推しを想うオタクの手際のよさについて、そして私の不出来さについて

「推し」とか「推し活」とかいう言葉をよく聞くようになってからだいぶ日が経った。それらは一時的な流行ではなかったようで、それらの言葉にあった目新しさからくる特別さが薄れた今もなお、現代の世の中ではそれらの言葉が使われている。それらの言葉を強調する引用符や括弧が消えただけで、中身は残っている。また、明示的にはそれらの言葉を使っていない場面においても、それらの風味を感じる場面は多くあった。

そんな現代の世の中に対して、不出来な私は疎外感を覚える。誰かが私を追いやろうと画策しているわけではない。誰のせいでもなく、ただただ私が不特定多数の形成する空気を避けているだけであって。だから厳密には疎外感という言葉はこの感覚には適さない。勝手に避けておきながら勝手に羨むという、はたから見れば滑稽なことを私はしている。

「この人、歌が上手なだけじゃなくトークも面白いな」

「このキャラ、かわいいだけじゃなく世界観と密接に関わった生い立ちも奥が深くていいな」

そのように感じる場面は私にもあった。しかし、「尊すぎて死ぬ! 貢ぎたい!」と思うことはまったくなかった。「お金を落とすことで貢献しよう」と思うことも、貢献していたコンテンツが成長することで達成感と充足感を得ることも、逆にそのコンテンツが自分だけのものであってほしいと願うことも、さほどない。好きなコンテンツが廃れたら嫌だ、という感情はあるつもりだから、そのコンテンツを好きでいることは普通に主張するしお金や労力も払うときは払う。しかしだからといって、グッズコンプに精を出すことも、推し中心の生活を送ることも、同担拒否どうこうのような感情が湧くことも、作品やクリエイターが有名になってほしくないと思うことも、なかった。

メディアによる「推しのいる暮らし」のような特集だったり、主人公が推しに狂っているタイプの作品だったりを見る度に、「狂えるほどの愛がない私はまだまだなのではないか」という気持ちになってくる。これらの概念が一時的な流行だったなら、そのような気持ちになるのも一時的なものだっただろう。しかしそうではなかった。概念は希釈された今もなお風味を残し続けている。

愛の形は人それぞれという考え方は理解していたが、それでもそのような気持ちにならないでいるのは無理な話だった。「愛は小出しにせよ」という慣用句も存在自体は知っている。しかしオタクたちの「推せるときに推せ」という言葉に如実に表されているように、手際がよくなければコンテンツはすぐに廃れ、愛を伝える機会すらもなくなってしまう。クリエイターは瞬間的な火力を求めているし、それらを理解している「手際のいいオタクたち」はそれを提供している。どうやらこの社会では、生産者と消費者、その両者に手際のよさが求められているようだ……というのが、私の疎外感に満ちた生活から得た知見だった。

「推しができると生活が一変する」ならば、「生活が一変していない限り、それは推しではない」と思えてきてしまう。下手に論理的で被害妄想的ではあるけれど、どうしてもそのように感じてしまう場面はあった。だから私は先程のような、「手際のいいオタクたちとそうでないオタクモドキ」のような偏屈な捉え方をしてしまっている。きっと私の感じているほどには物事は汚くない。頭の片隅ではそのように考えつつも、頭の中心では偏屈な考えが大きく渦を巻く。

先程からしているこのような愚痴をあまりにも大きな声で言ってしまうと、手際のいいオタクたちの「推し活」に水を差してしまいそうで怖くなる。「推し活をしていない人には発言権はない」というのは完全な被害妄想ではあるけれど、少なくとも推し活が賞賛されているこの現代の世の中に照らしたとき、私は賞賛の対象ではない。

であれば私にとってベストな世の中とはなんなのか。私が好きなコンテンツが、私のする愛し方でも廃れないことはあるのか。……このような愚痴記事は私の好きなコンテンツについて語る場として相応しくないためそのような真似はしないが、端的に言うと、「そんなものはない」。推しに狂うオタクたちによって、私のこの愛し方が可能になっている。手際のいいオタクたちによって、私という手際の悪いオタクモドキが楽しむだけの、クリエイター側の余裕が生まれている。となるとやはり、そのようなオタクたちには足を向けることができないし、水を差すようなことはできない。

「基本料金が無料でありながらも広告のないゲームは、そもそものそのゲーム自体が広告だ。課金をしていないプレイヤーも、広告を見ているというだけだから罪悪感を覚える必要はない。そもそもプロとして活動しているクリエイターは、お金を落とさない人の存在も考慮した上で創作をビジネスとして行っている。それで継続不能な状態に陥ったとしても、それはビジネスの失敗であってお金を落とさない人の罪ではない」

「より自身の性癖に刺さるようなコンテンツが今後も生み出されるようにするには、自身の性癖を客観視できる数値としてクリエイターに叩き付けるのが最善策だ。その数値が最大になるような行動をすればいい。自身の財力をつぎ込むもよし、他の者を沼に引きずり込むもよし。その道理を理解しておきながら、愛があると言っておきながら、なぜ行動を起こさない?」

この醜い心情をこうして吐露したのは、「どうせ誰も見ないだろ」という慢心にもなり得る予想と、「これを機にこの話題について考えることをやめよう」という一種のけじめを付けたいという思いからの行動だった。本当に私が今後この話題をしないかどうかはわからないが、このような場でも設けない限りいつまで経ってもこの事柄に囚われることは明白だった。しかし結局、ここまで書き殴っておきながらこれからどういった行動を取るかの判断はできていない。

私には、胸を張って好きと言えるほどの自信がない。オタクのようでありながら別にオタクでもなんでもない謎の生命体……。もし私が溶けて消えてしまっても、きっと何も変わらないだろう。元より私はそこにいないのだから。


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