ショートショート『外出自粛の恋人』

 二〇二〇年四月七日、新型コロナウイルスの国内感染者数増加にともない、東京都を含む全国七都府県に緊急事態宣言が発令された。住民は不要不急の外出の自粛を強く要請され、可能な限り自宅にて過ごすことを余儀なくされた。
 人との接触を減らすしかないぶん、ネットを通じて映像通話のできるアプリを使ったコミュニケーション、いわゆるオンライン飲みやオンラインデートは急増した。これは、そのような状況下で交際を続ける、一組のカップルの記録である。

「……これでいいのかな」
「おーい。やっほー」
「あっ。私、映ってる?」
「映ってるよ。声も聞こえてる。そっちはどう?」
「大丈夫。よかった、使ったことないアプリだから、設定とかよくわかんなくて」
「僕も初めて使うけど、シンプルで使い勝手がいいと評判らしい。お酒、持ってきた?」
「これこれ。缶チューハイ」
「いいね。僕はまずビール。じゃあ、乾杯!」
「乾杯! あー、こんなときでもお酒はおいしい」
「はは。それにしても、とうとう緊急事態宣言が出たね」
「ねー。うちの会社、いよいよ完全在宅ワークになった。出社したら怒られるんだって」
「うちも似たようなもんだよ。まあでも、出勤しなくてよくなって、本当に助かったよね。医療や小売りや宅配その他、出勤せざるを得ない人たちには何だか申し訳ないけど……」
「わかるけど、私たちが悪いわけじゃないから。悪いのは、ウイルス」
「それもそうだね。とにかく、今日からは堂々と自宅に引きこもらせてもらうよ。昨日までは、仕事でしばしば外出してたし……ウイルスの潜伏期間は最大で二週間だそうだから、少なくともこれから二週間は、誰にも会わずに過ごそうと思う」
「私もそうしよう。でも、退屈だろうな。在宅ワークといっても、私の職種は家でできる仕事なんてたかが知れてるし」
「普段は会社なんて行かずに家でだらだらしていたいって思ってるけど、いざ許されるとたぶん、二、三日で飽きちゃうんだろうね」
「そうだよー。私、もう悩んでるもん。明日から何をして過ごすか」
「せっかくなら、こういうときにしかできないことをやりたいね」
「海外ドラマ一気見とか?」
「悪くはないけど……もっと有意義に時間を使えないかな」
「そう言われてもなあ。私、これといって趣味もないし」
「この機会に新しい趣味を見つけるのはどう?」
「だって、何かを始めるにしても家から出られないし、道具を買うにも商業施設は閉まってるし、誰かに教わることもできないんだよ。本当は英会話を習いたかったんだけど、いまはそれも難しい」
「確かになあ」
「そう言うあなたは何をするつもりなの」
「僕は、前から取ろうと思っていた仕事関係の資格の勉強をしてみようと思うよ。まとまった時間が取れることなんてそうそうないから」
「資格の勉強かあ……。まじめに取り組めるなら、それが一番有意義かもね」
「と言っても、自宅での勉強に身が入るのかは自分でも疑問だけどね」
「まあ、この状況はまだまだ長引きそうだし、ゆっくりやっていけばいいよ。応援してる」
「ありがとう。そっちも、何か楽しみが見つかるといいね」
「うん。いろいろやってみるよ」

「もしもーし」
「おっす。今日もお疲れー」
「疲れるようなこと、何もしてないけどね」
「退屈でも、それはそれで疲れるから。で、今日は何飲むの」
「レモンサワーにしてみた。いつもに輪をかけて運動しないから、糖類ゼロのお酒」
「僕は新型コロナウイルスの影響で販売イベントがなくなって、日本国内にあるワイナリーが困っていると聞いたから、通販で購入してみたよ。甲州の白ワイン」
「あ、おいしそう。ラベルもかわいいね」
「そうなんだよ。じゃあ、乾杯」
「乾杯。緊急事態宣言が出てから、今日で二週間かー」
「どうだった? この二週間」
「一日が長いよ。このごろはもう、どうやって過ごすか考えるのも苦痛」
「僕は逆に、二週間がすごく早く感じられたな。新しい刺激がないからかもしれない」
「と言うと?」
「旅行のとき、行きは長く感じたのに、帰りはあっという間だったという経験はない? あれは、行きは知らない道を通るのに対して、帰りは一度通った道だからだという説がある。要するに、人間は新しいことを経験しているときは時間を長く感じて、単調な繰り返しになると短く感じるらしいんだ」
「へえ。そうなんだ」
「年齢を重ねるごとに一年を短く感じるようになるのも、これが原因とも言われている。普通は歳を取れば取るほど、新しい経験というのは少なくなるものだからね」
「ふうん……でも、私にとってはやっぱり長かったよ、この二週間は。私たち、付き合い始めてから二週間も会わないのは初めてだよね」
「だいたい週末ごとに会ってたもんな」
「会えないことが、こんなにつらいとは思わなかった。いつになったら会えるんだろう……」
「さあ……いまのところはまだ、明るい材料はないね」
「ねえ、私たちもう二週間、家でおとなしく過ごしたよね? それで発症してないんだから、私たちは新型コロナにかからずに済んでるってことだよね」
「そう考えていいと思う。僕ら、運がよかったよ」
「じゃあさ、二人きりでおうちで会うくらいなら、大丈夫なんじゃないかな」
「いや、だめだ。そういう気の緩みが、感染を広めてしまうんだ」
「だけど、私の家とあなたの家は、歩いたって片道四十分くらいしかかからない。電車やバスを使うよりは、はるかに安全に会えるよ」
「だとしても、だ。不要不急の外出であることに変わりはない」
「そうだけど……」
「みんなつらいけど、こらえてるんだ。僕たちも、いまは耐えよう」
「うん……わかった。でも、寂しいよ」
「僕もだよ。毎日、会いたいと思ってる」
「それが聞けただけでもよかった」
「がんばろう。きっと、もう少しの辛抱だ」
「会えなくても、ちゃんと私のこと好きでいてね」
「バカだな。当たり前だよ」

「今日は、お酒は?」
「要らない。ひとりで飲むの、もう飽きた」
「そうか。じゃあ、僕も今日はやめとこうかな」
「いいよ。遠慮しないで」
「僕だけ飲んでも、楽しくないから」
「そっか……なんか、ごめん」
「気にするなって。本当のこと言うと、酔うと会いたくなっちゃうんだ」
「……ねえ、私たち、まだ会っちゃいけないの? もう、会えないまま一ヶ月が経ったよ」
「今日も、国内の新規感染者数は減っていなかったからね。収束に向かっているとは言いがたい。緊急事態宣言も、一ヶ月延長されることになったしね」
「でも、歩いて会いにいくくらいならいいじゃない。私もあなたもひとり暮らしで、家族にうつされたり、反対にうつしたりする心配もないでしょう。ひと月も家にいるんだから、ウイルスになんか侵されてないよ」
「検査をしないから判明しないだけで、無症状の感染者も相当数いると聞く。それに外出自粛と言っても、僕はスーパーやコンビニで最低限の買い物をしてる。そういったお店でウイルスをもらってしまった可能性もないとは言いきれない。いま互いにうつしてしまったら、せっかくここまで会うのを我慢してきたことが水の泡だ」
「…………」
「僕、考えたんだよ。いま僕たちが会わないでいるのは、好きな人を守るためなんだって。これもまた、愛情表現のひとつなんだ」
「好きだから会わない、ってこと?」
「そうだ。たとえば相手が大事な試験の前だとか、仕事で忙しいときには会うのを控えるべきだろう。今回のことだって同じだ。世の中には、そういう愛情表現の形もある」
「あなたの言ってることは、正しいと思う。でも……正しすぎて、よくわからなくなるよ」「何が?」
「本当に、会いたいと思ってくれてる? 何だか、私に会いたくないって言ってるように聞こえる」
「そんなことないって」
「本当は、会えないあいだに気持ちが醒めたのを、理論武装でごまかそうとしてるだけなんじゃないの」
「……それ、本気で言ってるのか」
「私だって、こんなこと考えたくないよ。でもあなたからは、会えない寂しさやつらさみたいなものがこれっぽっちも伝わってこない」
「それは、寂しいなんて口にしたところでどうにもならないから……」
「それでも、一緒に寂しがってほしいときもあるの」
「僕が悪いのか? 二人でこの災難を乗り越えるために、会えなくても何とか自分を納得させられる理由を一所懸命考えたのに」
「私は会えない理由なんかが欲しいんじゃない。会っちゃいけないことなんて、言われなくてもわかってる。わがままを言ったところで、あなたを困らせるだけだってことも。でもさ、だからって、私の会いたいって気持ちを、びくともしない正論で跳ね返さなくたっていいじゃない。あなたが正しすぎるから、私は寄りかかることもできない」
「百歩譲って、僕の態度に問題があったんだとしても……きみへの気持ちを疑われたのは、はっきり言って傷ついた」
「あなたの正しさだって、私を傷つけてる」
「もういい。今夜は終わりにしよう。お互い、頭を冷やす必要がありそうだ」
「そうだね。それがよさそう」

「……このあいだはごめん。言いすぎた」
「いや……僕のほうこそ、きみの気持ちを理解しようとしていなかった。ごめん」
「…………」
「…………」
「も、一ヶ月半になるね。やっぱり、まだ会えない?」
「緊急事態宣言は続いているからね。そこは、譲れない」
「好きだから、会わないの?」
「ああ。好きだから、きみにうつしたくはないから、会わない」
「そう……私、この前のことで、いくらか冷静になったの。ひょっとして、会えないあいだに気持ちが離れたのは、あなたじゃなくて私のほうだったんじゃないかって」
「えっ――」
「自信がなくなったの。会いたいっていう気持ちを否定されたときに、この人とこれからもうまくやっていけるんだろうかって、不安になった」
「ちょっと待てって。僕が会うのを拒み続けたからって、むきになるなよ」
「あなたのほうこそ、好きだから会わないなんて理屈をこしらえて、自分の本当の気持ちに向き合うことを放棄してるだけなんじゃないの。人の感情は、理屈のあとについてくるようなものではないんだよ」
「違う。僕はちゃんと、きみのことが好きだってわかってる。本当の気持ちから目を背けているのは、きみのほうじゃないのか」
「だってもう見えないよ、本当の気持ちなんて! 会って確かめることもできないで、それもいつまで続くのかもはっきりしないこんな状況で……もう、何もわかんないよ……」
「落ち着けって。誰にも会えず、やるべきこともなく、家から出られもしない毎日で、精神的に参ってるんだよ。それは仕方ないさ」
「…………」
「とにかく、いまはゆっくり寝たほうがいい。続きはまた今度にしよう」
「優しくされたら、よけいにつらいよ……私、最低だって自覚してる」
「きみが悪いんじゃないから。きみ自身が、前に言ってたろう。全部、ウイルスが悪いんだ」

「今日は資格の勉強に集中できたよ。過去問を解いてみたんだけど、合格ラインに届いてたからうれしかったな」
「…………」
「そっちは何をして過ごした?」
「…………」
「なあ、何か話そうよ。せっかくつないだんだから」
「話すこと、別にない」
「まあわかるけどさ、もうずっと同じ一日の繰り返しだから。そうだ、ウイルスの流行が収まったら、どこか旅行にでも行きたいな。いまのうちに計画立てておこうよ」
「いい。どうせ、いつになるかわからない」
「それはそうだけど……少しは気がまぎれるかもしれないだろ」
「行けないと思ったら、かえってつらくなる」
「そうか。じゃあ、何を話す?」
「…………」
「…………」
「…………」
「わかった、もう切るよ。無理やり付き合わせてごめん」
「…………」
「また、連絡するから。おやすみ」
「……おやすみなさい」

「もしもし?」
「ごめん、こんな夜中に。迷惑じゃなかった?」
「大丈夫だけど……映像、映ってないよ。どうしたの」
「ちょっとね。体調はどう?」
「体温は毎日計ってるけど、今日も平熱だった。ほかの症状もないよ」
「よかった、僕もだ。でね、実は今日、大事な話があって連絡したんだ」
「何、大事な話って……もしかして、別れ話?」
「もう、会えなくなって二ヶ月が経つだろう。きみとの関係がだんだんうまくいかなくなって、僕もいろいろ考えたんだ。自分の気持ちについて、とか」
「うん……それで?」
「はっきり言うよ。もう、好きじゃないのかもしれない」
「……そっか」
「僕はもう、きみのことを好きじゃなくなってしまったのかもしれない。ずっと会わずに付き合い続けることに、限界を感じてたみたいだ」
「そうだね……わかるよ」
「泣いてるの?」
「だって、こんなの悲しいよ。先に気持ちがわからなくなったって言ったのは私だから、あなたのことは責められない。けどさ、ウイルスさえなければ私たち、きっといまでも前と変わらず仲よく付き合っていられた。なのに、ウイルスなんかのせいで関係が壊れてしまうなんて……」
「きみにはまだ、僕と付き合い続けたいという思いがあるのか」
「あるよ。ふられるまでわからない私が悪いんだけど、別れたくなんてないよ。私、やっぱりあなたのことが好き」
「そうか……」
「ごめんなさい。勝手なことばかり言って」
「ううん、いいんだ。きみの本当の気持ちが聞けてよかった」
「…………」
「いつまでも泣いていないで、顔を上げてくれないかな」
「いい。顔ぐちゃぐちゃだから、見られたくない」
「そんなこと言わずにさ。泣かれると、こっちもつらい」
「……わかった。元はと言えば自分で招いたことだから、私が泣くのはずるいよね」
「さあ、顔を上げて」
「うん……あれ? いつの間に映像、映ってたの」
「きみが顔を伏せているあいだに、カメラをオンにしたんだ」
「ねえ、いまどこにいるの? 背景がいつものあなたの部屋と違うけど、見覚えが――あっ!」

 女性は立ち上がり、自宅の玄関へと駆け出した。
 ドアノブに飛びついて鍵を開け、勢いよくドアを押して開ける。
「……どうして。好きだから会わない、って言ってたのに」
 玄関の前に、彼女の恋人が立っていた。
 ここまで歩いてきたのか、こめかみに汗を浮かべた彼ははにかむように微笑み、そして言う。
「好きじゃなくなったとしてもいい。それでも、きみに会いたかったんだ」
 女性は恋人の胸に飛び込む。二ヶ月ぶりに感じる体温が、彼女の凍りかけた心を溶かした。
 新型コロナウイルス流行の収束にともない、緊急事態宣言が解除された日の午前零時四十分のことだった。(了)


※この掌編小説はトーハン「新刊ニュース」7月号(6/15発売)にて「恋の残響」11話として掲載予定です。「新刊ニュース」7月号、または第1~10話が掲載されているバックナンバーをご希望の場合はお近くの書店にてご注文ください。

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