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個別最適化ってなんだっけ

「個別最適化」というと、何が思い浮かぶだろうか。教育業界でこの言葉が広く知られるようになったのは、文科省のGIGA(Global and Innovation Gateway for All. )スクール構想の中で示された「誰一人取り残すことのない公正で個別最適化された学び」という文言だと思う。しかし現場の先生方からは、混乱の声も聞こえてくる。例えば、「何を学校で教えて、何をICTに代替すべきなのか」「指導要領をICTでどう満たせばいいのか」「40人バラバラの進度と学習を管理するのは難しいのでは?」「ICT導入の結果、効率化されるどころかむしろ複雑になるのでは?」などである。

私は個人的に、ICTと個別最適化がセットで話されることに少し違和感を感じる。一旦ICTを切り離して、「教育における個別最適化とは何なのか」を考えてみたい。

学校は何のために存在しているのか

前提として整理したいのが、「学校のは何のために存在しているのか」ということだ。この100年以上、世界中の学校では、すべての生徒に対して等しく知識を伝授するという授業方法が主流だった。「等しく知識を伝授すること」を教育の目的とした場合、個別最適化は必要ない。等しく同じ知識を教授するためには、一斉授業が最も効率が良いのである。これに対して個別最適化は、「個々の生徒の学習能力や進度に合わせて、それぞれを最適な仕方で成長させる」ものだ。だから個別最適化の導入では、従来の教授型授業スタイルからの転換や学校の構造そのものを考えた方が良い。

また、個別最適化というと、カリキュラムを一人ひとりに合わせることだとイメージされる方が多いかもしれないが、それだけではない。学習の進め方、評価など様々な要素を個別最適化することで学習効果は高くなる。その一例として、アメリカの公立校ハイテックハイ(以下HTH)を紹介したいと思う。

プロジェクト型学習の中の個別最適化

HTHでは学校の基本理念である公平性(Equity)を実現するために、個別最適化は欠かせないものだと考えられている。HTHでは教科横断型のプロジェクト学習が行われているが、一人ひとりに違うカリキュラムが与えられているわけではない。与えられる学習課題(プロジェクトテーマ)は全員同じだ。しかしそれぞれのプロジェクトに対する取り組み方は生徒によって異なる。同じゴールを提示するが、そこにたどり着くための方法や、どこに工夫を持たせるかは個人の主体性に任されている。教員は生徒ひとりひとりに異なるアプローチで学習をサポートをする。

HTHがこのような学びを可能にしている背景には、少人数クラス、少ない科目数、教員育成などの包括的な学校デザインによるところが大きい。またHTHの特徴として、それぞれの教員に「何を」「どれだけ教えるか」の裁量が与えられている。例えば、1学年に2人数学の教員がいると、同学年であってもそれぞれのクラスによって全く違うプロジェクトを行うことになる。

プロジェクトテーマは、教員から提示される。「何を学ぶのか」というゴールがはじめに明確に共有されるだけでも、生徒の学習に対する納得感は高まる。

たとえば環境科学で、「地球温暖化がカリフォルニアにもたらす影響」というテーマが与えられたとする。
現状をリサーチし、フィールドワークを行い、どんな取り組みがなされているのかを知る。各グループが記事にまとめ、最終的にはクラスで1つ雑誌にまとめるというプロジェクトだ。

プロジェクト型学習の良い点は、色々なところに生徒を刺激するフックがあることだ。例えば環境問題に関心がない子であっても、人と接することが好きな子にとってはフィールドワークで学校外の大人に話を聞くことには興味が湧くかもしれない。逆にコミュニケーションは苦手だが、記事を書く部分は熱中できる子もいるだろう。このように生徒たちは、それぞれの興味関心・得意不得意の凸凹をあわせることによって、人と協働し何かを創り上げることを学んでいく。

教員はプロジェクトの中で見えてくる、個々の学習の躓きや非認知能力の成長をサポートする。必然的に教員は一人ひとりの生徒をよく観察し、理解しようとすることが求められる。

個別最適化された学びと評価

評価基準とその方法も、それぞれの教員によって異なる。教えているものが違うのだから、その指導ポイント・評価基準が違うのは考えてみれば当然だ。しかしそれは、各教員の主観によって成績づけがなされるということでもある。HTHは公立校だ。「生徒によって指導方法が変わる、評価は教員によって主観的に行われる」ことについて、不満は出ないのだろうか。

例えば上記のプロジェクトを行う際、「カリフォルニアに温暖化による影響はない」と結論付けるグループがいたとする。教員は、その結論をどのように導き出したのか、その過程を理解した上で評価を下す。この場合、事実にあまりにも即していない結論に至っているので、手順に不備があったとして、低い評価がつけられるだろう。

この評価に対して、生徒は客観的な視点(学習目標など)から異議申し立てができる。生徒は、「温暖化に関するデータ」あるいは「温暖化の定義に関する説得的な議論」を展開して、教員と評価について議論することができる。議論の結果、評価が変わらなかったとしても、評価を上げたい場合は課題の再提出などが認められている。

私の恩師であり、15年以上にわたりHTHで教鞭をとるジョン・サントス氏はこう話してくれた。

「HTHではほとんどの教員がテストを行っていない。テストの点という基準ではなく、個人の学習に対する取り組みや成果を、ある種教員が主観的にみて評価している。これは、多くの教師、保護者、生徒にとっては経験したことがないことなので、よく思わない人がいることも理解している。ただし、我々の評価の出し方は、プロジェクト単位で学生に評価を通知し、学期末に総合点として最終の評価を出すものだ。学生はその評価に納得がいかない場合、説明を求めたり、議論することができる。教員の中には、学生自らに自分の評価とその根拠を説明させて、議論の上で評価を決定している者もいる。また、この学習と評価方法の良い点は、学習者がほかの学生と比較することを目標にするのではなく、自分の学習目標に集中するようになる点である。」

学習目標と自分の成果の距離が問題であって、偏差値のような相対的な尺度とは異なる意味では絶対的な基準がある。主観的評価と異議申し立てができるのは、明確な学習目標が設定されているからだ。そういう意味ではテストの点数は客観的だと思われているが、偏差値という指標は相対的なものであるから、テストの点数が本当に客観的と言えるのだろうか。

公平な個別最適化とは

公平な学校とは、生徒全員が同じ授業を受け、同じ課題を解き、同じテストを受け、同じ方法で評価することだと考える人が多いと思う。
 しかし、実際には生徒一人ひとりの学習経験や入学以前の世界観はみんな違う。例えば高校1年生で、高校1年生が持ち合わせていなければならない学力レベルを全員が全教科で持ち合わせているかといえば、そうではない。中学卒業レベルに達していない子もいれば、高校1年生の範囲を1ヶ月で楽にクリアする子もいる。このように学力レベル一つをとっても、実はクラス内にかなりの格差があるのが普通だ。
これは学力に限った話ではない。社会的・情緒的レベルも生徒一人ひとりによって違うのだと理解する必要がある。だから、まったく違う人間に対して同じものを与えるということは、実は公平なことではない。
生徒を公平に扱う最善の方法は、すべての生徒を異なるように扱うことだ。

長くなったので、続きはまた今度。


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