【白黒つけずに】現代碁で応手を誤る事と、現代人が道に迷う原因は、ほぼほぼ同じ【白黒する】
ガンダムキュリオスonハレルヤ「腕も足も飾りです。自分を健常者だと思い込んでる精神異常者にはそれが分からんとです。」
少し前の記事でも話したように、これからの時代は、機械と人の融合、相反する属性値を繋げる事を要求されるだろうと僕は考えています。
あくまでもお互いの個性はしっかりと保ちつつ、自然な形で繋がるというのは、白黒をはっきりつけるために打ちつつも、互いの動きを注視して合わせていく囲碁とも似た部分がある。
当然、理屈としては単純でも、これは凄く難しい事なんですが、そうなってしまってのは、
「人間というのは自分の個人的な好き嫌いと客観的な正しさを混同してしまう。」
からです。
自分と言うものを完全に捨て去った上で、長期間の訓練でもしない限り、人間が本質的に成長する事はありえないと僕は考えてるんですが、これは、選択を誰かに委ねる、誰かに相談するみたいな話でもありません。
どれだけ尊敬してる先生の言葉とかでも、百パーセント心から信じられるなんてことはありえないです。
心のどっかで疑う、理由を求める事があるなら、その時点で、好き嫌いと正しさを混同しています。
そのせいで、最初は仲良しだったのに喧嘩別れする人がどれだけいるか。
無論、これは自分自身に対しても、神様が対象であっても同じ事なので、これらを区別しようという行為自体がどだい無謀な試みというわけなんですが、意外と、根性でこれを成そうとしてる人は多い。
とりわけ、囲碁みたいに無限の可能性が存在するゲームや人生を前にすると、コツコツを努力すればワンチャンいけんじゃないかと期待してしまうんですよね。
普段、日常で出来てない事は囲碁でも出来ないし、囲碁で出来てない事は日常でも出来ない。
僕が囲碁を経営者向けのゲームみたいに紹介したくないのは、そういった理由からです。
まずは両者の個性をきちんと浮き彫りにした上で組み合わせないと、どっちもダメにするだけです。
では、好き嫌いと正しさを区別できずに道を誤る、失敗を糧に出来ない(ある程度の段階ですぐに正当化が始まり、小さくまとまってしまう。そっから先はひたすら迷走してるだけ。)のが人間とするなら、どうやって成長すればいいのか?
人が成長するには、ただ多くの可能性が担保された箱庭を誰かに用意され、そこで自由に失敗を繰り返せばいいというものでもありません。
(そんな恵まれた環境で生まれ育った人なんて、ほぼほぼ存在しないために、どうしても夢を見がちだけど。)
何かしらの基準、言い換えれば、正しさの下に一貫した行動を取る事で、何がより正しいのか、間違っているのかを把握できるし、不完全でありながら頭で考える人間は、そういう生き方をする以外に他に道は残されていない。
とするならですよ、成長しよう、自分が成長する事で誰かを助ける、より多くの責任を負おうという意識がある人程、『あえて、間違っていると分かり切ってる事をする』というのが必要になります。
正義の反対は別の正義と言う様に、誰かを助けたいって、それ、すなわち自分のエゴ、好き嫌いでしかないんですから、まずはそっちを全力で肯定しつつ、次に正義をゴリ押しすることを許す。
二つを分けてバランスを取るなんて不可能である以上、逆にバランスを無視して進むしかない。
正しい『かもしれない』事と、明らかに間違っている事を交互に繰り返す事で、本質的には成長、前身を望んでいる人類という存在は、プラスマイナスゼロではない、少しずつではあるものの確実に前に進んでいけるのではないかなと。(進むことが良い事かどうかはともかくとして)
が、分かってはいても、易々と出来るものでもありません。
例えば、子供に虐めに加わらないで欲しいと願うのであれば、まずは積極的に一度はガッツリ虐めの加害者とさせない限り、人は学べないものです。
だからこそ、これまでの世の中、倫理観とかぶっ壊れたサイコパスみたいな人種が英雄になったりしてきたんですが、そういう他人に対する責任感とかを生まれつき持ち合わせてない人にしても、自分可愛さ、自分自身に対する責任感みたいなものはゼロではありません。
他人を信頼、頼ることがなくとも、自分の事は信用しないと始まらないですし、そうなると、普通の人が大人になって責任感を持つようになるのと同様、サイコパスだって自分自身に対する責任感だけは養われるはず、それで結果的に努力して社会貢献できるなら、まあ悪い事でもないのかなと思う。
ただ、そうやって責任感が生まれるからこそ、人生、守りに入ってしまう、正しさと好き嫌いのバランスを取ろうとしてしまうというのは、最近のマガジンのサッカー漫画ブルーロックでもテーマになっています。
なので、僕としては、何も慌てて責任感を持って取り組んで成功する必要は無いと思うんですよね。
そうしたところで、いずれは誰もが立ち止まる事になるのだから、永遠に初心者のままでもいい。
そういう意味で言うなら、そもそも、殺し合い自体が認められて推奨されており、人工知能という圧倒的な存在に支配されてる囲碁というのは、教育の手段としては適しているのかもしれません。
が、あくまでもきっかけでしか無い上、人は一日の大半は囲碁以外に接して生きている以上、他の部分でも率先して悪行を働き、他人から顰蹙を買うようなことをしてない限りは、きっかけ止まりで終わってしまうのだろうなとは思います。
全ては自分次第。
囲碁だけで革命や教育をしようとしても足りないという思いから、僕が浮気して手を出したものの一つがMBTIですが、以前、こんな話をしました。
「MBTI理論では、主機能だけでは社会性が担保されず、それ故に、補助機能を使うようになるものの、補助機能もまたペアとなっている代替機能の働き無しでは不完全であるために立ち行かなくなり、それでいったん代替機能に走るという事を繰り返し、いつしか、本来の形である主機能と補助機能の併用に戻るとされている。
だけども、主機能の裏には常に劣等機能の影があるように、補助と代替が主導権争いをして、1・3ループという現象が起きているのと同時に、その前段階として緩やかな2・4ループでお茶を濁している段階、お薬で症状を抑え込んでるから健全にすら思えるのだけど、問題を放置してるのだから、しっかりと病気の進行自体は進んでいる時期があり、最終的には劣勢グリップという形で現れているだけなんじゃないか?
(なんでも、一秒間に数十回とかの頻度でループは起きてるらしいので、不健全時に見えにくくなる補助だけが埋もれてループしてるようには見えなくてもおかしくはない。)
その問題というのが補助機能が通用しないこと、社会的な要因によって生じている以上、そっちについては個人の努力でどうこうできるものでもないし、それが出来るなら不健全にはならない。
とするなら、本人の心がけ次第で何とか出来る事と言えば、1・3ループを避けることではなく、2・4ループで問題をないように振る舞い病気を隠すことを止める事ではないか?
他人はもちろん、自分自身だって、普段、健康で元気なうちは自分を労われないものだし、みっともなくてもいいから病気を隠さずに過ごして、自分や周囲に気を使わせるくらいの方が、長い目で見れば良いし、それこそが誰にでも出来る社会性の発露というものじゃないの?
特に、内向的なタイプの欠点として、そういう特徴が挙げられる事が多いものだから、まずは内向的な人が自分事として問題に向き合い、そうすることで、外向的な人が自分を見つめ直す機会にもなるんじゃないの?
自分の個性や成長ばかりに目を向けてること自体が、僕からすると社会に背を向けてることであり、そんな人間が社会性を口にするとかちゃんちゃらおかしくて笑っちゃう。」
みたいなことですね。
それで、この話は、今回のことにも関わっています。
この、なんというか、責任を取ろうとしてかえって無責任な結果になって、しかも、自分の人生の主人公じゃなくってる感が実にサイコパスのラスボス的で矛盾しているため、自分をみっともなく見せる、あえて悪い事ばかりするとかではなく、どうしても自分を成長させたい、かっこつけたくて仕方がないというのであれば、まずは主機能、主機能こそ磨いて、わざわざ自分に言い聞かせずとも自分は自分の人生の主人公であるという確信を持つ事から始めたらどうだという提案を僕はずっとしてきたんですが、もう少し、補足すると、主機能と補助機能を分けた上で連結したらどうかという事でもあります。
親しき仲にも礼儀ありと言いますし、長く深く付き合うからこそ、最初の内は慎重になる。
親が過干渉だったために他人との関係がうまくいかない人とかが普通にいるわけだし、別におかしい事は言ってないはずです。
今回の話に当て嵌めると、主機能が本人のアイデンティティになっていて曲げられない主観的な好き嫌い、補助機能が必要に応じて使う客観的(多数派的)な正しさになる。
この2つを組み合わせれば、確かに、社会性を最大限に発揮しつつバランスも取れるのですが、レベル1の勇者とレベル50のハゲでは後者の方が強かったりするように、社会で成功して社会貢献しようとしてるなら、当然、力押しに走りたくもなる。
それが2・4ループであり、しょぼい外向型みたいになるんですが、本人はあくまでもバランスを取る事を意識しているものだから、次に1・3ループに移行します。
何故なら、代替機能は頻繁にループしている分、バランスだけは最も取れてる機能だからです。(それは対外的にもそう。悪目立ちしやすい分、笑いごと、笑い者で済む範囲内の事しかやらかさない。)
なので、まずは主機能だけで何とかするという習慣を作る。
そのためにこそ、趣味の世界とかがあると思うんですね。
むしろ、主機能を軸にした方が、10倍は上手く出来るようになる事もある(人間関係も含めて)という事を、僕は囲碁で示しているつもりです。
自分こそが世界の王であるという感触を持ったところで、次に補助機能。
一般的には、こっちでこそ社会的に成功を目指すべきだと言われてますが、僕はその逆を推奨します。
というのも、補助機能って、百パーセント善意でやっていても、「やりすぎだろ、一時の気の迷いとかツンデレとか拗らせとかってレベルじゃ説明がつかないぞ!」と周りからは思われる機能だと思うので、他人に認められようとすると大変。
補助機能は、自分は愚かな奴隷であるくらいの認識で使ってみて下さい。
その結果、仮に世界が滅亡したとしても、それは自分一人の責任じゃない、一人一人の個性を認める、皆が主人公であると言いながらも、補助機能ごときに責任を押し付けようとした社会が悪いのであると開き直るんです。
自分のビジョンに忠実に動いたら、気づくと大魔王として勇者に討伐されていたというなら、それこそがその人の今の役割だったという事なんで、その不都合な未来を「ならば良し!!」と受け入れるために主機能を蒸留させる。
やる前から未来を恐れてたら何も出来ないですしね。
補助機能は使うもの、道具でしかないため、成長させる必要ナッシング、暴走列車させておくのがちょうど良い。
自身ではなく、他を成長させるのが補助。
暴走させて自分の制御を離れるくらいがちょうどいい。
道具からしてみれば、使われないまま倉庫で埃を被ってるより、赤ん坊相手でも使われる方が嬉しいはず。
赤ん坊を成長させる事に喜びを見出すのが道具の役目です。
人に迷惑をかけないように考慮する部分は主機能であり、そこについては、一定の時間、一定の空間などを用意して、存分に発散させる。
これは要するに、自分の中に複数の人格がいるという前提で生きていくみたいな話に近いです。
ストレスにより多重人格になる人が、一定数、いるように、社会の問題で人が分裂してしまうことは普通にあるし、統合されたとしても、やっぱり、色んな自分がいるのは変わらない。
何をするかではなく、まずは個性を認めてあげる。
最初から無理に統合する必要は無いし、自分に対して、そういう態度でいるなら、他人に対しても同じようになるはずだし、それこそが孤独や生き辛さに繋がってると思うので、性格診断みたいなデリケートな分野でこそ、柔軟に捉える方が僕は良いと思う。・
このように、理論自体は変えずに、運用法を社会や時代の変化に合わせて解釈する。
こういう発想や在り方こそが、フォロワー、凡人、弟子、パートナーとかに求められる事であり、社会性の根っこにあるものではないかというのが僕の考えです。
道具は道具でしかなく、それを扱う主人たる自分次第で正義にも悪にもなる。
そういう意味での責任は負うし、そうしてこそ、人と機械の融合のような相容れないものを繋ぐことに連なる。
僕はこれらを総称して、パーフェクトヒューマノイド計画(超人社会の実現)としてます。
それで、囲碁の場合はどうなのかというと、最近になって気づいたんですが、囲碁はやはりビジネスに似てる。
ただし、経営者という視点がなんか違うという点は変わりません。
というのも、経営者というからには、従業員が好きに理想を目差すのは許したとしても、その彼らを守るためにも売り上げを出すことに拘らざるをえなくなるため、必然的に外のお客さんとの関係は(誰でも買える)株主との関係みたく奴隷になりがち。
その結果、『自分が何をやりたいのか、目指しているかを明確にしつつ、相手のために自分が何が出来るかを考え続けましょう。』みたいな、いっけんするともっともらしい指針を示したりするんですが、これって根性論と何が違うんですか?
自分が成長するなら社会的にやりたいことは普通に変わるし、相手が赤の他人に求めてるだって政治なんかを見ても分かるように時勢によって裏返ったりする。
そんな事をどうにかしようとする事自体が傲慢で不毛ではないのかなと。
実際、囲碁だって、強い人程、時間を使いませんし、目の前の一手に合わせて柔軟に変化出来る。
それは手が見えている、読みが人よりも早いだけだから、そうなれるように必死に訓練するんだって言うかもしれませんが、今の僕の実感としては、結果的に手が見えるようになってきただけで、それを目指していたわけではないというのが正直なところだし、囲碁が直ぐに強くなった子供のプロ棋士とかを見ても、才能うんねんは置いておいて、計画性をもって取り組んでいたとは思えないんですよね。
藤井くんですら、大会で大泣きしたり、目の前のことしか見えてない。
没頭することが重要なのであって、どうでもいい事とかまでに意識を向けるのは違うんじゃないかと。
で、囲碁では、どこに打てばいいのか迷ったら、自分が次に打ちたい場所、相手が次に打ちたい場所を考えなさいみたいに言われる事があります。
それを高度に実現してるのが見合いの態度というやつですね。
まあ、それは間違ってはいないんですが、それは結果としてはそうなるというだけであって、神様みたいに何も考え無くともそれが出来る存在もいるし、心掛けること自体は何でもいいんですね。
そこで僕が提唱する方法論が、『相手に何をさせるか、させたいかという手順で考える』というもの。
これなら、自分が打ちたい手と相手が打ちたい手を考えてバランスを取るみたいな二度手間を避ける事ができますし、結果として、相手に合わせる事も容易くなるんじゃないかってことです。
なんだか、相手を支配する事しか考えてないみたいな字面で印象は悪いかもしれませんし、日本人はそういうのに慣れていないと思うかもしれませんが、それは戦後の義務教育とかでそうなっているだけで、昔の日本人は、もう少し、他人との距離感の取り方が上手かったような気がします。
かいこ職人とかが普通にいて、今の時代みたいに、無駄に他人の目線ばかりを気にせずに世界や自分と向き合う時間が多い傾向にあった。
時間は巻き戻せないものの、今は代わりにプロの技を盗む事自体は容易くなったんだから、自分がアマの初心者だからとか適当な正当化はせずに、プロと同じ目線や立場を志す事で、昔の日本人と同じレベルになることができるし、先人たちからもよりまなべるようになるんではないかと思います。
なので、他人と一つの世界で生きて資源を奪い合う、分け合う事が前提である現実の世界において、現実的に実現しえる真の意味での相手中心主義を囲碁でなぞるとどうなるかということを、次回以降、話す予定です。
おわり
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