祖父のこと

2019年1月に、僕はこんな記事を執筆した。

話題が個人的すぎて誰も読まないだろうと思っていたが、とある編集者さんからはあれを読んで泣いた、と言っていただいた。

それからおよそ2年半が経ち、2021年8月2日、この記事に出てくる祖父もとうとう亡くなった。教員として校長まで勤め上げ、さまざまな趣味を愛し、最後まで認知症にもならず、僕の新刊にも目を通してくれる、立派な人だった。

その日の朝、母が読売新聞に出た新刊『Butterfly World 最後の六日間』(双葉社)の広告の写真を送ってくれた。そのLINEの中で、祖父がもう危ないことを知らされた。文面では数日中にも、というようなニュアンスだったが、同じ日のちょうど編集者との打ち合わせの最中に、亡くなったと知らせが届いた。

新型コロナウイルスの影響で、もう2020年の2月以降、地元福岡には帰っていない。9月にはワクチン接種の予約もできたから、年内には帰れる見通しが立っていた。

今、帰って万が一のことがあったら取り返しがつかない。断腸の思いだったけれど、帰らないと決めた。

編集者には告げず、打ち合わせを続行するくらいの余裕はあった。悲しいというよりも、上の記事にも記したとおり、福岡の施設に移ってくれたおかげで晩年に何度か会えたことを、よかったなと思う気持ちのほうが強かった。

それでも動揺はしていた。一人で過ごしたくなかったので、友人と会った。感染爆発の様相を呈している現在の東京にあってはふさわしくない行動だったと思うが、独り身なのでそこは勘弁願いたい。友人のおかげで、悲しい夜を過ごさずに済んだ。今日じいちゃん死んでさ、と話すと、友人は涙を流してくれた。僕もまだ、泣いてなかったのに。

僧侶の弟から電話がかかってきて、帰らないほうがいいと思う、という話をした。関東に住む叔父夫妻はワクチンを打っているので葬儀に参列するとのことだったが、僕はまだ打てていない。父からはPCR検査を受けて帰ったら、と勧められたが、僕はデルタ株の脅威を重く見ている。こんなときに、家族に余計な不安や心配をかけたくはない。弟に帰らないと伝えると、それでは代読するから弔辞を書いてくれ、と言われた。

小説家だから、こねくり回したような弔辞も書けないことはなかったが、孫らしい素直な言葉で哀悼を表すのが一番だろうと判断した。さすがに弔辞を読んだ経験はまだないので、忌み言葉などのマナーには疎く、最低限調べはしたが、そこは僧侶の弟のほうが詳しかろうと思い、あまり気にせず書いて修正をお願いした。

その弔辞を以下に掲げ、祖父への弔いと感謝の言葉としたい。なおこちらは弟の修正が入る前の草稿なので悪しからず。


じいちゃん、98年に及ぶ人生という名の長い道のり、本当におつかれさまでした。
大正の日本に生を享け、終戦後はシベリア抑留を経験し(注:追記参照)、
その後は長年学校教育に携わり、
2人の子をもうけ、5人の孫が誕生し、
令和に至るまでのまさに激動の生涯を今ここに閉じられ、
少しほっとしているところではないかと思います。

子供のころ、夏休みに指宿のじいちゃんとばあちゃんに会いに行くのが、一年で一番の楽しみでした。
海水浴やプールに行ったり、おもちゃを買ってもらったり、一緒にラーメンを食べに行ったり。
じいちゃんもばあちゃんも、孫にはいつも優しかったね。
僕の夏の思い出は、すべてあの指宿にあります。

成長するにつれて会う機会は減ったけど、代わりにお酒を飲めるようになって、
指宿を訪れるとじいちゃんがニコニコしながら缶ビールを出してくれたことを、昨日のように思い出します。
晩年は福岡の施設に移ってくれて、おかげで帰省のたびに会って話をすることができましたね。
じいちゃんは僕を見るといつも子供みたいに喜んで、
たっくんがんばってるね、あの作品のこの文章がよかった、すごいよと褒めてくれました。
交わした握手の力強さを、この右手が忘れることはないでしょう。

著作を自費出版し、句会にも精力的に参加するなど、言葉を綴ることを生きがいにしていたじいちゃん。
あなたの血を継いで、僕は小説家になりました。
植物を愛し、釣りを愛し、高齢になっても携帯電話の操作を覚えてメールをくれる、
そんな、いつまでも心が若く、好奇心の塊だったじいちゃんを、僕は尊敬していました。
じいちゃんから学んだその精神は、僕の仕事を支えています。
そして今でも釣りの趣味が続いているのは、じいちゃんと行った釣りが楽しかったからです。
釣りを始めたと話すと、うれしそうに道具をたくさんくれましたね。
あのときもらったリール、今も東京のわが家にありますよ。

新型コロナウイルスの影響で、昨年の2月以降帰省が叶わず、
最後に会ったのは1年半以上も前になってしまいましたね。
お別れにも立ち会えないのは残念でなりませんが、
僕は節目節目で会いにいけたこと、また晩年に施設で会えたことから、
今は悲しいというより、いっぱい会えてよかったな、という気持ちです。

いつか、じいちゃんの小説を書きたいと思っています。
じいちゃんが立派な人だったことを、作品という形で記録しておきたいのです。
いつになるかはまだわかりませんが、見守っていただければ幸いです。

それでは、どうかゆっくり休んでください。そっちでもばあちゃんと仲よくね。
いっぱいかわいがってくれて、本当にありがとうございました。

岡崎琢磨

画像1

(2015年4月、指宿の祖父母宅前にて、祖父母と母と。このときの滞在の最中に、この祖父母宅の座敷で、僕は『季節はうつる、メリーゴーランドのように』の原稿にピリオドを打った)

追記:あとで判明したことだが、祖父がシベリア抑留されたというのは、どうやら僕の記憶違いだったらしい。満州でソ連の捕虜になったというのが真相のようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?