令和の囲碁講座番外編⑤~上ツケに絞った話の終わり。なぜ、真理を追求する必要があるのか?〜


今回は、この場面での黒の応手を考えてみて下さい。

ここまでの流れとしては、黒が右上隅を最初に締まって、白はまずは左上隅に上つけして様子を見ました。

黒が伸びたため、今度は右上のシマリにちょっかいをかけに向かったところ。

まず、シマリの切っ先の方で利かした後、完全に治まった右上隅に立て続けに利かそうとしており、少し、白ペースだと僕は見てます。


ただ、このツケはさすがにしつこ過ぎではないのかなと思い、黒が盛り返すチャンスが早々に到来したと感じたため、今回、出題図としました。

黒としては、ほぼ互角に持って良ければ成功と言えそうです。

ちょっと難しいですし、何を目指せばいいのかもわかりにくいですが、いかがでしょう?


まず、手堅く立つのは論外。

あまりにも消極的に過ぎるため、白にペースを握られます。

下ハネには切ってこられます。

10まで形を決めた後は、今度は左上を決めにいき、11と隅を抑えて切りを誘い、次に左辺の出口を止めて14を待つ。

そこで15と中央を止めるのが良い調子で、自然な流れで右辺の補強をしつつ、中央一帯を模様化します。

黒が悪いとは言いませんが、僕は白持ち(白の厚い半目勝負になりそ)。

 

右下に白の応援が待ち構えているため、自分も傷がある中で戦うのは得策とは言えません。

となれば、抜くくらいなんですが、それなら白はケイマに構えて好形。

一番、最初の右上の交換が完全に利かしとなっており、黒が凹まされた形。


強く二段にはねていくと白も引かずにハネてくる。

それならばと、取れるものは取っておく、右辺をかみとるのは自然な態度ですが、これは、部分的には互角くらいの形に見えるものの、13路だと下辺がこのまま地にされてしまう事があるため、どちらかと言えば白持ち。

かといって、ついだら伸びきられるだけです。

右下隅に白があるため、この後、黒は一目を取るヨセくらいしか残らずつまらない。

これは黒の一人負け。

以上のように、黒が右上隅をどう受けても、なんか、いまいち感が昔からあったんですよね。

だから、僕自身が打つ時は、この流れ自体を避ける石運びをしてたんですが、この前、観戦中に同じ形を目にした時に、ふと、新たな手段が思い浮かびました。




それが、このかけ?です。

隅にツケられてるのに手を抜いて、こんなボンヤリした場所を打っていて大丈夫かと思われそうですが、先に一本利かされて固まってるんで、これでも白からは特に強く出る手がないんですね。

まず、ハネ込みには割り込んで形を崩してこられます。

それならと、左側から抑え込んできたなら、黒も頭をぶつけて正面衝突。

ダメが詰まった石を2つ抱える白は忙しく、この後の変化も簡単とは言いませんが、白の方がきつい戦い模様です。


以上のように、意外と黒は丈夫で、いきなり右上を破る手はありません。

そこで、手を抜きっぱなしの左上の補強を兼ねて、白の側も、右上の黒を大きく外から包囲する道を選びます。

以下、9までとなれば、ひとまずは左辺は打ち終えました。

残る大場は右下ですが、うっかりしてると中央をまるごと飲み込まれるため、牽制の様子見で上ツケから捌きます。

12は、前回、紹介した筋ですが、これだけ広いスペースが下辺には残されているにも関わらず、あえて、軽く飛んだのは14ねすそがかりを見ているからです。

この図の白は15で左下隅を受けてますが、16の点に挟まれた時の処理で差が生まれるんですね。

2の石も意識して打ち進めてる僕としては、確実に下辺で治まっておきたいんですよね。

それで、軽い飛びを選びました。


こっからのヨセも難しいですし、どちらかというと白の方が勝ちやすい碁形ではあるんですが、それでも僕としては、出題図の状況からはこう打った方が自然であり、勉強にもなるはずだと考えて紹介しました。

先にも言ったように、僕なら、最初からこうは打っていません。


冬頃に話したように、相手が二隅小目で来るなら、僕もそれに合わせて低く、1と角から置いて確実に相手に確定地を与えるような打ち方を好みます。(逆に、僕が黒番で小目を打つなら、序盤から確定地を取るような打ち方はあまりしません。)

一手一手には、きちんとした意味があって・・・


お気づきかもしれませんが、僕の本命は左下からの詰めです。

左下から下辺に展開する調子を得るために、あちこちに石を散らして囮にしてるんですね。

角において受けさせたのも、その政策の一環ですが、その直後にいきなり詰めても上手くはいきません。


前図とは異なり、黒はコスミでの進出では無く、ケイマに飛び出していく事が予想されます。

その時になってから、右上隅に肩ツキをしても受けてもらえません。

上辺を連打されると、ただただ白の薄みだけが目立ってしまう。


かといって、上辺を動けば良いというものでもないです。

もっと酷いことになって、いきなり碁が終わる事すらあるというか、人工知能の真似をして三々入りしてるような人は、こういう事をしてることを、ちょくちょく見かけます。


それで、先に肩ツキを一本決めてるわけです。

これで、黒はケイマに出にくくなってる。

今度は、逃げ足が一歩早い為、9と要所を止めて、全体がふっくらしてきました。

黒地はちょうど四十目、こっからはずっと白のターンなので、サンキューの法則的にもいけそ

コスミに打たされるのが嫌だと反発してくるなら、ありがたくケイマを占めさせてもらいます。

そっから挟み付けで一気に碁形を決める。


黒が這ってきたら、上辺が薄くなる分、中央への進出には余裕があるため、今度は先にケイマに打ってみます。

以下、どう転んでも、白が治まるのには特に苦労はしなさそう。

治まってしまえば、左上の黒が薄くなるため満足。


それで、今回で上ツケの話は終わるので、最後に紹介しておきますが、僕が序盤に上ツケでは無く置きを選ぶのは、相手の反発が怖いからなんですよね。

黒としては、下がりやノビではなく、普通に抑えたいところです。

理由は単純で、先番であり、しかも右上に厚みが待ち構えてる黒としては、直にでも正面衝突して戦いから主導権を握りたい。

上の図のようになれば、万々歳です。


白が、逆から止めた場合、今度は下はねで応じようかなと考えてます。

消極的に見えるかもしれませんが、何度も言うように右上の厚みを活かす事を最優先してるため、上の図のように、隅の根拠をまず奪う事で白に左辺に手入れを強制しています。(9を手抜きは左下にかかられて厳しい。)

先手を取っとら、今度は右下から白を右上隅側に追いやりにかかる。

直ぐに攻めても石が取れるわけじゃない序盤では、攻めの姿勢を繋げ続ける事が大事なんです。

黒が直ぐに手抜きを咎めようとしても、良い手が無い。なので、しばらくはお互いに放置。

なので白としては直には動かず、ツケ一本だけを利かしとみて牽制に留めるのが賢明ですし、事実、囲碁クエストの上位陣の人達も、こんな事をしているのは、同じ流れが見えてるからではないかと僕は考えています。

というか、これ、半年前も話した気はする。




それで、今回の本題はここから。

人工知能が流行りだして以降、スピードを何よりも重視している点は、誰もが同じなのですが、だからといって、アクセルを踏めば良いってもんでもありません。

そんなことをしたところで、変なところでビビって急ブレーキを踏んで車を止めてしまい、普通にノロノロ走るよりも時間がかかってしまうか、あるいは、相手を意識しすぎて心ここにあらず状態になり、完走すら出来ずに自爆するか。

相対的に評価するのであれば、一応は走れてる分、前者の方がマシで強そうに見えるというか、実際、なんちゃって高段者とかになる分には、その方が早道に見えはするものの、そういう歪さがバレかけてるのが今の時代だと思います。


だからこそ、僕は、「囲碁は芸術でも競技でも無い、ただのEスポーツであり、宗教だ。」と言い続けてきました。

その前提に立って、盤上での振る舞いを考えないといけないとも。

が、僕は僕で欠けてる部分があることに、近年、気づき始めたというのは、これまでに話してきた通り。


要するに、僕は格闘家とか、プロの筋肉研究科とかにはなれないってことですね。

僕は、スピード出したいのであれば、まずは細かな体の動かし方とかから学ばないといけないと言っていました。

そういう意味で、囲碁を芸術だとか競技だとか訴えて、妙に先走ったりせずに、囲碁は特別なものでも何でもないと自覚し、赤ん坊からやり直すくらいの気持ちでやる方が結果的に早道だとしました。

それが具体的に盤上で現れてるのが、僕が異常に序盤の石の流れを気にしているという特徴ですね。

実力が足りてない時から、やたらと神経質になり過ぎていた。
(そのおかげで今があるため、良くも悪くもなんですが。)


この理論や考え方自体は正しいと今でも思ってるんですが、問題は、僕が格闘家とかとは見えてる世界が違いと言うところです。

最終的なゴールや途中経過自体には重なる部分、学べる部分があるのは事実ですが、だからといって、それで全く同じ人生を生きるわけではありません。

人は囲碁を打ってばかりいるわけではなく、普通にご飯を食べたり、お風呂に入ったり、ぐうぐう寝たり、子供を作ったりとか、囲碁とは関係がなさそうで、特に細かく意識してるわけでもない、人に自慢するようなものではない色々とやっているもの。

特に、その個人的な違いが顕著なのが、付き合う人とか、コミュニケーションのスタイルです。


なので、もっと細かく正確に物事を分析して身に着けるというのが大切なのは事実なんですが、問題なのは、それをやってる時に無意識で考えている事、動機なんですね。

僕は、他人に説明するために、感覚的に理解出来るであろうスポーツ、身体の動きで例えて紹介してきたんですが、僕自身がどうかというと、物凄く神経質で細かく考えてはいるものの、スポーツマンからは程遠い引き篭もり体質であり、僕が口煩くなる程に価値を置いてる事はスポーツではないんですよね。


僕が常に意識しているのは、建設的で正常な人間関係の構築です。

心を通わせるとか、仲良くなるとか、そういう話では無い。

その環境、特定の条件の中で導き出される、もっとも相応しい立ち位置の調整とか、そういう話です。


その条件というものが、自分の人生をどう生きるかみたいなテーマになるのであれば、自分らしく生きるとはどういうことかみたいな話になるんですが、これが、赤の他人同士が盤上でどう付き合っていくかというテーマになると、事情が違ってきます。

ヒカルの碁でも示されてるように、盤上は宇宙であり、そこでは個人のちっぽっけな価値観とかは無力なものでしかありません。

今現在の自分の好みがどうとかは関係が無い。

目の前の人と仲良くなりたいのであれば、宇宙の中で永遠ともフォーエバーともとれるような長い関係を構築することを目指すことになります。


そういう点で言うなら、細く長くという大昔の日本人らしい価値観に近い部分があるんですが、誰もが似たような環境で生きていた昔と違い、今は同じ日本人でもバックボーンは様々であり、合わない部分もたくさんある。

だからこそ、ある意味では機械的になってコミュニケーションを図ることになります。

誰が見ても全く違う人と人生の最後まできちんと付き合おうとするなら、喧嘩するのは当たり前ですし、自分の意見を言えずにため込んで爆発しがちな日本人だからこそ、出会った最初の瞬間から、一番に大事な事はきちんと表明したり、あるいは、自分達はこれから宇宙の最奥に向かうんだと共通の目標みたいなのを叩きつける必要が出てくる。

とりあえず、適当に知り合いになって、そっから宗教に勧誘しようなんて普通は上手く行かないですし、下手したら通報されます。

僕の囲碁のスタイルというか、普段の人付き合い全般に言える事なんですが、どうしたら全ての人を一つの宗教的なものでまとめられるかと言う前提で自分の振る舞いを決めているため、今現在の一般的な常識からするとおかしく見える事も平気でするんですが、僕からしてみると、これでもかなり気を使っている方であり、そもそも、目指しているところがおかしいからそうならざるをえないだけで、現実世界で上手くいかないのは当然なんですね。

が、少なくとも、盤上においては僕こそが正常に近いのであり(常識的な対応、自然な振る舞いにより長期的な関係を作ろうとしてる。実力差がある人同士が半目勝負したりみたいな。)、ヒカ碁とかを見て囲碁を始めて強くなりたいと心のどっかで憧れてる、今の人工知能の打ち方を取り入れたいと考えてるような人にとっては、僕の囲碁の打ち方や考え方だけでも知る事がメリットになるだろうとは思えるようになったために、今、こうして、囲碁講座をやっていますし、ついでにいうと、皆にも同じような事をしてもらうために何でも屋というものを掲げているわけです。

個人の身体の動かし方みたいな、身近にあるパーソナルな細かい部分をたくさん意識して改善する事で囲碁が強くなる人もいれば、僕みたいに人間関係の構築と言う抽象的ではあるけど真理に近い部分を徹底して特定の世界で突き詰めることで何かが見えるという人もいますが、いずれにしても、具体的に何をするかを決めるのは本人なので、とりあえず、思いついたもの、気になる事を僕と一緒にやる事が次に繋がるという段階の人については、僕も手を貸す、干渉するのは悪い事じゃないのかなと。



今回は以上になりますが、今後は上ツケ以外の序盤の考え方などについて紹介しようかと思っています。

「序盤なんてどうでもいい、そこまで神経質になるのとか疲れるでしょ。」

と感じる人もいるのは分かってますが、実は、これ、逆で、実際に序盤であれこれを頭を悩ませてるのって、そういう人だったりする。

というのも、前も言ったように、人間は理屈でしか物事を考えられない知的生命体であるため、口ではどういおうと、自分の中で納得いかない事の折り合い、正当化を無意識にやろうとしています。

とするなら、最初から、きちんと体系的に情報を一つに纏めた方が、なんだかんだで使うリソースは減らせるはず。

僕は過去のプロ棋士たちがいってきたことを、全部、自分なりに噛み砕いてまとめてるものだから、なんか時間が経つにつれて着実に囲碁に対する理解が進んでる感覚があります。

勉強にしても、宗教にしても、道徳にしても、全ては、不完全なで頭でっかちな人間が自分の向き合ってる世界を噛み砕いて楽になるために、自分のためにやるものであって、義務的なものではないんです。

一人で悩んでるのも、カルト宗教に嵌るのも、根本的には同じだし、真面目な人程、そうなるのはもっとも。


なので、僕としては、囲碁をもっとも楽しめる人が囲碁を強くなるという事の真の意味を実感してもらえるようになって欲しいなと思ってます。

そうすることで、他の事にも前向きになれるし、はっきりと結果が誰の目にも明らかで情報を共有する事が容易であるからこそ、僕は世の中を変える手段として囲碁が適しているはずだと信じてる。

関係の構築を優先する僕としては、地球の裏側とかにいる他人とどれだけ共有できるかが評価基準になるんですが、みなさんも自分なりの基準を自分の心に聞いてみて下さい。

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