見出し画像

【完璧主義からの卒業式】ゲームにおいて性能厨は異端?【俺は嫌われてない?】

今更ですが、この前、花火見に行きました。

動画も何本か撮ったけど、noteに直接アップロードするの出来ないんで、画像だけ載せることにする。

少しはふいんき(何故か変換は出来る)が伝われば。

始まった直後、まだ明るい時間帯。正面には野球場と大型駐車場が広がり、遮るものが無いため、見晴らしが良い。(僕は元気に立ち見。)
人が減ってきたため、少しずつ場所を移しています。
この時、帰宅時のラッシュに備えてか、下の駐車場にパトカーが来ていました。
そろそろ、おわり。
屋台は30くらいはあって、ここの会場は車で来てる人が大半だったのだけどアルコールも売られていた。大丈夫?この辺りは割とポピュラーな物を扱ってる。
屋内ではアーチェリーとかをやってた。
祭りの後、屋台が撤収して閑散とした広場。


花火の打ち上げ場所の近くのビルの屋上とかなら、もっと迫力あるものが見れたんですが、今回は、人里離れた山の方にある観覧場所を選びました。

理由は、屋台があるから。

別に僕が何か食べたかったという話ではなく、屋台があるなら人がそれなりに集まるだろうと予想したからです。

実際、事前は多くても千人くらいの集まりを想像していたんですが、当日の体感だと数千人はいるなと感じました。

下手したら、県外とか遠地から来た人すら混じってるんじゃないかってレベル。

山奥にある会場なのに帰りの渋滞は凄まじく、肉体的にはかなり疲れたものの、それだけ活気があって、その日の夜は気持ちよく眠れました。

僕の地元でも打ち上げ場所の真ん前とかは有料で席を販売してましたが、遠く離れた場所でも、あれだけ屋台が出ていて花火開始の一時間前から行列が出来るほどに売れまくってるなら来年以降の開催も安泰かなあと感じましたし、閑散とした有料席で贅沢に花火を味わうよりは、僕はこういうところで祭りのふいんきを味わいたいなと、商売してくれてる人に感謝の念を覚えました。

コロナによって日常生活のリモートなやり取りが洗練された分、こういうイベント時では、よりいっそう、人のエネルギーを集める事の価値が高まってるはずで、それはゲームみたいな家でやる事でも同じなんじゃないかなって。

とにかく、自然な形で人を集める事が最優先で、それさえ出来れは、後のことはどうにでもなるはず。

では、それが満足に出来ているかというと、囲碁界の有り様を見る限り、そうは思えない。

その根本的な原因はどこにあるのか?


以前から言ってるように、「将棋は藤井君のおかげで一過性のブームが起きてるだけであり、それに期待しての一点張りみたいな方針はギャンブルでしかない、それよりは、囲碁を宗教のように人々の生活に根ざしていかないといけない。」という意見は変わってないんですが、最近は、それ以前にもっと重大な問題があるんじゃないかと考える様になりました。

それが何かって話なんですが、まず確認しておきたいのは、今回の記事を見ても分かるように、僕は一過性のブーム自体に個人的に否定的な感情を抱いているわけではないと言う事です。

むしろ逆で、どっちかというなら、平均よりも僕はミーハーな体質というか、そういうのには自分からのめりこもうとするタイプです。

のめりこむんじゃなく、そうしようとするというのがポイントで、そこが誤解を招きやすいのかなとは思う。


というか、それも前に話したはずなんですが、僕は盛り上げるために自分一人が犠牲になるだけで済むなら小さい頃からやってきました。

むしろ、周りの学生の方が非協力的だと感じることすらあった。

が、それが行き過ぎた余りに温度差を感じたり、自分の中でのバランスを崩したりしてキャラ崩壊して今があるんですが、なら、どうしたら良かったのか、僕と多くの日本人はどこが違うのかというのが今回の主題。


で、思ったのが、僕みたいにイベントが好きな多くの人(ソシャゲのイベントとかも含む。)、つまりは、自分の娯楽を誰かと共有しようとしてるネット社会を生きる人というのは、自分と自分以外の他者(アニメキャラとかも含む)との関係において、性能差というものを軽視しすぎなんじゃないかということ。

今の子供は学芸会で皆が桃太郎をやって、犬や猿役がいないみたいな笑い話?を聞きますが、あれと同じ事があちらこちらで起きてる悪い意味でのゆとりっぷりに問題が凝縮されてるみたいな話です。

実際、僕のやってるアークナイツですら、その手の問題はある。


アクナイはユーザー間での対人要素は皆無に等しく、インフレも抑え気味なため、自分が好きなキャラを使えば良いとよく言われてるんですが、それでもサービス開始から5年が近づくにつれ、インフレが加速気味にあります。

アスカロンからのウィシャデルとロゴスは完全に一線を越えちゃった感じで、僕も驚きました。


でもね、言うまでもなく、バランス調整って難しいんですよ。

ステージ考えるのだって大変なんで、仮にインフレさせる気がほぼ無かったとしても、色々と新しいことをやろうとした結果、インフレしてしまうなんてこともあるし、今の社会が地球環境を破壊して戦争の道具を生み出してるように、世のため人のためと顔の見えない誰かのために努力する事で偏りが出来るのは人間社会の摂理だと思う。

だとしたらですよ、一人のキャラを好きになって始めたからこそ、社会全体の事を考えろとまでは言いませんが、自分が関係する、自分の視界に入る範囲で性能という客観的な要素から逃げては損だと思うんですよ。

そこから目を背けたら、世界全体を否定して背を向ける事になるし、結局、自分の好きな人や自分自身も信じられなくなり、嫌いになる。

それで宗教やらなんやらに逃げるか自殺するかの二択みたいになるくらいなら、シビアに性能差に沿ってじっくりと考えることで、数は少ないかもしれないけど良い部分を見つけたり開発したりする方が健全。

だから、たかがゲームだからこそ、真剣にやるしかかいんじゃないのと前から主張してます。

でも、そんなことは、皆、薄々は感づいてるのだろうとは思います。

だからこそ、自分には何か夢中になれるものが今はないからと自分探しをするのかもしれません。

それが分かりやすく反映されてるのがMBTI界隈です。


僕も色々と言っているせいで、いまいち、僕がどこから来てどこに行こうとしてるのかが分かってもらえないんですが、基本的な姿勢は昔から変わっていません。

なんか、今のMBTIに関する問題を、単なる個人の知識不足、つまりは頭の悪さや怠慢に結びつけて語ってる専門家を、腐る程、目にするんですが、僕はそれは結果でしかなく、真の問題は別にあると考えてるんですね。

僕が問題視してる部分は、自分探しをするためにMBTIを勉強するという点なんです。

真剣にやれば良いという話じゃない。


ここで言う自分探しというのは、個人間の性能差を客観的に受け入れずに、その代わりの手段として知識やら何やらに縋る行為全般を指します。

MBTIがどうこうという話ではなく、僕は囲碁で自分探しするのもやめろと言ってる。

何をするかではなく、どういう動機や過程を経てるかにより、自分探しになるか、あるいは自己理解や自己受容(つまりは世界認識)になるかが最初から決まってしまう。(そんな残酷な真実、個人の違いを受け入れずに勉強しても無駄。)


で、具体的に、その自分探し行為の特徴が顕著に現れてるポイントがいくつかあるんです。

それが、INFJの神聖化、Teに対する誤解と偏見です。

まず、前者についてなんですが、ネット上でIFJの美点とされてる特徴の多くが、実はIFJの欠点であるというのがそれに該当します。

そんなことをしてれば、どっかで矛盾が生じるはずなんですが、それをNiの曖昧さで誤魔化す事で防ぎつつ、理想的?なISFJをINFJ扱いして筋を通そうとしてるのが見受けられます。

そして、本来は欠点であるものを長所のようにする事でINFJを追い詰めて、MBTI理論そのものに対するずれた理解をしてるのが現状です。

後者については、Teの良い部分は他の機能に、他タイプの悪い部分はTeに、みたいな扱いされて、それらが相まって、ますます、INFJを中心に全てが歪んだ認識をされる始末。


それを感じた僕としては、細かい理論がどうこうよりも、まずは誤解やすれ違いを減らすところから手をつける以外に道は無いなと記事を書いてきました。

僕自身は特定のタイプの味方ってわけでもないんですが、今の風潮のままに進めば、勉強が出来ると思い込んでるだけのバカが増える。

それについては本人が困るだけなんで、他人が口を挟む事でもないとはいえ、そういった願望を他人に投影した結果、体育会系のESTJが迫害され、表面的には無難に見える不健全なIFJ、分かりやすい技能とかに優れてるわけでもない普通のISTJやISTP辺りが自分らしく生き辛い世になるとしたら、それはさすがに見過ごせません。

だから、現時点で好きなように勉強したところで自分探しにしかならないような人に対しては、「もっと脳筋になれ、未熟な若者とかが老人より優れてるのは身体だけなんだから、役に立つのか分からないような事こそガリ勉になれ。」みたいな趣旨の事を言いました。


なんか、今の時代、若者が老人の借金を背負う高齢化社会が進み、生まれた時点で罰ゲーム、一方的な被害者である(から老人を否定して良いしするべき)みたいな空気が蔓延してるような気がして、人並み以上に働いてる老人だけが価値があって、好きなことが無い若者は自分探ししないと不幸だとするふいんきがあります。

でも、それって、どちらに対しても失礼です。

若者だって世の中を変えられる主人公だし、老人は義務感とかではなく楽しんでラーメン屋やってるかもしれない。勝手に枠に嵌めてるのは自分。

これこそが生き辛さを生んでる日本人にとってのラスボスなら、それを打倒するのが最優先。

そのための旅の中で特定のタイプに肩入れしたり、批判したりするのは、僕にとっては当たり前の事なんですが、それが共有出来ない人からすると僕みたいな人こそバカであると見られるのも仕方がないんですね。

が、それはそれで工夫不足で、僕にももっとやりようがある、上手い切り口があると気づきました。

どうやって、僕の考えを広めていくか…



だいぶ話が脱線しましたが、最初の方で言っているように、人や世界に対する認識が狂っているのは普段から好き嫌いで決めすぎ、性能の差を受け入れた上で進まないからです。

だから、ゲームでも良いんで、普段から脳筋になる習慣が人の世界を広げる事になる。

それを伝えるにはどうしたら良いのか、僕もいまいち掴めずにいたんですが、『完璧主義』と『祭り』というキーワードを結びつける事でスムーズに伝わりやすいのではないかと考えました。

今までにも、何度か話してますが、囲碁は『手談』と呼ばれ、コミュニケーションの一種であると定義されています。

今でこそ、人工知能に従ってる人ばかりですが、昔はもう少し人間のゲームだった気はする。

そんな中、ブームに逆行するような形で、僕は自分に合った打ち方と勉強法を開発したんですが、これは自分探しとは似て非なるものです。

というのも、そもそも、それをした動機が他人にあるからです。


10年以上前、今よりもいろんな意味で未熟者だった頃から、僕の基準や動機自体は変わっていません。

僕は、囲碁以外でもそうなんですが、本当に序盤や最初の段階では、かなり周囲に合わせるタイプです。

なんにも知らない初心者の自覚はあるんで、必要以上に波風立てないようにしたりする。

それこそ囲碁で言うと、ヒカ碁でもお馴染み、初手は右上隅に打つという謎の暗黙知が存在するんですが、僕はネットで打つ際も愚直にそれを守っていたりする。

それで、社会の常識については、それなりに意識する僕ですが、対局相手との盤上における気遣いやマナーとかに関しては、個人間で実力の違いがあることもありマニュアルが存在しないため、自分なりにマニュアルを作ろうとする癖があるわけです。


当たり前ですが、社会の常識もマナーもどっちも大切、どちらかが一方的に隅に追いやられるのはおかしいです。

だから、僕は、必要とあればマナーを守るために社会の常識をあえてぶち壊したりします。

それこそ、SNSや掲示板とかでもやる。


囲碁みたいに知識や経験がものを言う分野では、特に、一般的な常識のせいで個人間のマナーが蔑ろになってる感覚があるため、僕なりにバランスを取ることを目的とし、初心者を名乗れなくなった頃から上の人間や常識に反発するようになりました。

というのも、一度、盤を挟めば、初心者もプロ棋士も立場は同じであり、勝者は一人しかいない以上、全力を尽くして対等な関係であるのが望ましいですよね。

ましてや、囲碁はめっちゃ時間をかけて一人と付き合うコミュニケーションなんだから、ただの遊び友達としても、そうあるのが自然です。

しかも、ただでさえ客観的に実力差が明白なゲームなんだから、相手に萎縮や遠慮なんかしていたら関係が成り立ちません。

僕は囲碁に敬意を抱くからこそ、気を張って、相手と張り合わないといけないといけないという義務感を覚えていました。


だから、盤上は勿論のこと、盤外においても、囲碁と将棋を対等にするにはどうしたらいいか、日本の文化は世界的にどうあるべきかとか、色々と考えないといけなかったんですが、僕のこういった姿勢を評価してくれる、ついてきてくれるような人は皆無に近かったというのは、このnoteのアカウントを見ても分かるかと思います。

それで僕は、最初は、囲碁をやる人に大人しい人が多いからそうなのかなと思ったりしたんですが、MBTI関連の記事でも同じような反応だったんで、そこでようやく、「ああ、これは界隈とか関係なく、どこでもそうなんだな。」と受け入れました。

性能厨の僕はどこでも異端者、鎖国してた頃の日本で言うと異人扱いだった。


いや、まあ、僕がどう評価されるかはどうでも良いんです。

価値というものは変化するもので、平安時代の美人が現代ではブサイク扱いされるように、そこについては価値観の違いで流してしまえば良い。

が、一つ、他人事ではいられない問題点があります。

それこそが、『完璧主義』です。

僕、昔から、やる事が極端過ぎるせいか、完璧主義というレッテル張りされるような事が多かった。

キチガイを言い換えた概念が完璧主義になってる風潮があるんですね。


でも、価値観が個人差があるように、極端な部分だって人によって違う。

普段から他人に悪口を言ってるおっさんとかが心理学的には自分を傷つけてるなんて言われるように、他人の理解出来ない行為を見て完璧主義と見てしまう事自体が、自分の世界を狭めて成長を阻んでいるように思えます。


実際、僕は自分の事を完璧主義なんて考えてないんですよ、少なくとも、囲碁においては。

どちらかといえば、効率主義、脳筋と見てる。

サッカーで例えると、足を使うのは相手にボールをぶつけて外に出す時だけで、相手を抜こうとか、上手いスルーパスで裏をかこうとか、そんなのは考えた事もない。

基本、手を使ってスローインでゴールまで持っていく事を目指していて、ルールのグレーゾーンを走る事で他人との無意味な競争を避けてるだけで、完璧主義とは真逆だと思うんですよ。

生まれつきの才能とかで勝負できないなら、これって普通の事なんですが、何故か、何となくで友達と仲良しこよししてるような日本人には理解出来ないらしい。

どっちが性能厨の完璧主義なんだろうって不思議に感じます。


無知の知って言うけど、本当にそうで、僕は性能差を受け入れた上で対等な勝負にどう持っていくかみたいな事を普段から考えてるせいで独自路線に走りがちになってるだけ。

では、なんで、そんな事ばかりしてるかと言うと、たまたま会っただけの他人と対等であろうとする、それが動機になってるからです。

囲碁の話は理解出来ない人が多くとも、MBTIなら、まだ話は通じるはずですが、そうやって目の前にいる一人一人との関係を想定した上で地に足をつけて理論を積み上げていくのが、あらゆる分野における成功法則であって、それが誰の目にも明らかなのがスポーツみたいな身体が資本の分野なんでしょう。

僕が見る限り、現代の日本人に一番足りないのは、そこだと思う。


英語を話せるようになるには、バーとかで外人の友達や恋人を作るのが一番早いと言うように、人間を理解したいならナンパするのが一番。

抽象的、複雑な分野ほど、実は人間にフォーカスするのが効率的なんですね。

僕は頭が良いわけではないんだけど、例えば、歴史上の偉人の学者の専門書とかを読んでも、自然と感情移入して、その人の書いた言葉や理論そのものではなく、その背景にあるもの、例えば、夫婦喧嘩したのがきっかけで何かの理論を思いついたとか、そういう始点の視点が見える時があるもんだから、比較的、抽象的なことを具体に落とし込むのが上手いのかなと、最近、気づきました。

無論、純粋な理系分野とかだと、僕より賢い人(人間を切り離して考える人)には敵わないんですけど、そういう分野は人工知能や一部の超天才(藤井くんとか)の一人勝ちになるんで、どちらにせよ庶民には関係がない。

人間が人間的な動機から人間のために生み出したものであれば、たぶん、僕は読解するのは得意は方なんだと思う。

だから、日本人の庶民が他人と距離を置くせいで無自覚な完璧主義に陥ってしまい、人間関係や人間の生み出したものとの関係に悩まないようにするには、僕が僕の視点で人間を学ぶ出会いの場を運営するのが一番なんだと思う。


ようやく結論に入りますが、僕は以前から、MBTIが浅い理解で留まってしまう原因は、INFJの神聖視とESTJの軽視にあると考えていました。(自己投影により、性能ではなく自分の色眼鏡で見てしまう。そいつ自身の問題を他人に押し付けてる。)

だから、日本のどこでも同じ事が起きてしまう。

なので、この正反対なタイプ、彼らに良くも悪くも注目する人が自然と集まるような分野に関わりたいと考えていた。


そこで、将来的に予定しているのが、囲碁やMBTIのように老弱男女問わず誰でも参入自体は出来るんだけど、抽象的過ぎて身にならずに直ぐにやめてしまったり変な理解をしてしまうものを人間関係を軸にして学びなおす、大人のための総合カルチャースクールの運営です。

大人のためのって言うのがポイントで、軽い習い事感覚で誰でも人間関係という繊細な話しが出来るようにしたいんですね。

昔、真剣10代しゃべり場っていう番組を教育テレビでやってて、僕も毎週みてたんですが、あれはエネルギーが無駄に有り余ってる若者だから成立するんであって、大人にはキツイ。

MBTIは脳が完成してない若者には正確な診断が不可能と囁かれるように、まずは大人から変わらないとどうにもならない。

勿論、子供でも出来る事を習い事感覚で学ぶので、若者が来ても、全然、調和は可能ですが、大人が中心であるのは変わりません。

そんな事情もあって、なおさら、僕がやるしかない気はする。

逆に、子供のための塾という名目で大人を教育する場みたいのがあっても良いとは思うし、色んなのが揃ってこそ、日本全土を巻き込んだ活動、『祭り』が出来ると思う。

どういう立場を取るかは、人それぞれ向き不向きあるんで考えてどうぞ。


次は何をやろうか探し中なんで、「これどう?」とか「これを始めたいと思ってるんだけど…」というのが何かあれば、何でも屋の方で教えて下さい。


おわり





sere11『まつりのあと』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?