ひろゆき流コミニュケーション?、真似てみた!

今回は、過去一に長くなったため、終盤のまとめから読むのを推奨します。

まとめだけでも、三分の一の長さはあるので。

今までにも、何度か話してそうですが、何事にも通用する成功法則?みたいなのが、一つだけあって、それが、『余計な事を考えない、考えさせない様にする』というもの。

その代表的な物が法律による秩序の維持ですね。

個人が勝手に自分の判断で善悪を決めて人を裁きだしたら大変な事になる。

多少、おかしいと思う部分はあっても、黙って、皆が一つの事や一人の指導者に従うのが、なんだかんだで無難だったりする。


とはいえ、それが行き過ぎたら、それはそれで社会問題がどうとか、自分の生活とは関係が薄い事で悩みだすため、何かしらの基準に沿った上で、一人一人の人間が黙って修行とかして人知れず成長することこそが、確実に世の中を良くする方法といえます。

が、そうはいっても、社会を良くするためという目的意識を持って頑張るのであれば、どうしても、自分のやってる事の成果を他人と比較しだして、勝ち組負け組とか考えだしてしまうため、大切なのは、自分の意識する社会の規模を調整する事(例えば、学校は社会の縮図と言われるように、盤上を宇宙と見立てたり。)、それと、安易なやり方で長いマラソンのゴールを決めつけず、今の自分なりのゴールを設定した上で他人と共有することですね。

小さくまとまったり思考停止のゾンビになる事を恐れるがあまり、虚構のポジティブシンキングに頼って努力する人は多いですが、呑気に遊んでいられる義務教育の期間とかに、この社会の中で生きる事を前提とした上での自立というものを教わらないから、そうなるんじゃないかなと思います。

厳しい指導とか独裁者に縋らずとも成長するには何が必要か?

考えなくても良い事って何なのか?

今回は、そういう話。


詐欺師と違って、泥棒は人間関係的にお手軽で無駄が無い。


僕から見て、考えても無駄な事に自分の時間や人生を費やしてる人が多いなあと、ネットを利用していると、よく、感じます。

これに比べたら、ダラダラと適当なことして何も考えずに無為に過ごすとか可愛いレベル。(一応、リラックスしてるわけだし、本人はだらけてる自覚があるため、変に大人の屁理屈を掲げたりしなければ、いつかはやる気を出す。)

無論、僕だって例外では無いんですが、だからこそ、他人は自分を映す鏡というように、他の人の振る舞いを見て学ぶしか無いと思うんですよね。


その際に、自分とは全く縁も所縁もない他人と気軽に関わる事が出来るネットは役に立つ。

自覚が無い事が問題なんですから、今の自分と近ければ近い人程、自分の中で勝手にあれこれと自動的に価値付け(言い訳)してしまい、無駄な事を無駄だと切り捨てられなくなってしまう。

そう考えると、言語によるコミュニケーションが主体であるという点もプラスに働く気がします。

ただ、このように話すと、「合理的に物事を処理するために、他人との関係を薄く広くしろという事か。」と誤解されそうなんですが、そういうわけでもありません。

いや、むしろ逆と言ってもいい。


例えば、考えても無駄な事の筆頭して挙げられそうなもので、
「明らかに自分とは違う価値観を持っている、あるいは、明らかに自分とは敵対する立場にいる人間に関する事。」
があります。

どれだけ理解する努力をしたからといって、たいしてメリットが無さそうな気がするからです。

まあ、確かに、それはその通りで、無理に同じ屋敷で義理の兄弟同然に育てられたところで、恋人を奪われ、親を殺され、結婚直後に船で自分の肉体まで奪われるみたいな事すら、稀にあるため、普通に幸せに生きたいなら、今の自分が付き合いやすい人と生きていくのが賢いやり方です。


が、もう、お気づきかもしれまれせんが、これ、さっきの内容とバッティングしてます。

僕らは、日常的に、特に気にも留めないようなどうでもいい事で、無駄な事ばかり無自覚にしてるのが大問題であり、それこそが個人の成長の妨げになったりしてる。

それを自覚することで、自分の弱み、そして、その裏にある強みを知る事に繋がるんですが、皮肉にも、人間が最も重視して意識する人間関係で無駄な事を排除しようとすると、そこに気付くのが相当に難しくなりそうなんですね。

だからこそ、自分が最も嫌いな相手、100回、殺しても殺したりない位に憎い相手、何の被害も受けてない赤の他人が人づてに話を聞いても叩きたくなるような相手と付き合い続ける事が漫画のヒーローの条件だったりする。

それって、自分の事を本気で心配してくれる親友への裏切りに等しい行為でもあるため、今の自分の人生を全てを捨てる位の覚悟が必要であり、ちょっと自分から進んで選べるようなものじゃないんですね。


なら、現実の世界にヒーローはろくに存在しないのかというと、そんな事はありません。

今の話は、対象が自分とリアルに接点がある一人の人間だったらという仮定の話なので、その条件を変えてしまえばいい。

対象(ラスボス)の強さや大きさ自体は確保しつつ、自分や周囲の人とかが受け入れられるものにするということですね。

というか、たぶん、これ、誰でも、自然にやってる。



その方法というのが、主に2つ。

一つは、単純に現実世界から離れて、漫画とかの虚構の世界で自分の敵を表現する事。

要するに、ここでいう敵とは、自分の中にある社会や他人に対する不満を形にしたものですね。

「自分が気づきを得るために他者を必要とする。」
という最初の方で提示した条件と照らし合わせると、観客や読者の反応を確認するよりも前に自己完結してしまっている嫌いがあるため、なんだか、邪道だし、根本的に今回の話とはズレてる気がするため、こちらの方法に関しては深入りしません。


もう一つは、人間以外を対象にする事。

つまりは、ビジネスの『仮想敵』って奴ですね。

例えば、庶民向けのハンバーガーショップをやりたいっていう発想自体は誰でも考案出来ますが、そうなると、必然的に某ドナルド屋さんとぶつかり合う事を前提で計画を立てないといけないのは、これまた、小学生でも納得する事。

だからこそ、無謀な戦いだと最初は反対する人はいても、本気で努力してれば認めて応援してくれるようになる。

普通の凡人が普通に頑張って普通に周囲の人の協力を得ながら順当に成長しようとするなら、ビジネスやるのが一番なんですね。

お金に全く困って無くて、人脈とかが欲しいわけでもない、家でのんびり趣味とかに没頭するにしても、社会の中での自分の立ち位置を決めるために仮想敵を要する事になるビジネス的な何かはした方が人間は幸福度が増す。

前回、コミュニケーションとは共通点を見出すものみたいな話をしましたが、別に自分が社会的に認められてちやほやされたいなんて思ってなかったとしても、他者との付き合いについて真剣に考えて考えて考え抜いた場合、自分を積極的に売り出しに行くような事こそが誠実さに繋がるという結論に誰もが至る事になるはずだと僕は考えているんですよね。

性格がどうとか、価値観がどうとか、さとり世代がどうとか関係が無い。

やらない理由がどこにも無い、やった方が百パー得なんだからやるしかないってだけ。

だから、基本的には、そこを起点にして論理を展開するのは僕も賛同してるのですが、注意点が一つだけあります。


それは、今更何ですが、
「結局のところ、ビジネスだって人間関係が全てだよね。」
って話。

仮想敵というのは、あくまでも概念に過ぎず、特定の個人を指すものでは無いからこそ、冷静に観察して良い部分は素直に認めて無闇に殴り合うのを避けつつ、足りない部分に目をつけて、そこを潜在的に欲している見込み客に向けたポジション取りを行うのがビジネスの王道だと考えられますが、半端に想像力がある人間はシンプルな理屈通りには動けないんですね。

ただの人型ロボットを見て、それを擬人化したりするように、会社が掲げてる理念を創業者が代表して外向けに話してるのを見たりすると、まるで、その理念のすべてがその個人の価値観や信念によるものみたいな錯覚をしやすい。

というか、錯覚ではなく、事実、そうであるケースも少なくないし、そういう会社こそが数百年も生き残ったりする。

だからこそ、「こいつの商品自体は魅力的でも、こいつの事は嫌い(と思い込んでる)だから買わない。」という不買運動が国家ぐるみで実地されることすら現実にはあるし、人間性を切り分けて考えるって、ほぼほぼ無理なんですね。

それが良い方向に働けば人道とかに繋がるんで、この人間の特性自体は否定するものでもないし、人類は一歩進んで二歩下がるみたいなことを繰り返すしかないのか?


長くなったので、ここで、もう一度、まとめます。

これまでにも言ってきたように、僕個人としては、他人の事なんてどうだっていいし、今さえ楽しければそれでいいって考えてる人を否定する気は、実は、殆ど、ありません。

というか、今の資本主義社会自体が、そういうの前提で運営されてるようなものなので、どんな犠牲を出してでも、自分のエゴで社会を本気で改革するというつもりが無い人が軽い気持ちで口を挟んだところで、テロリストと大差がない。


ただ、それはそれとして、ネット上でのアニメ議論みたいな完全に個人の趣味で勝手にやってるような場面を切り取ってみただけでも、明らかに、どうでもいいことで必要以上に想像力、思考力を費やしてしまい、それで無駄に体力を使って悩みが増えるだけの結果に終わってしまってるケースを、しょっちゅう目にしてきたんですよね。
(ガチに議論に自分の感情をほぼ持ち込まずにゲーム感覚で楽しんでるみたいな人は稀で、大概、自分の個人的な思想を通したいという思いが見え隠れしてる。)

これでは、他人どころか自分のことすら疎かになっているのではないか?

自分大好きな人たちの現状がこんななら、最初から他人のために生きてる人の方が良いって話になるし、実際、本人達もそれを無意識で分かってるからこそ、リア充とかに対する劣等感や、人間そのものに対する虚無感みたいなのがある気がしてる。

僕は正義マンを貫き通せるほどの信念とかはないですが、目の前の人が明らかに迷走してるのを見過ごせるほどに淡泊でも甘くもありません。

一般的な倫理や道徳観念などが僕の闘う理由になりえないように、腕がもげた、足が吹き飛んだ、自分以外の世界中が敵など、力が無い事が闘わない理由にはなりえないと考えているため。


とはいえ、幾ら、息巻いたところで、人を変えるのは難しいです。

幸福に生きる為の効率化を図るためには、人間関係を意識するのが最重要であると説いたところで、それを受け入れる事が出来ない人がいる。

ただ、そういう人はそういう人で、ビジネスとか将棋みたいな形で人と間接的に関わろうとすることはするんですが、それにしたって、裸一貫で強敵と立ち向かうような段階にまで行けば、人間力みたいなのが試される事になり、そこで挫折する人も多い。

というか、人間関係を大事にしてる人にしたって、社会人になって社会で流されてる間に、間接的な部分での膿みたいなのが重なっていき潰れてしまう事がある。


だから、結局のところ、社会関係と人間関係をきちんと明確に意識して切り分けた上で使いこなせるような一部の権力者だとか、あるいは、そもそも、それらに背を向けて自分の世界で生きてる伝統職人みたいな人しか、今の社会で自分らしく生きて他人に良い影響を与えられる人って、なかなか、出てこないんですね。

その事を分かっている人自体は多いものだから、若い頃とかに苦労して一人前になった人が教育に力を入れたり、ナチュラルに教祖っぽい事が出来る人の周囲に信者っぽい人が寄り集まって社会を変えようとしてきたのが、古今東西の人間の歴史なわけですが、それだけでは十分とは言えないからこそ、今の世の中みたいになっている気はしますし、何か、他に、多くの人が見落としがちな最期の重要なワンピースみたいなものがあるんじゃないかって、僕はどっかで感じていたんですね、以前から。

それが、明確に見えてきたのが最近で、最期のワンピースのキーワードが『自由』でした。

これ、宗教に限った話でもなく、政治とかの場もそうかもしれないんですが、昔っから、自分が尊敬する〇〇先生みたいな人の教えを本気で広めようと動いてる信者気質の人って、少し、探すだけでも簡単に見つかるじゃないですか。

彼らは決まって、「先生の教えを全ての人が理解するようになれば、世の中から争いは無くなる。」みたいな事を大真面目な顔で口にしたりするんですが、当然ながら、そういうに反発して藪をつついてみたくなる人種も、一定数、存在します。

彼らの根底には、『正義を盾に、自由を侵害されてるような感覚』があると思うのですが、僕なんかも、そういう部分が強い人間です。


ただ、僕の場合、少し事情が違って、ぶっちゃけ、どちらかというと、僕自身はその場における教祖様みたいな人には割と好かれるというか目をかけてもらえるというか、そんなタイプなんですよね。

キリストに対するユダみたいな?

僕の方も、最初の内は、どちらかというと信者寄りの立場だったりするし、その相手が教祖をやるにはまだ器が未熟だったりした場合、いつのまにやら、立場が裏では逆転というか、共依存みたいな関係になったり。

そんな事もあってか、僕も素直に信者の一員として生きてく方がお互いのためにも世の中のためにも良いんじゃないかっていう葛藤を、子供の頃から、ずっと、相手を変える度に感じていました。

でも、僕と一緒にいると、僕よりも相手の方が頭がおかしくなったりするのが怖くて、僕は他人を愛する事も愛される事も向いてないんじゃないかという思いもある。


ともかく、教祖様に反抗すること、それ自体は、別に誰かに迷惑をかけるわけではないと理解してはいるんですよ。

実際、歴史上、公衆演説会みたいな場において、あらかじめ信者を紛れ込ませておき、疑う大衆の代弁者として、わざと反抗的な振りをして教祖様に論破される様を大衆に見せつける事で信仰心を深めるみたいなことは、本当に色んな業界で行われてきている事です。

教祖の教えの概要だけでも掴んでる位のバカな人が敗北者として無様な姿をさらす事は、デメリットよりもメリットの方が遥かに大きい。

だから、僕みたいなアウトローも必要な役割だと断言はできます。


が、それは客観的な理屈の話であって、僕個人の理想や考えは別です。

冒頭から言っているように、僕はアウトローである事自体には何も思う事はないものの、本人が今の自分に納得出来ているかどうかには煩い。

僕自身や僕を見てる人が、僕は大人しく信者をやってる方が幸せなんじゃないのと少しでも疑問に思ってしまうようでは、僕が僕を許せない。

僕にとっては、自分のユダとしての在り方を、もっと細かく定義して、具体的なポジショニングや行動指針をはっきりさせるという事が人生の全てであるといっても過言ではないんですね。


そんな僕が、とりあえず、自分の人生の目的を意識出来るようになった背景には、たぶん、囲碁の存在があります。


囲碁って、ただの盤上のゲームでしかないため、殺し合いは日常的に行われているものの、プレイヤーである対局者に悪意があるわけではありません。

彼らは彼らなりに、先生の教えてる事を、日々、実践し、勉強して、良い碁を打とうと努力してる。

だけど、自分が意図していたわけでは無い争いに発展させてしまい、気分を悪くするという事も普通にある。

極極一部の、明らかに異質でマナーが悪い人の行為をあれこれ指摘される事はあるんですが、これって、ただの魔女狩りでしかなく、誰かが勝手に決めた一線を越えてるかどうかの差でしかないんですね。

争いの種自体は誰もが持ってる。

どれだけ皆が足並みを揃えて先生の下で努力したところで、囲碁みたいな複雑なゲームの場合、たったの一手、ほんの一路ズレただけで、バタフライエフェクト的に大戦争が起きてしまう。

プロ棋士の碁が人を魅了し、多くの人に良い影響を与えるのは、それすなわち、彼らが神様であろうとしているからに他ならない。

「ニュータイプにあらずんば人にあらず。」
じゃないけど、神様と人間では天と地の差がある。

これは、あらゆる業界でも言える事です。


宗教的なものに傾倒しているかどうかはともかくとして、今の世の中、おかしい事だらけだから、ユートピアみたいな世界にならないかなって、どっかで期待してる人っているはずですが、仮に文句のつけようがない完璧な世界が出来たとして、その栄華は永遠に維持されるんでしょうか?

人間が本質的に成長を求め、親に反抗したりするように、何の不満が無いように見えても、不満が無い事が不満で退屈、すなわち不自由であると感じるようになると思うんですよね。

とするなら、社会で必要な事って、『持続的な成長を前提とする事』と『あえて成長をさせない事を前提とする事』を状況によって分ける事ではないかなと。

だけど、それを組織単位とかでやろうとするのは難しい為、個人でこれを実現する事が求められる。

ただ、それにしたって、やっぱり、個人差はあるため、人によって出来る時と難しい時があります。

僕の碁なんかが、相手が見慣れた場面を何度も見させようとするように、ある程度の専門技術みたいなのを必要とする場合なんかが特に分かりやすい。


なら、僕が囲碁の先生みたいなことをすべきって事なのかというと、勿論、そんな事を言いたくて、こんな話をしてるわけではないです。

いや、だって、そもそも、囲碁自体が持続的な成長を前提とした敷居の高いゲーム扱いされてるわけで、それで、若者も離れていったわけでしょう?

何度か言ってるように、囲碁界が衰退したのは、ある程度は自然の流れであって、むしろ、今の状態が本来あるべき姿に近いんじゃないのかと思ってる。

とするなら、そもそも、必要以上に囲碁を広めること自体がおかしいって事になるし、それと同様の矛盾を抱えてる事に気付かないせいで無駄に悩んだり、本来はあったはずの機会すら台無しにしてる業界や人とかっていそうです。

そして、そうなった背景には、人間関係における満たされない思いみたいなのもあるのではないかと思ってる。

人間には変に想像力がある以上、何事も突き詰めれば人間関係の問題に行き着くため、何かが上手く行ってない人というのは、大概、自分を責めて自信を失いがちな気がする。

僕は、そういう類の悩みとは縁薄い為、他の人がやらない事で多様性を示せるのではないかなと。

『何でも屋』を呼称し始めたのも、そういう背景があります。


では、具体的に、僕が何でも屋で何をやることを想定しているか、一例を紹介します。


ワンピースって、ここ数年くらいは、半年に一回くらいのペースで期間限定の大量話数無料公開してる印象があります。

四皇を二人、正面衝突で撃破し、ルフィも新たな次元の強さになり、いよいよもって終わりが見えてきた感があるため、集英社としても、この機会に途中から読まなくなった社会人とかの顧客層を獲得して盛り上げたいのだろうなと思う。

もう何度も繰り返している事からも、たぶん、それなりに集客効果は出てるんだろうなと推測されますが、これって、他の漫画の宣伝や他の業界でも通用する手法のはずで、誰もが、それを十分に出来ているのか?

やった上で、どうやって集客すればいいのかが分からないと嘆いているのだろうかという疑問を持ったんですよね。


というのも僕、結構、昔から、物凄く不思議に思っている事があります。

それが、『ネタバレをやたらと嫌う人が普通にたくさんいる』ということ。

去年の秋位に、一度、この疑問に関する記事を下書きまではしたんですが、なんか途中で筆が止まったのでお蔵入りしてたんですが、ようやく引っ張り出せそうなので、今回、紹介する事に。


『ネタバレ否定派』の意見としては、「ネタバレされると面白さが目減りして、下手したら読む気が失せることすらある。」とのことですが、これが、どうにも、僕には理解出来ないというか、非合理的に思えるんですね。

だって、展開があらかじめ分かっているからつまらないというなら、気に入った作品を見るために何度も映画館に足を運ぶオタクとかはどうなんのって話になる。


いや、一応、どういう意図で言ってるのか想像はつきますよ。

ネタバレなんて関係ない位に好きになれる作品なんて、そうそう、無いからこそ、基本は単なる暇つぶしが主目的、そこそこ楽めれば十分で、その『そこそこのライン』が崩れないように、時間を無駄にしないようにするためにネタバレを避けてるのだと思う。

実際、そう考えるのであれば、少し前にファスト動画が流行していたのも納得できます。

(好きだからではなく暇を潰すため、効率重視に)娯楽商品を消費する以上、ネタバレを嫌うのも、ネタバレに突っ込むのも同じ行為と言える。


何も間違ってはいないんですが、僕の娯楽に対するスタンスはちょっと違うんですよね。

そして、その違いがどこから生まれているかと言うと、一番は対人関係の違いではないかなと。

アニメや漫画というものが虚構の世界の人間との人付き合いであるならば、普段のリアル対人関係が反映されていても何もおかしくはない。


僕はネタバレって、昔から気にしないどころか、先にネタバレ見ることすらあるんですが、何で、そうなるかっていうと、『最初から丁寧に読み進めようと、分からない事は分からないだろうな。』という、人間(キャラ)に対する、ある種の諦めがあるからなんですね。

だったら、途中から読んでも同じじゃんって。


例えば、敵の魔王の過去について作中の回想で語られたからって、その魔王がどういう境遇で生きてきたかなどはギリギリ理解出来ても、魔王を追い詰めた村人Aとかのモブキャラがどういう風に生きてきたかとかまでは説明も無いし、分からないわけじゃないですか。(勝手に想像するしかない。)

とするならですよ、その世界の問題そのものへの理解は十分とは言えないわけで、長い間、自身にとっての現実として村人Aと付き合ってきた魔王の絶望とかは本当の意味では感じ取れないわけです。(魔王が僕ら読者の存在を認識出来ない様に。)

学校で社会の教科書を読んでるのと変わらない。

娯楽として楽しむんじゃなかったの?お勉強がしたかったの?

と、僕は不思議に感じるんですね。

好きなものや嫌いなものに対する感度が弱くて、大好きと大嫌いしかないために、極端な趣向に走ってるのかなと。


いや、その辺は僕の想像ですし、本題からは外れるんですが、ともかく、僕の言いたい事はですね、分かる分からない、好き嫌い、両想いと片思い、そういうのも大事と言えば大事なんですが、それ以前の問題として、まずはやるやらないだろうと。

僕は、「これこれこういう作品が、今、大人気ですよ~。」みたいな話を聞くと、次の日、コンビニとか行った時に、今現在の最新話をついでに読んだりして、それでも何か琴線に触れるものとかがあった場合、最新話というゴールから逆算するように、過去編を読んでる感覚で第一話から読み始めるということを、よく、やります。

それこそ、もう終盤も終盤、ラスボスと戦ってる最中から読み始めたする。

ついでに言うと、まだまだ連載が続きそうな場合、放置してるとストックが溜まり、いつまでたっても最新話に追いつかないため、最新話と第一話から同時並行に読み進めたりもしてる。

僕が気に入らないのは、欲しい時に情報が手に入らない事であり、ネタバレとかで増える分には気にしないです。


僕、キャッチセールスとかにも、よく引っ掛かるし、僕みたいなお客さんだらけであれば、ステマもし放題、世の中のビジネスマンも生き易くなるだろうなあと思うんですけど、実際には、僕を真似れない人もいるし、そもそも、終盤から読み始めて、ひとまずゴールしちゃう僕はキャッチセールスも最後は断ったりして金出さなかったりする。

玄関にすら入れずに門前払いを喰らわす頑固親父とかの方が、一度、心を許すと、意外とあっさり詐欺師に騙されるという話も聞きますし、総合的に考えるなら、ネタバレを嫌う様な普通の人にこそ、途中からでも試してもらう習慣をつけれるように工夫するという事が、今の人間社会を土台から安定させつつ個人の幸福度を高め、ゆっくりと自己成長させるために最も大切な事ではないでしょうか?

ただ、今の世の中が、そうはなっていないことからも、頭では理解しても出来ない社会人が多いのだろうなとは思います。

僕が何でも屋をやろうを始めようとしてるのには、そういった背景がある。


https://www.pixiv.net/artworks/109914271#1

重要なのは、とにかく、挑戦すること。

ネタバレがどうとか、しょうもない理由で、自分にとって宝物になるかもしれなかったモノを手にするチャンスを逸するのは勿体ないですが、意外と気づかずにそういう事をしてしまうのが人間です。

能力が低いから不完全なのではなく、狭量で世界に背を向けてるから不完全なのが人間です。

そこにさえ向き合う事が出来れば、今の世の中の大概の問題は、特に難しい事をせずとも、大半は自助努力だけで何とか出来るのではないかなと。

その時に、赤の他人が出来る事、やるべき事って、ただ傍にいて、一緒に同じスタートラインから挑戦するか、あるいは見守ってる事くらいだと僕は思うんですね。

そういう意味での何でも屋であり、何か具体的な物を提供する事の対価としてお金を貰うというよりは、ただ僕の身体、時間をレンタルする、そのためだけにお金を払うというビジネススタイルこそが、今は足りてない。


最初の方で話したように、ビジネスが凡人にこそ出来るコミュニーションであるのだとしたら、ただの友達に条件なんてつけないわけで。

一時的に同じゴールを見ている、友達であることに必要なのってそれ位ですし、ビジネスを通じたコミュニケーションを普及させようと思うなら、まずは何でも屋するのが最短ルートのはずです。

実際、社会人になると、気の置けない友人を作りにくくなると言われてるのだって、普段から利害関係、体裁、社会関係ばかり気にしてる人付き合いする癖がついてしまってるからであり、個人の性格や価値観がどうとか気にするのって、真の問題から逃げてるだけだと思うんですよね。

どれだけ、みっともなかろうが、生存すれば勝ちです。


youtubeとかで検索してもらえば分かりますが、漫画に限らず、たぶん、どんな業界であれ、玄人向けの考察動画、その逆に初心者向けに丁寧にゼロから解説してる動画、ネタバレとかはしても自分なりの独自解釈とかで楽しませようとしてる動画ばかりが目立ちますよね。(昔は僕も真似しようとした)

全部、自分の努力を認めてもらって、その対価を頂こうと自分を売り出すスタイル。

甘やかすとかではない、ただ一緒に始めようというスタンスの人の方が稀です。(Vチューバーみたいな、稼ぐ算段が既にある人がやるくらいで、ガチの素人は見ない。)


だからこそ、とりあえず何でも屋をする事自体が、今、この時の日本国内に限ってはビジネス的な価値を持つし、各自で参考にして取り入れて欲しいのですが、だからといって、ただ自己主張は控えて、案山子みたいに突っ立っていれば十分という事でもありません。

口は挟むけど、変にゴールに捕らわれない、自由にゴールを設定出来る人にこそ、その先の適性があると思う。



・まとめ

ということで、最後のまとめに入ります。 

個人的な価値観はどうであれ、どんな人でも、なるべく自分の関心がある分野で楽をしようとします。

重度のアル中の人でも、海で溺れて水飲みまくってる時なんかは、お酒の事なんて頭に無いように、考える余裕くらいはあるからこそ何かをやってみようと思える。

言い換えれば、考える自由があるからこそ、人類は進化・発展してきた。


とはいえ、人ひとりが考えられる範囲なんて知れてますし、自分の中にある無意識の偏見とかをどうにかするには自分と違う考えを持つ他人と関わらないといけません。

特に、自分とは相いれない、普段、絶対に付き合わないような人と意識的に付き合うくらいの事でもしない限り、どうしても、頭でっかちになりがち。

その事を頭では理解していても、そもそも、自由を手にするために動いてる以上、自分と合わない人と無理して付き合う事自体が不自由なんだから、自分の考えを深めるというだけのために、現実世界での不自由に向かっていくって、それ、もう本末転倒じゃないかって考えが脳裏をかすめるがために、賢い人程、これが出来ないのだと思う。

そういう賢い人が妥協を重ねて現実世界の秩序を維持しているからこそ、今の社会が成り立ってる部分があるのも周知の事実なため、自分の生き方を変えられる、変えようと思う人も少ないだろうし。

結果、自分一人で自由になりたいと願っても自由になれないし、生きていく上では人間関係が大切だという事を実感すればするほど、それが出来ない現実とのギャップで幸福度がダダ下がりになる。


それでも、これで終わりならまだマシなんです。

個人が、どれだけ幸福であろうと、不幸であろうと、ある日、突然、事故で死ぬことはあるのだし、自分一人が上手くいかずにモヤモヤしてるだけであれば、本人にとっては大変であっても、死ねばそれまで。

良くも悪くも社会にとっては、何の影響もありません。

人工知能に遠く及ばない程度の頭脳しか無い人類の中でも、色んな巡り会わせで運よく出来上がった超天才だとかの出現を、ただただ待っているだけで、今の世の中は、少しずつ、良くなっていくものだと信じる事が出来ます。

「信じるものは救われる」じゃないけど、今の生活に、ある程度、満足し、未来を信じて死んでいける人だらけであれば、理論上は、そうなる。


だけど、そうはいかないですよね。

バカはバカなりに、何とかして今の世の中を良くしようと考えて行動する、つまりは無駄に期待をしてしまうがために、期待した分だけ苦しくなる。

そうして、何にも考えずに本能的に動けるようなタイプとか、怖いもの知らずの子供とか、自分とは違う自由な人に対して嫉妬したり、純粋な応援の気持ちとは違う願いを込めたりして、他人の人生も歪ませる。

そんな事にならないように、現代の目に見える世界から離れた所に明るい希望を見たり、他者との絆を深めて疑心暗鬼になりすぎないように現実世界の環境を整えたり、落ち着いて物事を考えられるようにリラクゼーションルームを用意したりするのとかも大切ではありますし、それら全ての要素を兼ねそろえているのが、まさに宗教だと僕はイメージしているんですが、本当に、それだけで十分と言えるのでしょうか?

『抽象的で難解だから、安易な対処療法とは違う、根本的な解決策であり、僕等はそれを実現するために努力しなくてはいけないんだ!』
って、それこそ、頭で考えてドツボにハマってしまわないかと、僕は心配になるんですよね。


だって、そもそも、大昔の人類はマンモス狩ってウホウホ言って暮らしたんですよ。

それで十分だったはずなのに、気候変動とかで環境が崩れ去ったがために、仕方なく、対処療法として宗教的なものを生み出していったという経緯であったはず。(少なくとも、シャーマン的な存在を見てるだけだった外野の人はそう。)

つまりは、根本的な解決策を実現するために頭を使う、自分の人生を賭けるなんていうのは、人類の本来の在り方から離れている、不自然な姿だという話。

とするなら、仮に、この先、1000年後の未来に完全に近い人類や社会が出来上がったとしても、その時には宗教は軽視されるようになるのが予想されるし、どれだけ義務教育とかで宗教っぽい事の大事さを教えても先祖返りするような人が現れるのは必然の流れだと僕は思うんですよね。

僕と同じような事を考える人がいるからこそ、SF映画にも、そういうテーマの作品が多くあるわけで。

だったら、宗教による人類の統一とかするよりも、最初から宗教的な対処療法っぽい部分を多様化させた方が、長い目で見たら、二度手間、三度手間にならなくて効率的じゃないの?って事を、僕は今までずっと話してきたつもりです。

問題は、それが可能かどうか、そのやり方も普通の宗教っぽいものに見劣りしないものに仕上がるかどうかなど。


一流の詐欺師は、さも、相手が自分の自由意志で考えて答えを出したかのように錯覚させて、自分の選択を正当化する仕組みを利用して、特定の方向に誘導するなんて言われますが、世の中には宗教的な要素のあるものって、探せば、幾らでも見つかるものの、宗教が価値を持つのって、それを生み出した教祖様にとってだけであって、信者にとっては、どれだけ正しい教えであっても対処療法でしか無いように僕は感じます。

つまりは、自分以外の誰かを助けるという行為は全て、その場限りの対処療法にしかなりえない前提で動くべきだということ。

自分だけでも納得出来る真理を求める事自体は好きにすればいいですが、それと人助け及び社会的な行為全般は別。

将来的に自分も何かしらの分野で、自分の心の安定のために教祖っぽい事を実現する前提で弟子入りするのであればいいんですが、そんな覚悟がある人、そういう気質の人ばかりではないですよね?

僕の囲碁のスタイルにしたって、やってる事は教祖や詐欺師そのものですけど、僕以外に同じような事してる人を見ないことからも、囲碁に対して、そういうの求めてる人って、殆ど、いないんだろうなと思う。

それでも、(あんまり、ごちゃごちゃ考えさせないように選択肢を絞るスタイルの)僕と囲碁を打って、まあ、そこそこ楽しいと思う人がいるように、もっとお手軽に体験できる、頭に頼らないスピリチュル体験(自分の世界を拡大する体験)を普及させる事こそが、他の何より優先されるのではないかという思考の過程を経て、僕は『何でも屋』をする事に決めたわけです。


で、本題はここから。

ここまでの僕の思い描いてるイメージが正しければ、少なくとも、社会的な事で悩む人はいなくなりそうです。

自分の頭で考えられないレベルの障碍者の人なんかは、そもそも、普通の人の悩みとは無縁だし、今現在の社会で成功しにくいタイプの人は周囲の大人と自分を比較して劣等感を覚えたりすると思うんですけど、それは大人と比較するから、そうなってるのであって、子供と大人を比較した場合、たぶん、殆どの人は、子供の頃の方が気楽だし楽しかったと口にするはず。

今の社会は、表面的な多様性は育まれているものの、子供の頃のルールであった対処療法が軽視されがち、ついつい、自分のやってる事が深い意味がある事であると認められようとしてしまいがちですが、だからこそ、立派な大人?をやれない人は、今の未熟な自分だからこそやれる役割というのを自覚し、どうしても何か手を動かしていないと不安だというのであれば、誇りを持って何でも屋をやってもらえればと思っています。


とはいえ、「何でも屋が今の世の中に必要なんだ。」と皆に信じてもらうためにも、一定の割合で、僕みたいに宗教的な考えを経て、そういう結論に至るような人が情報発信して存在をアピールしておく必要がありますよね。

では、どういうタイプの人が、そうなるのか?

僕は、どういう考えで普段の選択の基準を定めているのか?

その点について、最後に説明しておきます。



まず、結構、誤解されがちなのが、本来の僕は自己主張が強いタイプでは無いという事。

noteとかの振る舞いだけ見て判断すると、僕が他人を押しのけてまで自分の意見を押し通す人間みたいに思う人はいると思うんですが、今回の記事でも話してきたように、僕は長年の観察を経て、今、僕みたいのが立ち上がって自己主張しないとどうにもならない、他の人に任せる、責任を押し付けるわけにはいかないと確信を持ったがために、仕方なくやってるだけであって、トータルで見れば、むしろ自己主張は弱い部類です。


というか、単純に、noteの更新頻度とかで比較しても、それははっきりしています。

普通に今の社会に順応する事を目指してる、自分と他人の努力の量を比較することで何をすべきかを評価、判断してる人の方が、高頻度で記事を更新していますよね。

たとえ、それが、昼ご飯のメニューだとか、ありふれた内容のものであったとしても、自分はそれを社会に表明すべきだという考えが根底にあるからこそ、そういう事が出来るわけで、僕みたいにやたらと強い意見とかを口にしてるわけではなくとも、自己主張が強いのは間違いないと思うんですよね。

政治や宗教とかの話をしてる人ばかりが自己主張が強いわけじゃない。

非言語コミュニケーションも含めて、自分の存在を訴える事そのものが自己主張だと僕は捉えています。


と、また少し脱線しましたが、前々回の記事でも話したように、僕が何かを選択する際は、基本、相手の意見、本音に合わせるようにしています。

そんなの誰でも、そうだろうといえば、そうなんですが、僕の場合、明らかにそれが行き過ぎている事がある。


たぶん、僕以外の多くの人は、なんだかんだ言いつつも、自分や相手の意見よりも社会常識とかを気にしてると思うんですよ。(その結果、互いの意見を黙殺する。)

勿論、状況によっては、相手の意見に寄り添う事を優先する事もあるとは思うんですけど、それにだって限度があるわけでしょ。

実際、ルール上は何でも許されてる囲碁みたいなゲームですら、ルールではないマナー面であれこれ指摘して正すように言ってる人が目立つ事からも、そういうのが一般的であることは疑う様がありません。


ですが、僕の場合、まずは相手に好き放題やらせます。

必要であれば、僕がわざわざサンドバッグになりきったりする。

別に、わざわざ僕が止めなくとも、相手だって言いたい事ややりたい事が無限にあるわけでもないんですから、どっかの段階で自分から大人しくなるわけでしょ?

だから、それまでの間は、ひたすらに待ったり、あるいは本人とは関係が無い所で情報収集とか暗躍したりする。
(その行き着く果てが宗教とか。)

そんな僕の態度を見て、ふざけてるとか、やる気が無いとか言う人もいるんですが、僕は大真面目にやってるんですよね。


ただ、まあ、世の中を良くしたい、相手を助けたいというような気持ちが、人よりも劣るという点だけは認めますよ。

何度も言うように、僕は、ひとまず、その場で相手と自分の意見をどうすり合わせるかという事だけを考えていて、そこから、どうしようとかは二の次なんですね。

その場で相手を優しく懐柔しはするけど、よく見ると、自分の意見はきっちり通してるみたいな事も無くて、本当に、意見を合わせる事しか考えてない。

僕にとってのコミュニケーションって、そういうのが軸になってます。


が、当然ながら、それでは相手のためにならなかったり、社会に評価されない事も多く、ついでに言うなら、大人になると誰も自分の本音を人前で口にしなくなったりします。

それどころか、自分の本音が自分でも分からなくなってることすら、割とある。

だからこそ、小学生の頃はガチでやられたい放題で、自分一人で自分の意見とかを口にする事がなかった僕も、今では、なんか宗教がどうとか、社会がどうとか、いっけんすると他人を外から支配するかのような事を口にするようになったんですが、僕からしてみると、そういうコミュニケーションのスタイルを選んだのは、アンタらの方だろって意識なんですね。

僕は昔から何も変わっていない。

アンタらが変わったからこそ、僕はそれに合わせて意見を変えてるだけなんだって認識でいるんですが、一般常識の枠の中で社会的な意見を口にしてる人からすると、僕がただの頭がおかしい人、自分には理解出来ない=自己主張が強くて我が儘な人って、自分の頭の中だけで考えた結論に飛びつきやすいだろうなと感じます。

僕は本当に自分の頭では考えてなくて、割と即興、相手に合わせてコロコロ意見を変えるんですが、昔と今とでは背景は違うものの、ただの都合の良い嘘つき扱いされる事も少なくなかった。

どっちが正しいかとかはともかく、僕が他人に合わせられずにいるというのは事実だったので、以前は、僕の自分の性質を持て余し気味、コンプレックスがあったんですが、近年は、それをカバーする方法が段々と分かってきました。


誤解を恐れずに言わせてもらうと、僕が相手と上手く付き合う、合わせるためのコツとは、『相手を感情的にさせる、もっと端的に言うなら、怒らせる。』というものです。

「それ、あなたの感想ですよね?」
「はいかいいえで答えて下さい。」
みたいに、かなり直接的に煽るようなことは言わないし、出来ないんですが、相手の本音を確認する前に、まずは自分の本音をぶちまけてしまう、相手が社会的な意見を口にしてるのであれば、僕は僕で僕の考える社会的な意見を先にぶちまけてしまう。

自分の中の世界観や軸、自分なりのゴールが定まる事で可能になった、それらの事をやってみると、変に自分を隠して他人や社会に合わせる事を優先する消極的な姿勢を取る時より、はるかにスムーズに、相手と意見を合わせられるのに気づいたんですね。

自分の意見を押し通したいという気分が強くなってる、感情的になってる人が話す言葉や書く文章って、何かしらの特徴や癖みたいなのが出るものだと思うんですが、僕は相手の話の全てを細かく分析してるわけではないものの、なんとなく、相手がどこを強調してる、拘ってる、引っ掛かってるかとかが分かるような感覚があって、何をどういう順番で話せば相手と合わせられる、誘導出来るかとかが見える時があるっぽいんですね。

それで、もしかして、これ、誰でも出来るわけじゃないもんだから、僕以外の人はこんなに無防備に自分の感情をさらけ出してしまうのかなと言う事を、年々、意識するようになりました。
(僕の場合、自分の本当に隠したい部分を隠すためのカモフラージュとかは意識してるんで。)


あと、もう一つ、そうなっている要因として考えられるのが、僕は具体的なゴールを定めて何かをするのを嫌う方だということですね。

他人と議論や喧嘩をするにしても、その逆に、他人に相談とかするにせよ、自分の中で大筋のゴールを決めてる人って融通が利かないじゃないですか。

でも、逆に言えば、その大筋から外れた部分に関しては意識が向かないもんだから、割と相手のいいなりになったりしてしまう。

僕の場合、どんな人でも持ってる感情という大筋に対する感度がどうやら高そうで、そこは外さずに外の部分を調整するのが上手いのかもしれないなと自己分析しています。

そう考えてみると、例えば、『数学の問題を一緒に解く。』みたいに、社会的に定められた正解に沿うのが前提である時なんかは、僕は無力なんですが、『価値観の違う社員同士がどう結びついていくか。』みたいに、誰にも正解が分からないし、決められないというか、そもそも自分では決めたくない、ある程度、納得出来さえすれば、とりあえずはそれでいいから、誰かに相談したいみたいな状況だと、頭で考えてない分、なんか、割とスムーズにそれっぽいものを創り上げれるような感触があります。


そんなわけで僕は、全ての人に合わせて『何でも屋』というものを提示しましたが、僕個人に関しては、『気になる漫画があるけど、途中から読み進めるという方式に慣れてなくて手が出せないので、一緒にゼロから読んで欲しい。(ネタバレ自体は嫌だし、考察も自分でするから口出しはしないで欲しい。)』みたいな単純な相談のみならず、『答えを自分で出す気は無いというか、どっか他人事みたいに感じるもんだから、人助けは得意でも意見を合わせるのは苦手な自分には手に余る。なんか、それっぽい結論だけは欲しい。』みたいな複雑というか、何から手を付ければ良いのかすら分からないものまで、本当の意味で何でも請け負おうかと考えています。

あと、僕が無意識的、意識的にやってる事を身に着けたい、慣れておきたいみたいな人の依頼も、勿論、受けます。

それを目に見える形で実現してる、今すぐにも出来るのが囲碁というだけなので、別に何でも良かったりする。

ともかく、世の中の人が安心して何でも屋をやれるようになるためにも、僕が何でも屋界隈での地位を確保するのが、今の時点での僕の役割なのではないかなと考えているので、僕に賛同する、僕の事が好きな人で、今、他に世の中を良くする方式が思いつかずに手持ち無沙汰だという人は、よろしくお願いします。



おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?