書き起こし(5月23日 久米宏ラジオなんですけど)

久米さんラジオでの「日本社会とメディア」と銘打たれた編集版で流れてた対談3連発が面白かったので、radikoで聴けるうちにメモっておこうと取り掛かりったはいいが、途中で魔法の視聴方法があることに気づき、やめた。だから、一部のみ書き起こしメモです。尻切れトンボ。



久米宏×森達也
2016年4月23日の対談より

久)僕も大昔に文章を書いたことがあるんですけど「ドキュメンタリーは出てる人がカメラを意識してる時点で普段の顔とは絶対違うはずだし、つくりものだし、だからドキュメンタリーって実際はありえない」この考え方は正しいですか?

森)正しいか間違ってるか以前に、僕の実感としてはそうだし、そもそも人って演技しますよね。友達の前、妻の前、夫の前、子供の前で。やっぱりどこかで自分を演じてるわけですし、ましてそこにカメラがあるということは、それにより一層拍車がかかりますから、それは当たり前のことで。ドキュメンタリーを辞書で引くと、「事実をありのままに脚色しないで提示する映像の作品」みたいな定義になるんですけど、無理です。まずそこにカメラがあるという段階で、カメラがあるという事実ですから。カメラによって変わった現実しかカメラは撮れないですから。だからまずそれを念頭におくべきだと常々思ってますから、久米さんが仰ったことは当然のことだと思っています。

久)たとえばニュースで被災地の映像が流れるわけですけど、テレビを観ている人はそれを撮ってるカメラマンのことは考えてないんですよね。必ずカメラマンがいて、カメラを回して、潰れた家なり避難所なり撮ってるわけですが、そのカメラマンの性別や年齢や人格わ普段どういうことを考えてるかとかは観てなくて。つまり一人の意思ある人間によって映されたものだとは、視聴者はほとんど考えてないですよね。そう考えると、ニュースとかニュース番組とかって、ニュースの順番決めるディレクターがいて、編集者がいて、分数決めて、これをカットしようとか決めて、ニュースの映像を編集するわけですよ。するとニュースもフィクションなんです、もう。誰かがつくったものなんです。撮影する時にカメラに映る範囲を決めちゃったところからフィクションなわけですよね。カメラの枠外にあるものは撮れないわけですから。だから、ニュース番組も全部フィクションなんです。それに気がついて観てる人がほとんどいないっていうのはどういうわけなんでしょうね?

森)いやー、きょう僕が喋るべきこと全部喋ってもらっちゃったかんじですけど、全くおっしゃる通りです。映ってるものは確かに事実ですけど、それはフレームで区切られた事実ですし、その外にはたくさんの世界があるわけですよね。あるいはアングルによっても全然違います。そもそもなぜそこを選んだのか、その場所を選んだのか、そのニュースをその順番に選んだのか。そこにはいろんな作意や思いがあるわけですし、それは報道だろうがドキュメンタリーだろうが同じです。だから僕は、客観性なんてものは全く虚妄でしかないと思ってます。ただ報道は、客観性をできる限りは目指さないといけない。でも所詮は100パーセントは無理なんだという意識をしっかり上で僕は目指すべきだと思うんだけど、たまになんかね、自分は中立でやってる客観的にやってると勘違いしたようなディレクターなり作り手が居るんじゃないのかな。で、そういった人は、自分が正義になっちゃうんですよね。

久)ただ、ニュース番組に携わってる者は、自分がやってることちょっと考えれば、本当に客観性を持っているかなんて、全然自信がなくなると思うんです。毎日直前まで尺や順序の調整してるのに。なのに勘違いしてる。

森)さらに言えば、そもそもが3分30秒だったニュースを3分にするって決めたのは誰なのか、それをトップニュースにすると決めたのは誰なのかって話でもあるわけで。頭からお尻まで、それは客観性や中立性は介在できるはずはないわけで。自分たちの思いや判断、判断にもいろんな要素がありますよね、これは数字が獲れるんじゃないかとか、これは重要じゃないか、みんな喜ぶんじゃないかとか。でもそういった要素で決めているのは結局は自分たちなんだっていう意識を、伝える側はもう少し持つべきなんじゃないかなと僕は思いますね。で、伝えられる側も、そうやって作られたものなんだって意識をもう少し持った方がいいと思います。どっちもね。

久)いま民放のニュース、NHKもそうなんですけど、なんていうんですかね、僕に言わせると、ドラマ性を入れようとしてるんです。出演者同士の人間関係とかね。ドラマで使っている手法をニュースのスタジオのなかになんとか入れ込もうとしてる。ニュースだけじゃ場が持たないんで、ニュースとは関係ないところやスタジオ全体にある種のドラマ性を持たせて、それが面白いんだろうと勘違いし始めているところがあって、それがまたどのニュース番組でもみんな同じなんですよね。

森)テレビって足し算なんですよね(撮ってきた映像にナレーション足す、テロップ足す、音楽や笑い声を足す、ワイプ足す、など)。僕はやっぱり表現でいちばん大事なのは引き算だと思っています。削って削って、残ったものを見ることで、逆に見る側が足し算をしていくんですよね。でも今のテレビはそれをさせないんですよ。勝手にどんどん足していくから。その結果として、まあ今僕は表現の話をしましたけど、報道もドキュメンタリーも原則は変わらないと思うし、バラエティなんかいちばん顕著ですし、報道なんかはある程度抑制あったと思いますけど、でも今お話うかがってたら報道もそっちの方に行っちゃってるんじゃないかって気はしてきましたね。

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