一首
「雪にまがふつばさ軽げに横ぎりて山のみどりを分くる白鷺」
軽やかに飛翔する白鷺は、海峡を越える芳洲にも似ていよう。対馬の文化と自然は、アジアの宝だ、浅茅湾が育む真珠の輝きだ。

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