一貫性を持つよりも大事な事

囲碁もそうなんですけど、複雑そうな事ほど、一貫性を持って取り組むように求められるじゃないですか。

でも、理屈で物事を捉える人間である限りは、一貫性を持てと言われずとも、勝手に『自分の中で』一貫性を持った行動を取るようになってるんですよね。(結果的に、満足できる成果が出ていないだけで。)

勉強したくない子供に勉強しろっていうくらい不毛な事で逆効果なんですけど、それでもやってしまうのが人間の愚かな部分であり、人間が神には及ばない能力的に不完全な生き物であるということは問題なようでいて真の原因ではないはず。


それで、最初に結論から言うと、意識的に一貫性を持った行動を取ろうとするのではなく、無意識的にできるというかやってることを各自が基準に生きるしかなく、それが出来ないせいで生き辛い世の中が出来上がってるし、そういう意味での多様性を伸ばしていくのが大事なのではという話。

それって、「やりたい事、得意な事を伸ばす。」っていうのと、どこが違うのかを、これから順を追って説明します。


僕らは、一貫性がどうとかという目的意識から、何故、こんなにも、好きな子を虐めるみたいな不毛な事を繰り返してしまうのか?

理由は、主に、二つ考えられます。

一つは、天災や事故など、思いもよらぬ事から簡単に人生計画が狂ってしまうというもの。

原始人の時代から、人類は他の何よりも先んじて、それを意識し克服しようとしました。

人類が複雑な文化や国家みたいなのを生み出したのも、単に便利だからという理由だけではなく、心理的な理由が根底にあるはずです。

人間一人では不完全で一貫性を保つなんて、どだい無理な話なので、皆で、総合的にそれを成そうとしたと思うんですね。

一人一人では行き当たりばったりで滅茶苦茶であっても、大雑把に全体が一つの方向でまとまっていれば十分だというのは、同調圧力の強いとされる日本人なら実感はあるはず。

僕はそれは間違ってはいないと思いますし、むしろ、原点回帰しないといけないと考えてるんですが、話はまだ途中。


国家とかだけでなく、あらゆる組織とかもそうだと思うんですが、代変わりする内に当初の目的とか歴史とか忘れていきます。

戦争を経験した人の講演とかが、いまだにあるように、知識として学べばいいってわけじゃない。

個人で努力して個人が一貫性を保つなんて不可能だという事を原始人は痛感していたからこそ、国家や文化みたいなのが出来て、それを維持するために複雑な事をするようになっていったんですが、生まれた頃から当たり前のように国家があった僕らは、そんな事を言われたところで理解出来ないため、表面的な部分だけを意識するようになります。


「農家や漁師の人がいないと生活が成り立たないから感謝し、それを維持できるように協調していきましょう。」みたいなのですね。

確かに、それも間違ってはいなんですが、間違ってない、一部だけは合ってるから何でも良いなんて言ってたら弁護士とかは廃業します。

なので、その点は厳しく見て、より上を目指すのは結構なんですが、何度も言う様に、自力ではどうにもならないから、宗教から始まり、国家、文化などと色々な形で一貫性を保とうとしてるのに、そこが曖昧なままに自助努力したところで、たかがしれてると思うんですよね。

自分を含めた全ての人が一貫性を持つためには、むしろ、個人が勝手に一貫性を持つために努力してはいけないんです。

たとえ、どれだけ崇高な理念とかがあろうと、それは単なる我欲でしか無い。

むしろ、個人としては、デタラメでいい加減なダメ人間の方が適しているとも言える。

自分が思い上がっているという意識がないままに、それでも、努力して人生を切り開こうとする人は、気づくと、お金とか非人間的な物に執着したりするんですが、そういうのすら思うように手に入らない人、特に未成年とかが身近にあるものの中から何に注目するか、何を一貫性を保つための拠り所や道具とするかというと、やっぱり、『人間関係』一択でしょう。


多くの人は言います。

「他者を理解し、尊重しましょう。」と。

あるいは、これが他者では無く自己の場合もあるかもしれませんが、ともかく、何も間違った事は言っていません。

ですが、まず僕は、その間違っていない、正しいとされてるという事自体が気に食わないんですよね。

というのも、これは裏を返せば、理解出来なければ悪みたいなニュアンスを暗に含んでいますよね?

これを掲げる人がどういう気持ちなのかは関係ありません。

虐めとかだって、虐めっ子が遊んでるだけだって言っても、色々な視点から見てまずいだろって結論になれば諫められるように、部分的に見て正しいから良いって話にはならないんです。

気にし過ぎだという人もいるかもしれませんが、少なくとも、それくらい気にするくらいがちょうどいい場面がたくさん存在するという事は、特に囲碁をやってる人なら痛感しているはず。


僕が捻くれてるのは、その辺が一番の理由なんですよね。

自分との関係も含めた人間関係を良くする事を目標として性格診断みたいなものに手を出す事、それ自体が、生き辛さを助長する事になる行為だと強く感じているからこそ、たとえ、どんな理由があろうと、正義の名の下に何かをしてる人が許せなくなる時がある。

僕は世間一般で間違っていると言われるような人や行為を擁護しがちなんですが、それは道徳的に正しいと考えてるからやってるのではなく、それが世のため人のためになり、個人も社会も本当の意味で救う事に繋がるという実感があるからやっているんです。

割とドラステイックで正義感とは程遠い動機だと思う。

noteみたいな公共の場ですら、いい加減な事を平気でいったり、間違った情報や言い間違いをしてる事に後から気づいても、わざわざ訂正しようとしなかったりするのも、間違いが悪い事、改善すべき事だという意識がほぼ無いから。

そのせいで、ずっと他人から誤解されることもあったんですが、それでも、こっちの方が人としてあるべき姿だという感覚がどっかにあるもんだから仕方がない。

そんなだからか、自分はどっかおかしいんじゃないか、僕の方が本当は間違っているんじゃないかと、昔は悩んでいたりしたものですが、最近は、囲碁などを通じて、やっぱり、自分は変じゃなかったと考えるようになりました。


というのも、囲碁では大局観が大事であると、散々、言われているにも関わらず、なんだかんだいって、囲碁歴10年以上ありそうな高段者の人とかでも、大半は部分的な正しさの積み重ねを基盤にし、自分の打つ手や一局の構想を決めてるように見える事に気付いたからなんですね。

ここまでに何度も言ってるように、結局のところ、「他人に言われて、はい、そうですか。」とはならないし、自分の実体験などをベースにしないと、大局的に物事を考えた方が良いと価値観にまで落とし込む事って、たぶん、無理っぽい。

無理やり言い聞かせている限りは、それはただの正しさの押し付けにしかならずに、どんどんと自分の首を絞める事になる。

他人にやらなければいい、マイルドにすればいいってもんじゃない。

普段の習慣こそが人生を、世界を創る事になるんですから。


そんなわけで、僕は僕が性格診断とか囲碁に手を出すのは許しますし、それにより理解が進むという感覚があるんですが、同じことを他人にさせる気はありません。

それは、時期早々ってもんだろうとしか思えないから。

囲碁だって、どこでも自由に打てるとは言え、手順は大事とされてる。

多様性、多様性、と言う割に、何故か、世の中で普及してるものは無条件に自分の成長に繋がる、自分にはそれをやる資格があるとナチュラルに信じてる人が多いのが、僕には信じられません。

「〇〇コーディネーター試験みたいなのは受けないと不安になる癖に、なんで、自分が人間であるという資格試験は受けずにいられるんだ?自分と他人が違うからこそ、自分が他人にとって正しいとされるのと同じことをするのが完全な悪であるという可能性を、何故、考え無いんだろう?」
って不思議で仕方が無いんですね。

サイコパスとか、悪気が無い虐めとかが最も質が悪い、無知こそが罪だというなら、まさに、これがそうじゃないのって。



僕の場合、別に特別な家系に生まれたわけでも無く、戦争とか特殊な経験をした人の話とかを聞く機会があったとか、そういうのもないんですが、、、

・物心付く位までの時期は、完全に自分の世界に閉じこもって一人で生きてた。→たまに薬物でトリップして宇宙の神秘に浸る原始人と大差ない状態。

・だけど、それではただ生きていくことすら無理だと低学年の頃に感じ、性別や年齢、人種などあらゆる条件関係なく、友達百人作る必要性に駆られる。→国家や文化などの基盤を自分が初期メンバーとして創ろうとする。

・その結果、無理な事をいきなりやろうとした反動で社会問題を引き起こす。(というか、今でもやりがち。)→普通に理解のある親や親友がいれば、あとは適当にそれらの人に合わせて無難な生活レベルを維持するための努力をするのではなく、もっと高いレベルでの個人の理解などをしないといけないと感じる。(その一つが性格診断など)

と、このように、僕個人の肉体的な成長に合わせて、人類の歴史を辿るような事を自然と経験しているんですね。

たぶん、多くの人は、最後の段階だけを大人になる段階で突きつけられるものだから、心の準備みたいなのが出来ていなくて、それで自殺する程に追い詰められるんじゃないかなと思います。

どこか他人事として捉えているもんだから、何かを奪われたり失ったような気分になって、孤独感を覚える。
(どうも、僕が落ち込んだりする時と様子が違う感じがする。)


だけど、全ての人類にはDNAにこれまでの遺伝情報が残されていると言いますし、本来、生まれた瞬間から、僕らはこれまでの人類と繋がっているはずであり、それを感じ取る事が出来る能力みたいなのが人にはあると思うんですね。

自然と繋がる事も人間と繋がる事も同じ。

スピリチュアル系の偉人とかも、そんなような事を言ってるんじゃないかなと言う気がする。

現代人は、その事を忘れがちなために、自分ばかりが切り離されてる気分になってしまっている。


そして、背景は何であれ、それだけであれば、単に社会の犠牲者、被害者側の立場の人間であるのかもしれませんし、ネットとかで自分に共感してくれる人を求めて停滞するのも本人の自由、むしろ準備が終わるまでは治療に専念した方が良いとも僕は考えてますが、困った事に、双極性障害やうつ病の治りかけの時期みたいに、時々、それ以上を求めてしまうもんだから問題がこじれる。

それが分かりやすく顕れているものの一つが囲碁です。


囲碁は完全実力制のゲーム、箱庭の世界が舞台であるため、政治がどうこう、世界経済がどうこう、災害の影響がどうこうみたいな言い訳が通用しません。

全てが自分の責任であり、そういった意味では、1から人類の歴史を積み上げてる感がある。

とはいえ、幾ら、当事者意識があって、主体的に行動する土壌が用意されているからといって、それで全ての人が同じになるわけではありません。

僕が見た限り、大概、2パターンの傾向にありました。


一つが、経営者目線で囲碁と言うゲームを捉えている性格タイプ。

対局相手を自分とは違う存在であるライバル企業か何かとでも認識し、その上で自分を成長させてくれる存在の一つとしてリスペクトしつつ、囲碁を一つの言語のように扱い、それを操る対局者の方に意識が向いてるような特徴が見受けられます。

とにかく、自身が精神的、経済的(物質的)に自立している状態が理想であると認識しているため、他者の事もそのように扱い常識的、一方で、囲碁というゲームそのものに関しては淡泊で有り、少し、距離を置いて付き合っている感じ。


もう一つが、囲碁を自己表現の場のように捉え、対局相手を自分とは違う存在でありながらも同じところを目指す仲間の様に捉えているタイプ。

囲碁というゲームそのものも自分の分身みたいな扱いをしており、自立というのとはニュアンスが微妙に異なるものの、自分を大切にすることで自分以外の物も大切に出来るという価値観が根底にあるため常識的ではあり、自立してるかどうかはともかく自律はしている印象を与える。


別に、どっちが正しいとかは無いんですが、囲碁って現実世界では実現できない、許されない事すら可能であるゲームなんですから、どうせなら、囲碁でしか出来ない事をやれた方がいいじゃないですか。

だけども、なんだかんだでいって、個人の裁量が認められているからこそ、たかがゲームといっても、自分の殻からは良くも悪くも抜け出せないのが人間です。

囲碁であれ、ネットであれ、結局のところ、自分以外の何かを利用したり協力を取り付けたりしても、出来る事といったら、今、出来てる事の規模を拡大することだけなんですね。

100円稼げるのであれば、ネットで100人集めて一万円稼ぐみたいな。

自分が想像できない事は決して出来ない。

だからこそ、変に感情的にならずに割り切ってるる人が資本主義社会で成功してるし、僕も、それは潔いし悪い事だとも思わない。


そして、そういう視点で上記の2タイプを見直してみると、彼らが囲碁において現実世界で叶えられなかった事を叶える事が難しいだろう事が分かります。

どちらも叶えたい夢とかはあっても、必要に応じて自分以外の他者や物を分けて考える、尊重する事が出来ているため、価値観の違いなどから対立する事はあっても、誰かを敵に回すところまではいきにくく、味方を作るのも割とスムーズに進み、やりたい事があるなら現実世界でも十分に叶えられる、虚構の世界を利用する事はあれど染まりきらない点は共通しているのかなと。

実際、そういったスタンスは囲碁にも反映されている気がします。


具体的に言うと、序盤の打ち方ですね。

囲碁クエストで、数年以上、色んな人を見てきましたが、僕以外の人は初手で天元や5の5みたいな独創的な事をする割には、二手目以降は普通に隅を分け合う、よく言えば、最低限の相手の権利を尊重し、距離感みたいのを保つ人ばかりでした。

生まれつきの性格タイプみたいな、自分の根幹のアイデンティティみたいな部分を含む初手でこそ激しく自己主張するんだけど、それ以降は大人しくて協調性がある。

僕以外の人はもれなく、棋風?とか棋力とか関係なく、皆、そうなんです。

たぶん、普段の人付き合いとかでもそうなんだろうなと容易に想像が出来る。(自己紹介文をきっちりしたりとか)


今回の記事に照らし合わせて考えると、彼らは盤上や戦場のように、赤の他人との間の人間関係においては、良くも悪くも他者の自由を尊重し、それ故に一貫性の無さすぎる行き当たりばったりな行動を取ってしまっているという話。

囲碁が対人ゲームであるからこそ、あるいはネット上での活動において画面の向こうの人間の存在を認識するからこそ、何をやっても一貫性の無い事しか出来ないのがまっとうな社会人なんですね。

そのせいで、先人たちが築き上げてきた今の社会や文化に適応しきれず、いつまでも『外国人、お客さん扱い』と無意識に感じてしまい、「もっと(千年前の)日本人に認められないと!」と思い頑張るんだけど、目の前にいるのは自分と同じ、自分を外国人だと思ってる日本人であるため、結局、スラム街のアウトローな住人みたいに弱者同士で慰め合うことしか出来ずに、人間関係を大事にすればするほど、何故か、この世界そのものに対する疎外感は増す一方、何かの拍子で依存先を失ったり、あるいは今の在り方に違和感を覚えた人が最終的にオーム真理教みたいなものに入信するみたいな。


勿論、まっとうな社会人うんぬんと言ったように、彼らの在り方は自分や個人の首を絞める事にはなるとしても、社会と言う抽象的な存在にとっては有益なため、悪い事ばかりではありません。

人工知能がプロに勝った途端に手のひら返して、二手目に三々入りするような手法を柔軟に取り入れる事が出来ているし、そういった部分こそが彼らの考える自由の定義でもあるのだとしたら、それはそれで必要な手段の一つではあります。

そういうのが性に合ってる人は、盤上における序盤の人間関係における一貫性、道徳観念などにおいて、個人として一貫性のある態度を貫くのではなく、人工知能という、より神に近い存在を含めた全体として、社会的な善?みたいなものの一貫性を保つというのは物の道理に合ってるし、人類の辿る歴史としては正しいはずと僕も確信してるため、今の世の中の流れ自体は歓迎してるんですよね。

人口知能に全てを任せてる今こそが、むしろ、人類としてはあるべき姿であり、人間の時代にそぐうものだと考えてる。

そんなわけで、人工知能が何でもやってくれるこれから先の世では、人間のやる事は二つだと思うんですよね。


一つは、今現在の評価とか実力?とか変なプライドは捨てて、自分が一貫性を持って取り組む事が出来ない分野に関しては、大人しくフォロワーの側に回ること。

例えば、将棋界なんかは、今は完全に藤井君を中心に回っていますが、それで経済的に成功してるだけでなく、仕事を奪われてそうなプロ棋士ですら、より将棋の奥深さにのめり込んでると聞きます。

古代ギリシャ時代から唱えられてるように、将棋の神様というか、あまりにも捉え方が人間離れしすぎていて、ある種、将棋をやるだけのロボット的にすら見える一人の天才が引っ張っていく方が良い気がします。


そういう視点で世の中を見てみるなら、将棋みたいにアマチュアのお遊びレベルでも個人の努力が必要になる分野以外で一貫性の大切さを身近なものとして嗜んでもらうため、ハリウッド映画みたいに大衆的なエンタメ業界、あるいは教育業界みたいな場所でこそ、改めて『ステレオタイプ的な売り方、切り出し方』の工夫が求められるかなと思います。

誰もが憧れるけどなることができない、人間にとって都合の良すぎる(理解した気になれる)一貫性を持った絶対正義のスーパーヒーロー的な存在を前面に出すのではなく、『変に人間味がありすぎるターミネーター』とか、『お人よし、あるいは馬鹿みたいに真面目過ぎるんだけど、よくよく見ると、どっか壊れてて機械じみてる正義の味方を目指す人間』とか、そういう要素を売りにする事で、自然と個性、性の多様さに寛容にもなれるのではないかなと。

僕が、性格分析みたいなのを動物占い的なカジュアルなノリで扱う方がライト勢、初心者には適していると言っているのも、そういった感覚が背景にあります。

理解出来ないし、本当はしたくもないものを、今の時点で知った気になる必要なんかない。

知らなくてもなんとかなる、道を踏み外さないように進んでいけるという事の方が、百倍、大切です。

そこが保障されていれば、本人がその気になった時に、専門家になる道が残る。

表面的な個性とかを抜きにした、真の自分の長所とかを見れるようになっていく。

まず、一人の人類として満たされる事で、一人の個体としても満たされていくという正しい手順。


そこで、これから先に人間がやることの二つ目。

正しい手順を自然に追えている、すなわち、これが、一貫性を持って取り組めているかどうかの評価基準だと僕は見ています。

「いや、でも、その正しいかどうかを、誰がどうやって見定めるんだ。」
って話になるんですが、それが誰でも出来る分野が一つだけあるんですよね。

それこそが、『人間関係』です。


どんな凡人や貧乏人であっても、義務教育を通じて、色んな立場や考え方の人と関わる事になりますよね。

そして、その中で、適切な関係構築の手順というものを、否が応でも学ぶ事になる。

実際に出来るかどうかはともかくとして、noteみたいなSNSを通じた交流が庶民の間で当たり前のように行われている事からも分かるように、少なくともコミュニケーションに限って言うなら、日本人すべての中で、ある程度の共通した見解、正しい手順みたいなものを思い浮かべているはず。

何度も言いますが、頭で分かっていても、実際に出来るかどうかは別です。

でも、誰でも最初は初心者であるように、技術や経験が足りないだけなら、一年もあれば何とかなるから、そこは問題ではない。

正しい手順、マニュアルが示されてる事が、社会秩序や精神的安定には必要なんです。


そんなわけで、まとめると、人工知能のような、個人の好みとかに左右されずに一貫性を持って正しい事が出来る(本人?だけが理解していて、人類には理解出来ないものの)存在が当たり前になった今の時代、それでも、あえて、人工知能に(最初だけ)逆らってまで、自分の道を貫く価値があるかどうかを決めるに当たって参考にする基準としては、
『その分野で、人間関係に見立てて正しい手順を追えていると言えるかどうか?』
というものが挙げられます。

他の事はともかくとして、人間関係を基準として物事の是非を見極める目に関しては人類は人工知能に負けてないし、同じ人間同士でスムーズにマニュアルを共有できると思うんですよね。

技術的には似たような事が出来たとしても、どこか説明はぎこちない所がある人工知能よりも人間から学ぶ方が良くないですか?


先に言ったように、囲碁をやっているまっとうな人の多くは、色々と細かい違いはあっても、二手目以降は無難にお互いに隅を分け合うみたいな特徴があります。

今でこそ、二手目で三々入りをしあうのが当たり前になりましたが、それは人工知能を真似ているだけであり、三々入りが無い、初手でお互いが★以外に打った場合は、結局、昔と同じ事しかやりません。

だからこそ、僕としては、信念を持ったプロ棋士とか以外は、人工知能に従う方が幸せなんじゃないのと提案してるわけですが、僕の場合、昔から先生の言う事は真面目に聞いても、先生に従うことは無い傾向にあったものですから、人工知能が良い教科書、きっかけにはなったとは認めてるものの、彼らとは別のルートで似たような道を辿る事になりました。

その事に関しては、これまでの囲碁講座で、ちょろちょろっと紹介してきましたが、そもそも、何で僕が人と違う事をやり始めたか、僕が何を評価基準として手の善し悪しを決めているのか。

それこそが、人間関係なんですね。


例えばですけど、noteでは、記事のトップに画像添付が出来るようになっているし、目次もつけれるようになっているため、誰かに、いちいち指示とかされずとも、人に見てもらうための最低限のマナーとして、それらの機能を利用する事を普通にやる人は多いはずです。

ただ、そうはいっても、そんな子供でも分かるというか出来る事が出来ない、やらない人もいる。

まあ、僕の事です。

僕の言ってる人間関係の能力というのは、そういう、興味関心さえあれば、誰でも出来るようなものでしかないし、そういう、特別に意識することなく、自然とやってることに集中しましょうって言ってるだけなんですよ。


そして、まっとうな社会人というのは、最後の最後に半目、一円でも多く持ってる方を勝ちとするというルールである囲碁のように(あるいは政治とか)、名目上は出来得る限りの平和を実現することを最上の目的とされているのだけど、どこに打っても、何を打っても自由という、あまりにも抽象的すぎるが故にブレブレになり、対局者のすれ違いやエゴのぶつかり合いによって戦争に発展するような世界において、自分たちなりのコミュニケーション上のマナーを確立していくみたいな作業が苦手っぽいんですね。

囲碁は中国が起源のゲームですが、島国で侵略を受けずに生きてきた日本人は、特に、そういう傾向はあると思う。

そんな面倒くさいことをするくらいであれば、盤外の世界のマナーを盤上にまで持ち出して、それを大事にしている人同士で談合でもした方が、手っ取り早く、その場を平定する事が出来るだろうと考えがちだし、子供の頃から、そういう教育を受けてきた場合、よりいっそう、そういう事を無意識にやってしまいがち。

そんな状態の人が、盤上と言う特殊な世界において一貫性を持とうと意識したところで、どんどん挙動がぎこちなくなっていき、やがては、自分が我慢してすり減っていくか、どっかで爆発して諍いになるかで、マナーがどうとか言ってられません。


僕だって例外ではなく、自己不信でいっぱいだった頃に囲碁を始め、当初は皆と同じような序盤戦略をとっていたのですが、あまりにも僕の在り方に合わなすぎて、いまいち、良い事がありませんでした。

だけども、人口知能がプロ棋士ですら勘違いをしてる事を証明してくれて、僕が間違っているのではなく、世界が、狭い業界でしかない囲碁界のマナーの方が不完全ではないかと考えるきっかけを与えてくれました。


これまでに話している通り、僕は幼少期の頃、世の中には話が通じない人が普通にいて、そういう人とも普通に仲良く友達としてやっていかないといけないのが自分のいる世界であると信じていました。

それが出来ない人間は世界から切り捨てられても仕方が無いとも。

そのため、会社の上司みたいに、長く付き合う事が大前提である間柄の相手であっても、まずは隙を見せないように警戒しつつ、段階を経て自己開示し距離を縮めていくみたいな悠長な振る舞いはやっていられなかった。

長く付き合うからこそ、一番に言いたい事は先に見せておかないと、後になってから揉めたら、全部、自分が悪いって話になるし、実際、そう言われた事がある人も多いのでは。

僕が皆と違うのは、普段からプライベートで付き合う友人ですら、そういう関係だったというだけの話。

遊びだからといって、手は抜けません。

で、結果的に、僕のそういう人間関係に対する見方や在り方が、盤上の世界、盤上の置ける人間関係には適応しやすかったようです。


というのも、対局相手との関係って、ちょっと変わってるじゃないですか。

ただの友達とも、ビジネス仲間とも違う。

お互いがお互いの事だけを見つめ、たとえ、今の自分には何も思いつかない、捻りでだせなかったとしても、無理やりにでも、自分の言いたい事をきちんと言った上で、相手と歩調を合わせ続ける事を強要されるという異空間での付き合い。

仕事人間でプライベートを犠牲にしてる人にしても、友人や家族を大事にして仕事は二の次という人にしても、二つを器用に切り分けて考えたいと願っている点では同じですよね。

そういう無意識での願いが具現化された結果、初手だけは個性的に打って、二手目以降の序盤は無難にお互いに距離を取れるだけ取ったり、常識的な駆け引きだけをしてやり過ごし、中盤以降に余力を残すみたいな打ち方になってるんだと思いますが、僕は、むしろ、逆なんですよね。


まず最初に、自分が言いたい事をいう前に、相手の態度を確認し、方針を確認しようと突っかかる。

相手が引き気味で強い意見を出さなかったとしても、きちんと言質だけは取り、次の交渉の場でスムーズに話が進むようにするみたいな事を繰り返し、中盤に入る頃には、お互いに想定していたような流れで落ち着いて、そのまんま、一本道でゴールまで突き進み、後は縁側で茶を啜りながら打つ消化試合みたいな。

でも、老後に熟年離婚のために若い頃よりも激しく動き回るとかよりは普通な関係だと思いますし、余計な雑念とかに振り回されないからか、何度か言ってるように、囲碁の勉強時間は減ってるのに実力自体は伸びてるという実感があるんですね。


そんなわけで、生き辛いと悩んでいる人や、何とも形容しがたい不安や孤独感、停滞感などに苛まされてる人には、まずは自分の世界を作って、そこできちんとした関係を構築するように勧めてきました。

直ぐに悩みが消えるとは限りませんし、社会的に評価されるかどうかは知りませんが、確かな技術だけはつくため、とりあえず、囲碁みたいに形がはっきりと残る事をやってはいますが、変なところで考えすぎたり、我欲を消すために、新しい形のステレオタイプなモノの見方や嗜み方を試してもらおうと、何でも屋も平行して行っています。


そんなところです。

おわり。










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