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江戸散策 第五回 深川「切穴」(続続<時に海を見よ>)

 この絵は、初代歌川豊国の「絵本時世粧」(えほんいまようすがた)(享和二年刊・1802::掲出は、『近世日本風俗絵本集成』の複製本)で深川の遊女屋の様相を記したもの。永代寺門前の横町中裏あたりの子供屋であろう。洒落本『部屋三味線』あたりの描写とも重なるもの。左側三人の遊女、左側から「口のかゝったこども」「京下りのしんこ」「さしの有無をうかゞふ」と短冊に説明がある。枕紙を持つのは深川や内藤新宿で遊女のことをさす子供。お呼びがかかったのである。真ん中は京からの新人であろう。塗りのある大柱とか、雑魚寝あそびとか、深川に京の遊びの影響があることはよく知られている。辰巳などと云う呼称も、方位的なことのみが理由ではない。「京都の辰巳は鹿こそ住め、江都の辰巳に遊楽あり」と云った対抗意識もある。吉原で衰微の頃に新手として京から新人遊女を呼び寄せたという話はあるが、深川でもそんな「新子」がいたのであろう。裏がとれない。
 注目は障子の穴だ。英泉画の『東都名所合』の深川、新地を描いたものにも、障子の切穴から遊客の様子を伺い品定めしている景がある。(裾模様の黒い蝶はいい客の到来前兆か・・?これは栄泉の絶品)切穴から、客を見て嫌な場合は、「さし」(差支えの意味)で、客を拒むことが出来たと云うのである。
 山東京伝遺稿とされ、石塚豊芥子が補したと云う『深川大全』(天保4年刊)は、深川の特色ある「見番」「ふせ呼出の事」などと項目別に説明を加えたものだが、その一項目に、
「さしをつく事 一座の内になじみの客をつれか又は外にて一座せし客などあつて出られぬ事あり、さしをつくといふ。」
とあり、さらに、客を振って再び来ないようにするのを「突き出し」と云う、同じようなことは吉原でもあるが(吉原では妓夫か)、それをやるのを深川では「子供」(遊女)の心にまかされている。突き出されてはじめてそのことがわかるのだ。などと記されている。
 客を選ぶ権利が子供、遊女又芸者の側にあったと云うのであろう。『本所深川千住』(『江戸東京風俗地理』雄山閣)で田村栄太郎は、「売笑婦でありながら、権力・金力・人柄の嫌味に反抗する自由を具体的に示したのが<障子の切穴>であり、「さし」を「やむをえずに子供の自由を尊重したものであって、他所の女郎屋にみられない自由であった。しかしそれが「武士は嫌だ、金持は嫌だ」という思想的なものではなく、初会の客の様子で「さし」にするのであるから、どちらか云えば原始的であった。」と述べている。
 自由と云った表現が、「勝手気まま」といった意味合いのものであることを前提としなければならないが、この障子の穴をのぞく女性の気持ちには、深川の気風がきらりと見えるような気がする。これはどんな客でも(殊に初会は)取ることを大前提とした吉原とは異なっている。深川では初めての客を障子の穴からのぞいて、相手をするかどうかを決めると云ったことがあったのである。
 親分肌の女髪結いが、手籠めにされそうになった娘を救い出す話だとか、羽織芸者の気風のよさなど、深川女の小気味のよい婀娜姿にこの頃どんどん魅かれていくような気がする。

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