令和の囲碁講座━第六回━いまさら聞けない(小目への)コゲイマガカリ。

引き続き、コゲイマガカリについて。

囲碁は相手に打たせたいように打たせるゲームであると言いましたが、そう捉えると、何手も先を読む必要が無いというのが分かります。

広く読む必要はあるけども、感覚さえ磨いていれば、一手先の場面の中で一番に相手に上手く打たせることに成功してる局面がどれかを判断できるので、いかにそこに集中出来るか、目の前の一手に無心に臨めるかが問われる事になる。


それで、一間高ガカリというのは、どちらかというと、自分が相手に打たせたいように打たせるというよりは、相手にそれをやらせる、どう局面を進めるかを任せる意味合いが強いと僕は感じています。

コゲイマガカリは逆で、低い位置だからこそ相手を足元から崩しやすい。

星と組み合わせる事で、その特性が活きます。

そんなわけで、最初に隅に星を打っているのだとしたら、隣隅の小目にはコゲイマにかかるのが普通かなと思います。

まず、こすまれた時ですが…

三間に開きというか、左上白に絡んで、受けていられないからと直ぐに打ち込まれるところまでは既定路線で、みんな、よく見る形。

問題は、この後ですが。

まず、ここまでは基本形。

隅のツケと左辺の渡りや取りを見合いにします。

右下に星が待ち構えているので、こう打たない理由が無いです。

多少、厚くしたところで、目が無いなら壁攻めしたろマインド。


白は下辺をかけ継ぐのが最も無難であるものの、それなら、隅を決めてから飛んで進出、中央の膨らみと左辺を見合いにします。

白が左辺を守ったところで、中央をゴリゴリ押していき、右下との振り替わり上等と左上を分断しにかかれば好調です。


なので、後になってから左上で暴れられのは御免だと、先にこすみつけて隅を確保するのを優先することは、十分に考えられます。

それならそれで、まずは、左下から下辺の形を決める。

ツケに対してはねたら、切りが飛んでくるため、下辺はこんなところ。

これで、ほぼ、治まりです。

それから、左上はかけて踊り出ます。

細かい変化は省略しますが、一例だけ紹介すると、ぐずみからの切りには、さらっと、隅をはねついで十分かなと。


かけつぎではなく、伸び切りで間に合わせる事は出来ますが、それなら、左辺は下ツケで渡っておきます。

このように、コゲイマガカリに対してコスミで応じるのは、特に難しい変化もなく対処出来そうです。


次に、こすみつけてきた場合ですが、やはり、かけて中央に進出します。

ぐずんできたら、はねつぎから一目を捨てて、左辺を治まれは打てそう。

厚みは星が打ち消しています。

上に伸びて左を攻めるのは成立しますが、生きられると中央は傷あり、下辺は固まるから黒地に、得したかどうかは怪しい。

もっと分かりやすく、互角に進む道は無いものか?



と、その前に、話は変わりますが、星とコゲイマガカリが相性良いのは分かったけど、それなら、右上は小目なんだから、左上隅にツケたりするのは駄目なのかについて、念の為、触れておきます。

今回の配石に限った事でも無いんですが、ツケにせよ、角置きにせよ、白が伸びてくれない変化を頭の片隅に入れておかないと、この手の仕掛けは打てないんじゃないかという気がします。

その変化が、白が二目の頭を跳ねてくるもの。

白も切りが残るんですが、直ぐに切っても取られるだけなんで、いったんは一間に飛んで守ります。

これで白も守るのであれば、話は簡単、左下に開いて満足なんですが…

挟んでくるんですよね。

手抜きを咎めようと、隅をハネてダメを詰めてから切るのが筋。

ここで白が慌てて10と取るにくるなら嵌りで、あとは何をどうしようとも上手くいかず。

右上の小目が良い位置にあり、黒は種石が渡れます。

でも、そうはなりません。


慌てず騒がず隅を取るだけで話は済み、左下の黒の星は遠く、中央戦になった時は離れて眺めている事しか出来ません。

若干、白ペースの序盤。


ともかく、個人的には、星があるなら、まずはそれを活かすのが先決かなと思います。

小目は打った時点で役割を終えてるようなものなので放置。

前回も話したように、三々入りされたら抑えるものだと思い込んでいる場合、つまりは、隅でアドバンテージを得ようと考えてる人は、それ以外で星をどう活用しようかという発想と縁がないまま、あれよこれよと最初の数手、下手したら一手を打った瞬間には、その機会を永久に失ってしまうために、碁の広がりを制限しているのだろうなと。

なので、先に、三々入りには抑える以外の手段もあることを先に話しておく必要がありましたし、現代碁では星をよく打つからこそ、これから話す星との連携は覚えた方が全体のレベルアップに繋がるのではないでしょうか?


話を戻して、星との連携を前提とし次にかけを見た小ゲイマガカリに対しては、コスミではなく、もう一路、足を伸ばして、ケイマで迎え打ってみます。

あ、ちなみに、より特徴を明確にするために、左上は小目ではなく星に変えさせて貰いましたが、ご了承下さい。

仮に、左辺を普通に治まったとして、その時に右下隅にツケから根拠を奪いに来られるのが厳しいんですよね。

黒が外回りにいくにせよ、中を固めるにせよ、黒が開くスペースがこすまれた時以上に減っていますし、右下に一路近い分、白が繋がりやすくもなってる。

左辺を割られても、お釣りがきます。

左辺を打つのが、いまいちというなら、先に右下隅を打つのはどうかというと、これは右上に三々入りする調子を与えるような気がします。

3と右辺を囲ったばかりなため、黒は受けざるをえない。

で、前回も話したように、これであっさりと生かすのは地に甘くなりがちなんですよね。

例の裾払いのケイマ止めにしても、隅で力んで時間を無駄にするより、辺や中央の方が遥かに価値が高い、未開の場所であるという局面でこそ打たれるもので、既に下辺を2と消されてる今は不適切にも程がある。(その時は、白は這いではなく飛びで左に出てく。)

右上を打ち終えたら、いよいよ、この碁は単調な囲い合いになりますが、僕の経験上、それだと黒が厳しい。

無論、右上を囲うのも同じです。

囲った以上、簡単に生きられるわけにはいかなくなるため、受ける事になるんですが、そうやって受けている内に、いつまでたっても手が抜けないチキンレースになるのが碁を狭くするんですね。

出来れば、相手から先に隅は打たせたい、それなら、手を抜く余地があるため、柔軟に対処出来る。


これ、前回も言ったように、置き碁の基本戦術でもあるため、初心者の頃に経験してる以上、知りませんでしたは通用しないんですが、案外、意識してない人は多い気がします。

いや、囲碁クエストとかで囲碁を覚えた人の場合、互先が当たり前で知らなくても無理ないんですが、どっちにしても、大事な事なので何度も話しますし、この記事を読んだ後からでも、自分が置く側でも置かせる側でも置き碁の練習をしてみてはどうでしょうか?

僕は、昔、そうしていた時期の経験が活きていますし、相手がいないというなら、何でも屋で僕が請け負います。

それで答えの発表ですが、僕なら、このタイミングでツケふくれを決めた後、下辺の白を重くして捨てにくくしたところで、7と二段にハネてコウを仕掛けます。

コウを避けて、左上隅ときにいくなら、黒は普通に連打すればいい。

右下が星のため、そうなってから、下辺を治まるのは容易な事ではありません。

それで白は、誘われてるのが分かってもコウを仕掛けますが、今の局面で左下より大きい場所は存在しないため、どちらもコウダテに関係なくコウを解消します。

黒は、白が受ければコウダテが増える左上への内ツケを放ち、13と連打すれば、下の損を最小限にしつつ左上を破れます。


右下の黒は薄くなりますが、どうせ、三々入りされる予定の場所なんで、多少、薄くなろうと、関係がない。

三々入りではなくかかりから右下を攻めようにも、左上の黒が治まっている以上、絡み攻めが狙えず、攻めの効果が微妙なんですね。

となると、普通に荒らし合いとなり、コウ争いで足早に展開した黒が十分に勝負出来る碁形かなと。


以下、一例ですが、簡単に解説。

白は下辺があれだけ厚いため、出来る事なら右下の黒に絡んでいきたいものの、直に仕掛けても躱されて面白くないので、まずは14とかかって退路を断ちつつ、ハサミを誘います。

右下の黒は、目二つでも生きれば十分、逆に言うと、それ以上を望んだ途端、分不相応として制裁を喰らいます。

なので、じっくりと右上を受けるところ。

白も、いきなり右下を詰めても意味がない、右辺はお互いにとってのダメ場であるため、まずは右上に食い込んで地を制限しながら自身の補強を行い、右下隅にまで足を進めたいかなと。

先手で切り上げて大ヨセに入るみたいな展開が王道で、たぶん、良い勝負。




今回は以上ですが、囲碁がなかなか上達しないのは、どこが価値が大きいのかが分からないのが直接的な原因ですが、そうなってしまうのは、隅を打ったら隅を大事にしないといけないみたいな思い込みがあるからなんですね。

その時に地に出来るところを地にすれば良いだけなのに。

盤上の状況は常に変わるのだから、それについていこうとするなら、自分が何をしたいかよりも、相手に何をさせたいかを考えるのが効率的です。

自分の事に関しては、考えようと考えまいと、どうせ昔からの癖が影響して予想の範疇の手しか打たないため、相手と勝負してる以上、相手に何をさせたいかという基準で手を決めた方が、後になってから期待を裏切られた気分になって混乱、発狂するみたいな事も少なくなるはず。

具体的な戦略がどうこう以前に、そもそも、そういう視点で見ようとしないために、囲碁は何度でも落ち着いて考えるチャンスを与えられてるのに、一向に成長しない。

僕自身、あれこれと部分的な条件づけ、特定の相手の許可ばかり気にするが余りに、自分に無用な縛りを課していた気がするので、良い意味での自己中さ、自己主張を問われるのが囲碁というゲームの本質だと思います。

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