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3色の水溜り 1話

公園に奇妙な水溜りができたらしい。話によれば黒々とした水が、甘だるい匂いを漂わせているのだという。他にすべきことも思いつかず、彼女が自ら休日の過ごし方を提案したことに少し驚き、裸足のまま靴を履いた。

今我々は人通りの少ない路地を歩いている。黄みがかかった陽光が立ち並ぶ古びた家屋を白く染めていた。伸びきった植物の蔦が壁や電柱に絡みついている。比較的新しく建てられたであろう一軒家にも所々に黴が生え薄汚れていた。ここが新宿区であることを忘れてしまいそうなうらぶれた景色だった。しんとした空気が辺りを満たし、遠方でエンジンの駆動音が微かに聞こえる。役所が設置した道端のベンチには蛾が一匹止まっている。

しばらく歩くと遊具の少ない公園に辿り着いた。予想に反し、見物人は誰もいない。公園の中心には直径3メートルを超える黒い水溜りがある。底が見えず、洞穴のようである。粘着質な甘い香りがして不愉快だった。

「どこかへ繋がっているのかもしれませんね」と彼女は言った。

当然これが凡庸な水溜りであるのならば、どこへも繋がる訳は無い。しかしこれを鉄紺の水を吐き出す謎の空白と捉えるのであれば、その考えは間違っていないようにも思える。

「入ってみませんか?」と彼女は訊ねた。
「やめたほうが良いと思う」と僕は言った。

それを冗談だと思っていた。しかし彼女は既に水溜りの縁に華奢な指を伸ばしている。時間が無理に引き伸ばされ、全ての動作が緩慢なものとして映った。風に飛ばされる木の葉。車道を走る自転車。水溜りを避けて歩く蟻。飾り気の無い色白の指がそこに触れた。

それが彼女を見た最後になった。気がつくと僕は一人で立ち呆けていた。水溜りは存在せず、子供達がキャッチボールをしている。ベンチには母親らしき女が腰掛けていた。僕は茫然としている。

訳の分からぬまま家路を辿り部屋の扉を開く。洗面所にあるはずのもう1本の歯ブラシ。今朝洗濯したばかりの彼女の下着。着替え。借りたままの小説。化粧水。香水。全て消え失せていた。火をともした煙草の煙が窓の外へ流れて見えなくなるように、彼女とその痕跡たちは失われてしまった。

勿論深く動揺し、声を荒げ、終いには悲しみに暮れるべきなのだろう。しかし、喪失は深い安らぎを齎していた。遠からず、僕は自身の醜悪さや不完全性により彼女を失っていたことだろう。そうなれば自分を責めずにはいられない。しかしこの形ならば、僕の失態では無い。これが何よりも重要な一点だった。

理不尽な空白が冷たい春に彼女を攫っていったのだ。それは僕の力不足とは一切関係のない事象であった。加えて一度は彼女を制止していた。突き詰める程に自分の非は存在していない。だから、深い安堵を覚えた。


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続きは書籍「夜を束ねて」にて



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