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令和の囲碁講座番外編③形勢判断による着手の変化、隅で切違えた後の処理について~この世全ての悪を肯定する理由~

今回は布石の終わり頃、本格的に中盤戦が始まる部分を題材にしました。

黒の次の一手、どの辺りに打ちますか?

ちなみに、この時点での形勢は、お互い、右下隅に偏ってる印象で、ほぼ互角かなと僕は見てる。
(なので、普通に均衡が取れてそうな手を目指してください。)

考える材料、ヒントとしては、下辺はいつでも取る手があるため、既に黒地は十分にあるということ。

あとは、白地をどれだけ制限するかという話になるんですが…

その部分の認識が曖昧だと、やりすぎたり、あるいは逆に甘すぎて踏み込みが足らなくなったりする。


この局面においては、右上が三々を占めていて堅いおかげで上辺すべりが残っており、左下はただでさえ白が薄い形の上、右の5目取りを見られているため、ヨセの段階でつけ引きが先手になる可能性すらある。

とするなら、右辺を丸々、献上する事になったとしても、その時点で黒が弱石を抱えてさえいなければ、後は普通に寄せて十分だと予想が出来る為、中央さえ地をつけられなければいい、軽く荒らす方針が見えてきます。


ということで、僕の第一感は左上に内ツケです。

白が伸びてくれるなら話は簡単で、後は特に言う事もなく、普通に黒勝ち。

あっさりと手にされた時点で白は終わるので、後の打ち方はともかく、この時点で隅で生かす事だけは許可できません。

そこで、白は外からはねる最強の手段の一手ですが、捌けば十分の黒は、当然、切り違えます。

ここで白の次の応手が主に2つ考えられますが、より価値が大きそうに見える上辺の側に伸びた場合は、黒は左辺だけで何とか手にするしかなくなります。


で、どうするかなんですが、ちょっと意外かもしれませんが、いっけんすると味消しにしか見えないシマリへの横ツケが形かなと。

あんまり具体的に説明はしないので、自身であれこれ検証をして欲しいんですが、切り違いを軸に捌きの形を作る場合、この辺に石があると筋に入りやすいんですよね。

僕、四年前から、この形を何度も確認し直しています。

下ツケだと伸びられた後に手が続かない感じ。

一番に考えられる、白がこれ幸いと普通に受けて左下隅を固めた場合、7から9と斜めに石を並べていけば、あっさりと治まりが見えてきます。

外ハネて反発するなら、今度は、左上を当てた後に上辺に沿ってダメを詰めてもろもろの利きを増やします。

この後の細かい変化は色々とありますが、並べてみた感じ、どれも打てそうでした。

6の下に切り違えるのは機を見て決行すればよろし。


次に白が左辺側に伸びて固めた場合。

今回も、黒は5とこの辺りの石に横ツケします。

左下のシマリに仕掛けた時と違い、今回は白は手を抜いて左上を連打することも十分にありえます。

それなら、黒も連打し、ここの白を切り離します。

6と頑張ったところで、7に石が来ると白は手を抜きにくい。

8と手厚く守りつつ、一度は捨てた右上の白を担ぎだそうと睨みを効かせますが、黒も調子で9から補強し上辺を確定地にし白に下の連絡を促し、大きな大きな両先手の大ヨセに回ればバランスは取れているかなと。

隅は放置しても取られるわけではないため、上辺を受けた場合。

まずは、当てから沿って利きを生み出すまでは同じ。

白は外曲がりから形を崩すのが最強ですが、黒の狙いは…

白が中央を伸びた今回も11と打つ。

せっかく形を崩したばかりで左上の一団を渡られては空振りですし、何より、黒が安定したら、下辺の一団と絡み攻めを狙われてしまいます。

ですので、ここは白も受けるんですが、これで黒の準備は完了。

13と抑えて隅を取るぞと脅しをかけます。


ここまできたら、もう気づくと思いますが、この形、白は切りを狙えないんですね。

切ったところで当て返されて抜いても取り返されるだけ。(今回は他の利きと絡めますし、ふりかわり含みですが。)

大半の人が一度は見たことあるはずの手筋が炸裂です。

切っても得しないとなれば、互いに守り合うのが相場ですが、黒はほぼ完全に治まり。

左辺のハネだしも残り満足が行く分かれと言えます。


最期に、おまけとして伸び以外で応じた変化ですが、普通に黒は打てます。

今回の問題は以上になりますが、実は本題はここから。




前回、定石を知ってはいても、それを実践で打てるかどうかは別問題という話をしました。

ついつい、盤面が複雑になってくると、実力に関係なく定石以外の手に目移り、浮気してしまいがち。
(知識や技術があればあったで、あるいは、人よりも社会的な地位とかが高くやれることが多い人程、なんだかんだで回り道してたりする。)

分かりやすく説明すればそれで十分ってわけでもないんですね。

実際、もし、そうであるなら、今の時代、ネットによって各業界で天才がたくさん生まれてるはずですが、時代とか関係なく出来る人がより出来るようになるだけで、それ以外の層では特に差はなさそうですし。

僕は正しい知識を教えて向上させようというよりは、正しい知識を教えても意味がない事を証明するために、囲碁講座とかをやってる背景があったりする。

ですので、TPOに沿って、その場に相応しい振る舞いをしようとするのであれば、何よりも自分の軸が定まってる、生き方、自分にとっての正しさが分かってる事が重要だし、どこでも自由に打てる囲碁だからこそ、いっそう、それを意識しないと誤魔化しがききません。
(だからこそ、囲碁は人格形成に適してると言えなくもない。)

が、それ以前のところで足踏みしている人も多いはずなので、今回は、その前段階の部分を考えていこうかなと思います。


それで、今回、形勢判断に関する問題を記事にしたのは、多くの人が正しい事を出来ない理由は正しさを信じられない、貫き通すだけの強い意志みたいなものが欠けているのが理由ではないか、歴史に残る偉人はその辺りが凡人と違うのではないかと、僕自身も、考えていた節があるんですが、実はそれって、てんで見当外れなんじゃないかなと。

そういった発想で考えると、何が正しいのかが分かりさえすれば、凡人でも時間さえかけて偉人のいう事を聞いてさえいれば上手くいくんじゃないかという幻想に囚われがちになるのも想像できます。

ただ、実際、偉人の自伝なんかを読んで見ると、彼らの多くが若い頃は未熟でおバカな面もありはしたけど、失敗を恐れずに挑戦し続けたことこそが未来を切り開いた最大のポイントであるというのが共通していることは子供でも知ってることです。

そういう意味で、今回、形勢判断に関する問題を出したんですね。


最初に説明したように、今回の出題図の時点での形勢はというと、僕から見て、お互いに疑問手を打ち合っているおかげで、なんだかんだ、ほぼ互角なところからリスタートしています。

これは人間社会も同様で、人間が不完全だからこそ社会も歪であり、社会がおかしいからこそ自分は成功できないんだって考える人の声ってネットだと目立つので印象も強いですが、歪だからこそ、改善の余地は幾らでもあるし、思い切って挑戦しても互角に立ち会える事も多いと思うんですね。

確かに、挑戦するにしても、最初に簡単な形勢判断を行い、その上で、目の前の一手をきちんと考えるのは重要なんですが、逆に言えば、スタートの時点で理性的であり、それ以降は、先の手まで何手も読まずに一手さえ読めれば十分って話になる。

実際、ちょっとした注意点というか、パターン、コツさえ掴んでいれば、いつでもどこでも好きに打てる囲碁では同じ形が頻出するんで、何手も読まずとも勝てる打ち方というのが明確に存在するんですよね。

元から才能があって努力もできる人がハードモード選ぶのはいいけど、そうじゃない人は堅実にやって、まずは勝ち癖を付けた方がよくない?っていう。

僕は、それを説明するために、囲碁講座やってます。


生きてくうえで正しさは大事だけど、それは最低限でいい。

その最低限が、自分独自の価値観に沿ってるのであれば、尚、良しだし、そこに至って一人前と言える。

でも、なかなか、それが人間は出来ないもんだから、正しい事が分からない事が前提という、未知の分野での初挑戦が大事だというのは理に適ってるし必要最低限に正しいと思うんですが、でも、要するに、結果が出さえすれば良い、結果が同じになれば良い(囲碁で言うと手割みたいに、あるいは僕がやってる打ち方みたいに。)バランスが取れてれば良いわけで、必ずしも挑戦して成功する必要はないんじゃないかって、僕、思うんですよね。


例えばですけど、教科書に乗ってる学者の中には、社会性が完全に欠如してるヤバい人も普通にいますが、そういう人を傍で支えていた普通の主婦とかもいるわけで、皆が皆、挑戦すれば良いってもんでもない。

だから、上手くいくかどうかはトータルで見た時のバランスだと言ってるんです。

囲碁みたいに攻めと守りを交互に同じ人が繰り返すゲームをしていれば、これは実感出来るはず。

だから、そのバランス感覚を養う事は、それ自体に意味が無くとも、どこかで役に立つ、成長に繋がると思うんですね。

なら、具体的に、何をどういう条件でやるのが、その修行になりうるかなんですが、その一つが、少し前に囲碁記事以外で話した『ネタバレ』に関する行為です。


前述のように、僕は、長年、やってきて愛着はあるはずの囲碁ですら、いっけんすると晒しめるような事を平気でやります。

囲碁ですら、そうなんですから、それ以外のあらゆるものに対する態度や接し方も同様です。

でも、僕としては、そうやって外殻を壊し続けた結果、最後に残るものを頼りにする、尊重することが相手の良さを引き出す、相手のためになると信じてるから、そうしてる面があるし、それでバランスを取っていると自負してるため、僕が好きな人に対しても、嫌いな人に対しても、あんまり態度は変わらなかったりする。

その特性のおかげで、今の囲碁スタイルを築き上げる事が出来た面があるんですが、同じことを他の人にやれとは言わないものの、一般常識から離れた部分で自分なりにバランスを取ること自体は、誰でもできるとみています。

その一つが『ネタバレを前提とした娯楽の摂取』なんですね。


本当に好きになった作品であれば、結末がどうであれ、何度も見たくなるものですが、ネタバレされると楽しめなくなるという主張は裏を返せば相手を試してる、いざとなれば切り捨てますよと予防線を張って自分を守っているのと同じなわけで、それってバランスが悪くないかって思うんですね。 

倫理的にどうこうという話ではなく、そんな態度で接していたら、純粋に本人が機会損失するだけだろうという単純な話。

僕からすると、僕以外の人というのは、自分が大切に思っているものとの付き合い方に関しては、多少、過保護な面はあるものの、理性でバランスを取れている反面、それ以外、つまりは、まだ好きになっていないもの、あるいは嫌いになる要素がまだ見えてないものに対する付き合い方に関しては感情的でバランスが悪いように感じる。

好きなものを無闇に増やせないというのは仕方がないし、そこを突くと余計に社会全体のバランスが狂うので、僕もそこは煩く言う事は皆無に近いんですが、それ以外に関しては、変えていった方が殆どの人にとってはメリットの方が遥かに大きいだろうと考えてるから、こうして話題にしてるんですね。

特に、以前も話したように、『世の中を良くする事(抽象的なものを10手先まで読む社会正義)』と『人を助ける事(悪く言えば、後先を考えない勘違いの自己満足。よく言えば、勇気ある挑戦)』、この二つの間のギャップを感じてる人、昔は誤魔化せてたけど今は通用していない人、そういう業界に関しては、これを特に意識した方がいいのは確実。

その代表的なものが囲碁であるために(盤上においても盤外においても余計な感情が不要なゲーム)、僕は囲碁講座とかしていますが、別に囲碁である必要は無いです。

大事なのは、『好きではないものを、誰かの存在の助けを借りてそれなりに楽しむ方法を見つける事、その成功体験を積める環境を用意すること。』であり、ネットに若者が増えた時期にニコニコ動画とかが流行ったのも、その影響だと思うんですね。

特別な何かが必要なのではなく、前提条件を整えて提示するのが重要。

僕にとっての社会秩序やルールというのは、そういう姿をしています。


僕の場合、それが割と自然に出来るというか、それ以外のやり方こそ出来ない部分があるからこそ、何でも屋なんてものを始めたわけです。

囲碁と同じで『何でもいいはずなんだけど、実際には何でもよくないから困ってる。』という状況は少なくないと思うんですが、理論的には僕の言ってる事が正しいし、それをやれるものならやってみたいという人が世の中にたくさん出てきたとしても、僕みたいな人間が一定数、先に準備していないと、実現するのって、たぶん、不可能に近いんですね。

僕が普通の事を大事だと認めてはいても出来ないのと同じで。

だから、僕と同じように自分に自信が無いけど、何でも屋は出来そうだと感じた人は試してみて欲しいなと思います。

全ての人がそれぞれの役割を達成しないと、バランスの良い世の中なんて出来ません。(人は存在するだけで影響を与えてるので、誰かに追い詰められるか、自分で自分を殺すか、どっちかになる。)

ということで、今回はここまで。


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