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俳バト2021年9月大会 好き句鑑賞 その1

はじめまして。俳号「いかちゃん」と申します。先日開催された俳句バトル(→@Haiku_Battle )2021年9月大会の作品のなかから、特に好き!と思うものについて、鑑賞文を書かせて頂きました。僕の鑑賞のクセで、多分に分析的な文章となってしまっていますが、ご容赦ください。また、季語の解説には多分に私見が含まれております。それでは、どうぞ!

毒瓶ニ幽閉サレテココノカメ/藤 雪陽

【季語】毒瓶(どくびん)。分類は晩夏・生活。昆虫採集の道具のひとつで、採った虫を入れて殺すための瓶。毒を染み込ませた脱脂綿を入れておくなどする。せっかく採った虫を殺してしまうのは、主に標本作成のため。載せていない歳時記も多く、マニアックな季語のひとつと言える。

【鑑賞】というわけで「毒瓶」の句なんですが、内容的にはほとんど無季と解しても良さそうです。「ココノカメ」は「九日目」。ここを漢字にしなかったのは、いよいよ毒にやられて漢字が出てこなくなったからではないかと思いました。カタカナ表記からは、人ならざるものが人語を話しているかのような恐ろしさを感じます。「毒」「幽」という字面もまた恐ろしく。「毒瓶」を季語として考えた場合、九日間もしぶとく生きている虫の姿が見え、それもやはり恐ろしいですね。蠱毒の壺も連想されます。

絵日記の風は飴色秋高し/ギル

【季語】秋高し(あきたかし)。分類は三秋・天文。杜審言の詩の一節「秋高くして塞馬肥ゆ」から、秋といえば空が高く、馬が太る時期というイメージが生まれた。実際、秋は空気が澄み、空がいっそう高く感じられる。「天高し」「空高し」とも言うが、「秋高し」は秋という季節そのものへの賛美が入り、どこか時候の季語っぽい雰囲気がある。

【鑑賞】ひとつひとつの言葉は、類想ワードと言ってよいと思います。「絵日記」の句も、「風が○○色」という句も、たくさん見たことがあります。しかし、それらを結びつけたうえで、「飴色」を持ってきたのは非凡ではないかと思いました。
風は本来無色なので、「風が○○色」という発想は陳腐な詩に終わってしまいがちなのですが、「絵日記の風」ですから、これは本当に「飴色」をしているのでしょう。しっかり描写の言葉になっていて、かつ詩情を獲得しています。「飴色」は色そのものも綺麗ですし、金秋・秋夕焼のイメージとも繋がりますね。
季語の選択も上手かったと思います。例えば「天高し」のように「空」の映像を強く打ち出してしまうと、せっかくの絵日記の描写の印象が薄くなってしまいますね。「秋高し」は、その背景に高い空の映像を思わせつつ、あくまでも室内の絵日記への焦点をぼかすことなく、句を包みこんでくれています。
類想の強みを活かしつつ、技術的に隙のなく仕上げられた、素晴らしい作品でした。

本番が二番目の出来秋日和/青海也緒

【季語】秋日和(あきびより)。分類は三秋・天文。秋らしい日和のこと。基本的にはよく晴れた日の感じであるが、秋っぽいということしか言っていない言葉であり、主役に立てるのが難しい季語のひとつ。似た季語に「秋晴」があるが、「秋日和」のほうが語感が柔らかく穏やかで、深まりきった秋よりはちょうど今頃に使いたい感じのする言葉。

【鑑賞】僕はアマチュアオーケストラに所属しているので、「本番が二番目の出来」にはとても覚えがあります。お客さんのいないリハーサルと比べて、やはり本番は緊張がありますし、本番独特の“魔力”が働いて、今までトチったことのない箇所を間違えてしまったりするのです。でも一方で、僕はお客さん側の経験も多くあり、本番でのミスなど実は全然気にならない、気にされていないということも知っています。お客さんにとっては一度きりのもので、何番目の出来だろうが構わないのです。「ああ、リハーサルの方がよく出来てたな。二番目の出来だな。」と思いつつも、本番を無事終えられた安堵と、一度きりの出来を届けられた満足感にひたる、そんな「秋日和」のひとコマ。なんでもない雰囲気の季語「秋日和」が、一句を優しく包みこんでいます。

死にたくてピザ食べたくて月今宵/葛城蓮士

【季語】月今宵(つきこよい)。旧暦八月十五日、いわゆる十五夜のお月さまのこと。中秋の名月。名月には様々な呼び名があるが、「月今宵」という言い方は、「まさに今宵の、この月」という風に、この日の夜を特別視する思いが強く出る。また、「〜月」という言い方ではないので、月そのものと、その日の夜という時間・空間のイメージとを、バランスよく含んでいる言葉と言えよう。

【鑑賞】いきなり「死にたくて」です。おぉぉ、重い句だ……と覚悟して次を読むと、「ピザ食べたくて」ときます。「えっ?」ですよ。読者を一気に惹きつける展開。そして最後は「月今宵」という美しい季語で締めくくられます。うーむ……これはどういう句かと、思惟の時間に入ります。様々な解釈を思いつき、中にはやはり重い句なのだというものもあったのですが、最終的には、けっこうおちゃらけた句なのではないかと、個人的結論に至りました。
思えば、僕ら人間には、死をカジュアルに考える瞬間というのが確かに存在します。あー、なんか、死にたいなー、と。勿論その実、大きな悩み事を抱えていたりするのですが、結局死ぬことはないのです。中秋の名月もまた、頭では特別なものと理解しながらも、ふーんこんなものか、という感じに、どこか冷めた目で見る自分がいるのです。現代人の自己矛盾を突いた、と言うと、なんだか深い作品ですね。
でも、結局、大事なのは「ピザ」なのです。あー、死にたいなー、あー、月がきれいだなー、まんまるで、あっ、ピザでも頼もうかな。となった瞬間に、死とか月とはもうよくて、とりあえず「ピザ」を食べることが大事なんですね。大げさに言えば、「ピザ」を食べるために生きる存在となるのです。ちょっと可笑しいけど、でも僕らは、こういうことの連続で、生をつないでいるのかもしれません。あー、今夜はピザでも食べようかな。

その2に続きます!

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