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真夜中のきみはクロワッサンと:1

深夜二時。
袖のほつれたパーカーを羽織りながら部屋の電気を消した。
暗い室内にフローリングを叩く裸足の音が響く。
手探りでベッドサイドの照明をつけると、室内に優しい明かりが漂い始めた。

小さな橙色の光の中で、ベッドに腰をおろし、スマートフォンの電源を付ける。
画面から溢れる想像以上の眩さに目を細め、慌てて明るさを調整した。

ネットで時間を確認していると、少しずつ目も慣れてきた。
画面を切り替え、通話アプリを立ち上げる。

彼女の名前は画面の上位に表示されていた。

いつの間にか変わっていたアイコンをタッチする。
画面に「通話」のボタンが表示された。

軽く天井の方を向き、ゆっくりと息を吸った。
うす闇の中に一本の線を引くように、息を吸う音が聞こえ、自然と背筋が伸びた。
肩の力を抜くと同時に出てきた吐息は、水に溶ける絵の具のようにそのまま部屋の中へ消えていった。

再び画面へ向き合い、通話ボタンを見つめる。
このボタンに触れるだけで、遠くにいる彼女と話せることがいまだに少し信じられない。

小さく呼吸をしながら、右手の人差し指でそっとボタンに触れる。
ゆっくりと画面を耳元へ近づけると、クラリネットのような呼び出し音が真夜中には似合わないリズムで流れていた。

四回ほど同じメロディが繰り返され、少しだけ不安になった。
迷惑だったろうか。
前もってメッセージを送っておけばよかっただろうか。

五回、六回とメロディは続く。

七回目のメロディが鳴り終わり、十回続いて出なかったら諦めようと決めた時、耳元へ空気の流れる音が聞こえ始めた。

僕は小さな空気を口から取り込んだ。
耳元からもそれに似た音が聞こえた。

何か言おうと思いつつ、彼女の声を待っている。

向こうでも同じことを思っているのだろう。
僕の耳にはまだ空気の流れる音しか聞こえない。

僕はもう一度小さく息を吸い、無機質な画面へとゆっくり話しかけた。

「やあ、こんばんは」

少し間が空いた後、ゆっくりと息を吐く音が聞こえる。

「あら、こんにちは」

耳元の画面の向こう側から、温かく優しい、そして愛おしい声が聞こえた。


◆Illustration:nami saito

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