「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」に関してのお知らせ + 翻訳「仮面舞踏会」

岡上容士(おかのうえ・ひろし)と申します。高知市在住の、フリーの校正者です。文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが連載なさっている「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の校正をさせていただいており、その関係で、「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」という、この連載も書かせていただいています。
 
いつもですと、頭木さんのネット上の連載に合わせて、今頃に出しているのですが、今回は多忙のため、まだ書くことができておりません。毎回お読みいただいています方々には大変申し訳ありませんが、今しばらくお待ち下さいますようにお願い申し上げます。(追記:頭木さんの連載に合わせた私の連載は、お待たせいたしましたが、2月22日に公開しました。こちらです。
https://note.com/okanoue_kafka/n/ncdfa15c100a1 ) 
 
それで、その穴埋めと申しましてはなんですが、私が以前に訳したドイツの短編小説で、既に版権が切れていて、かつ、あまり長くないものを1つだけ、このあとに入れておきます。短編小説がお好きな方は、ご一読下さいましたら幸いです。

ドイツの作家として有名なトーマス・マン (Thomas Mann; 1875~1955) の兄で、やはり作家であったハインリヒ・マン (Heinrich Mann; 1871~1950) の「仮面舞踏会 (Der Maskenball)」という作品です。彼の短編集『彼らは若い (Sie sind jung)』(1929)に、「子供 (Das Kind)」という題名の短編の連作が収録されており、その中の一編です。この連作の中の「打ち砕かれたバイオリン (2つの話が収録された »Zwei gute Lehren« という短編の中の1つで、これ自体にはドイツ語のタイトルはありません)」という短編は、頭木さんご編集の『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)の中に、私の訳で収録されています。

仮面舞踏会
ハインリヒ・マン作  岡上容士訳

子供のころのさまざまな思い出は、ぼくの生活に影響を与えてきたのではないかと思う。しかし、それが本当にそうなのか、自信を持って言い切ることはできない。ましてや、――仮に本当にそうだとしても――具体的にどの思い出が影響を与えたのかとなると、ぼくにはまったくわからない。ぼくは子供のころの思い出を、カトリックの教理問答集のような整った形で、心の中にしまいこんできたわけではないからだ。何か一つだけ思い浮かべてみろと言われると、必ず、あまたの思い出が同時にわき起こってきてしまう。けれども、こうした多くの思い出の中から、あえて一つだけを選び出して、これからお話しすることにしたい。

時は一八七〇年代のある冬の日の午後、所はリューベック。ぼくが歩いていた通りは、急な下り坂になっていた。路面はツルツルにこおっており、あたりはほとんどまっ暗と言ってもいいくらいだった。どのガス灯の光も、そのうしろの家をほのかに照らすだけで、通りにまでは届いていなかった。遠くの家の玄関のベルがけたたましく鳴って、その家にお客さんがあったことを告げていた。通りでは、ある女中さんが、小さな子供を連れて歩いていた。その子供というのが、ほかならぬぼくだったのだ。でもぼくは、彼女の手からむりやりのがれた。この通りたるや、そうまでしてでもすべりたくなるくらい、すばらしいスケート場になっていたからだ。ぼくはスピードをどんどん速めながら、通りをスイスイとすべり下りた。交差点が近づいてきた。ぼくがそこに達するほんの一瞬前に、一人の女性が、交差していた通りから出てきた。その人は、体をマントですっぽりおおっていた。そのマントの下には、何かをかかえていたようだった。ぼくは勢いよくすべっていたので止まることができず、その人にぶつかってしまった。相手は衝突など予想もしていなかったのだろう。路面がツルツルしていたこともあって、その女性はひっくり返ってしまった。けれど、暗かったのをさいわいに、ぼくはそのまま逃げて行った。

しかしぼくは、食器が割れる音を耳にしていた。あの人は、マントの下に食器をかかえていたのだ! 何ということをしてしまったのだ! なおもしばらくすべってから、ようやく止まったが、ぼくの心臓はドキドキしていた。すべり疲れたからだけではない… あとから追いかけてきていた女中がやっと追い着いたので、ぼくは言った。「ぼくにはどうしようもないよ」

彼女は、「あの女の人には、食べ物がなくなったのですよ。あの人の子供にもね」と言った。

「シュティーネはあの人を知ってるの?」

彼女はこれには答えずに、「あの人はぼっちゃんがだれだか知ってますよ!」と強く言った。

「じゃあうちへ来て、パパやママに言いつけるかな?」

シュティーネが、「ええ、そうですね!」とおどかすように言ったので、ぼくはこわくなった。

そのあとぼくたちは買い物をした。次の日にうちでお祭りが行われることになっており、その準備のための買い物だった。そのお祭りというのは、ほかのどのお祭りにもまして、異様なものであった。それは、「仮面舞踏会」だったのだ。けれども、このときのぼくの頭の中からは、シュティーネのあのおどかしの言葉が、どうしても離れようとしなかった。それどころか、たえずその言葉に追いかけられているような感じさえもした。ベッドに入ってからもまだ、ベルが鳴りやしないか、あの女の人が来やしないかと、耳をすませていた。あの人にはもう、食器がない。中に入っていた食べ物もだめになった。だからその子供には、食べるものは何もなくなってしまったのだ。でも、こんなことを考えているぼくだって、決していい気持ちではなかった。

あくる日、シュティーネが学校へぼくを迎えに来たとき、ぼくは開口一番に、「あの女の人、うちへ来た?」とたずねた。彼女は少し考えてから、「いいえ」と答えた。しかしそのあとすぐ、「あの人はきっと、ぼっちゃんをさがしだすでしょう」と予言めかして言った。ぼくは、夕方まではまだ、びくびくしていた。が、夕方になると、舞踏会を待ちこがれるうちじゅうの熱気が、ぼくの心をとらえていた。みんな、ウキウキしたり、カッカしたりしていた。たくさんの明かりがキラキラと輝き、花の香りや、いつもとはちがった食事の香りが、家にみちみちていた。おめかしをした母は、おおいに賞賛されてよかっただろう。最初のお客さんとして、母の若い友人たちと、ブレーメン出身のある女性とが、すでにやって来ていた。その女性は、特にこのお祭りのためにはるばる来てくれた人で、うちにしばらく滞在することになっていた。ぼくはこの人がとても気に入り、ずっとうちにいてほしいと思ったほどだった。さて、もうそろそろ、みんなが仮面をかぶるころになった。とは言えぼくは、「何でも知ってるんだぞ」と自信を持っていた。だれがロマの女で、だれがハートの女王なのかといったことは、ぼくにはよくわかっていたのだから。

やがて寝なくてはいけない時間になり、ぼくはベッドに入ったが、またこっそりぬけ出し、パジャマ姿のまま、階段をそっと下りて行った。舞踏会はもう始まっていた。大広間の手前の部屋のうちで、玄関に近いほうのいくつかの部屋にはだれもいなかった。それなのにぼくは、これらの部屋が自分の知っている部屋だとは、ほとんど思えなかった。舞踏会がすべてを変えてしまっていたのだ。だれかがぼくのいた部屋に入って来ると、ぼくは音を立てずに、壁に造りつけてあったドアを通って、隣の部屋へと逃げこんだ。こんなふうにして、ときには廊下にも出ながら、うちを一回りすることになった。ぼくはこの間に、大広間のお祭り会場からもれて来た、色とりどりの光の輝きをこの目で見た。さらに、すばらしい音楽や、ダンスシューズがゆかに当たるリズミカルな音や、にぎやかな話し声を耳で聞き、暖かく心地よい空気を肌で感じた。これらのどれにも、ぼくは魅了され、幻想的な気分にひたっていた。そしてついに、大広間の入口のドアのうしろにたどり着いた。中をのぞくのは、見つかったら大変なことになるだけに、勇気のいることだった。でも、危険をおかしただけのことはあった。のぞいてみると、見える見える、光にやわらかく照らされたむき出しの肩や、飾りみたいにキラキラしていた髪の毛や、命あるもののようにはつらつと輝いている宝石が。これらは、踊りのリズムに合わせて、いともわけなく、クルクル向きを変えていた。ぼくの父は、外人の将校にふんしていた。顔にはおしろいを塗り、腰には刀を差していた。そんな父の立派な姿を見て、ぼくはたいそう誇らしく思った。ハートの女王にふんしていた母は、このときはいつにもまして、父におせじを並べ立てていた。ところが、こうしたぼくの判断力は、ブレーメン出身のあの女の人を見たとたん、すっかり消え失せてしまった。彼女がある紳士に寄り添って、すべるように歩いて行くのだけしか、ぼくの目に入らなくなった。この紳士には彼女がだれだか知ってほしくない、とぼくは思った。それを知っているのはぼくだけでよかった… 当時七歳だったぼくは、こうして、舞踏会場の大広間の入口のうしろに立っていた。中のみんなは、幸福を追い求めて踊っていた。その「幸福」なるものに、ぼくはすっかり心を奪われて、どうしたらよいかわからなくなってしまっていた。

大広間の装飾は、繊細ながらも明るい感じだった。ぼくがあとで知ったところだと、これはロココ様式と言われており、当時からさかのぼること十年あまりも前に、パリから広まってきたものだった。仮面も、カドリーユやギャロップなどの踊りも、やはりパリから入って来ていた。どれもみな、皇帝ナポレオン三世と美貌(びぼう)の皇后オイゲーニエの宮廷で栄えた文化の、輝かしいなごりだった。その宮廷は、もうこの世にはなかった。けれど、そこでの社会的な習俗は、しだいしだいに北方の小都市にまで伝わっていったのだ。その当時は、いわゆる「サロンの文化」はもっとも大切なものだったし、礼儀を重んずる態度はもっとも徹底されていたのだ。それはともかく、人々は、ジェスチャーから言葉を当てるゲームをしたり、なぞなぞを出し合ったりした。婦人たちは、女友だちのせんすに水彩で色を塗り、次に、婦人たちに敬意を表していた紳士たちが、そのせんすに自分の名前を書いていた。またこの世界では、「書き取り遊び」というのがもてはやされた。まことにおかしな遊びが発明されたものだ。ぼくがこれを初めて知ったのは、ナポレオン三世を中心としたごく狭い社交界の中で、だれかがときどき、あるまとまった文章を口述筆記させていたさまを、何かの本で読んだときのことだった。この遊びでは、その文章を書き取った人たちの中で、だれが単語のつづりのまちがいの数が一番少なかったかが、競われたのだ。以上にあげたような遊びは、町人出身のにわか貴族たちなら、いかにも好んでやりそうなものであり、ここリューベックにもふさわしかった。

しかし、仮面舞踏会の場では、はなやかな輝きと高揚した雰囲気とが支配していた。変装したいという、異常なまでの欲求は、それまでパリを支配していた、「幸福な冒険者」―― 一代で大金持ちになったかと思うと、またあっという間に破産してしまう人たち――に、よく合っていた。そればかりかこの欲求は、ドイツの名士たちの心の中にまでも、入り込んできていたのだ。最後にはいつも、活人画が行われた。何の目的で? ドイツの名士たちは、独特の美意識と威厳を持っていた。彼らがこれらを最後の切り札として出すのがふさわしいさまざまな場面で、こうした美意識や威厳がどのように発揮されるのかをあざやかに見せるために、活人画が催されたというわけだ… さて、そのときのぼくは、それまでの光景はよく見ることができたものの、フィナーレの活人画もうまく見られるかどうか、ひどく不安に思いつつ、入口のドアのうしろでじっと目をこらしていた。

いきなり、目の前のドアが、ぼくから離れて行った。だれかがぼくを見つけてあけたのだ。それは臨時やといの召使いの一人で、「下で女のかたが、ぼっちゃんをおたずねですよ」と告げた。ぼくが恐怖心からまっ青になったのを気にもとめずに、さっさと会場に戻ってしまった。ぼくの目の前には、彼のえんび服のすそしか見えなかった。このときのぼくは一人ぼっちだったので、自分で好きなように決めることができた。好きなように決めていいのか? そこで考えた。もしもぼくがあの女の人のところへ下りて行かなかったら、ひょっとしてあの人は、会場の大広間まで押しかけて来るかもしれない。そうでもされたら、何もかもがメチャメチャになるだろう。それよりは、ぼく一人を犠牲にするほうが、まだいいじゃないか。

その女性は、玄関を少し入ったところで、暗い部屋を背にして立っていた。部屋の外も薄暗かった。その人はきのうと同じように、体をマントですっぽり包んでいた。そして、身動き一つしなかった。まるで夜のやみから姿をあらわした、良心の像みたいだった。それを見て、ぼくの罪の意識も、忘却のやみからよみがえってきた。ぼくは、おそるおそるその人に近づき、「ぼくはどうしたらいいんですか?」とたずねようとした。が、どうしても声が出なかった。やがて女性のほうが口を開いた。「あなたは私の食器を割りましたね」と言い、それからかなり声を低めて、「私の子供は、何も食べられなくなったのですよ」と言った。ぼくは、見知らぬ子供の運命と、自分をこの場に連れてきた運命とに心をゆさぶられて、今にも泣きだしそうになった。

ぼくが台所から食べ物を取ってきて、この人にあげたらどうだろうか?

でも台所は、女中や召使いでごったがえしており、ぼくがそんなことをしようものなら、えらい騒動を引き起こすことだろう。「ちょっと待ってください」とぼくは口ごもりながら言って、その人のうしろの暗い部屋へ入った。そこには、お客さんたちのコートがつるされていた。ぼくは部屋じゅうをひっかき回し、ようやく自分自身の持ち物を見つけた。それは兵隊のおもちゃと、何冊かの本だった。ぼくはこれらを手に取った。できることなら、羽を広げた白鳥の形をした花びんを、手に取りたかったのだが、あいにくこれはぼくのものではなかった。そこで兵隊と本だけを、その女性にわたした。彼女はそれらをかごにしまうと、何も言わずに立ち去った。ぼくのほうはそれよりも早く、逃げだしていた。自分の部屋へ戻り、大急ぎでベッドにもぐり込んだ。

その夜は、前の晩よりもぐっすり眠れた。あくる日、学校から帰ってくると、驚いたことに、昨夜あの女性にあげたものが、ちゃんともとの場所に戻っていた。これは大きな謎だった。なぜだかぼくにはサッパリわからなかった。このことをぼくから聞いたシュティーネも、うわべは驚いたような顔をしていた。ところが彼女は、笑いをこらえるのに必死なふうでもあったのだ。ずっとあとになってから、ぼくはシュティーネを疑うようになった。彼女が笑っていたという、簡単な理由からだったが… けれどもやはり、シュティーネこそ、昨夜の訪問者であり、良心の像であり、そしてぼくの罪のためにおなかをすかしていた子供の、気の毒な母親だったのだ。

実際にはおそらく、だれもおなかをすかしてなどいなかったのだろう。割れたのが食器だったのかどうかすら、さだかではなかった。シュティーネが変装して作り出したあの女性の姿には、底知れない悲しみがただよっていたのだが、それは彼女の演技によるものだった。まったくたいした役者ぶりだった。けれどもぼくは、うわべは輝かしかった生活に楽しくふけっていた状態から突然引きずり出され、貧困というものを、それから自分自身の罪を、正面から見すえさせられることになったのだ。これは、当時まだ七歳だったぼくにとっては、決して忘れられない強烈な体験となった。

この事件は、ぼくに強い印象を残した。また、一つの教訓でもあったのだろうか? いや、当時は教訓とは言えなかったと思う。七〇年代のリューベックでは、貧しい暮らしをしていた人々は、あわれみの対象として取り上げられるほどひんぱんには、見られなくなっていたから。そんな人々をぼくがこの目で見た例と言えば、せいぜい次のことぐらいだった。ぼくが祖母といっしょに散歩に行くと、街道の道ばたに、砕石夫(さいせきふ)やそのたぐいの職業の人たちが腰を下ろしているのが、ときおり目にとまった。みんな、たった一つの鍋を囲んで、食事をしていた。祖母は、「たっぷりおあがりなさいね、みなさん!」と心を込めて、はげますように言った。「みなさん」と呼ばれた人たちは、一瞬面食らった。こんな調子の言われ方自体がもう、彼らにとっては普通ではなかったのだ。それでも彼らは、すぐにお礼を言った。

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