「変身」において翻訳の解釈が分かれている箇所(連載の第22回で取り扱われている範囲で)
岡上容士(おかのうえ・ひろし)と申します。高知市在住の、フリーの校正者です。文学紹介者の頭木(かしらぎ)弘樹さんが連載なさっている「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」の校正をさせていただいており、その関係で、「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所」という、この連載も書かせていただいています。
私の連載の内容につきましては、第17回の「『変身』において翻訳の解釈が分かれている箇所(連載の第17回で取り扱われている範囲で)」の冒頭で記しましたので繰り返しませんが、今回初めてお読み下さいます方は、第17回のその冒頭部分だけでもご覧いただければと思います。
https://note.com/okanoue_kafka/n/n7b93dc212b5b
なお、以下に※で列挙しています凡例(はんれい)的なものは、その回から初めてお読み下さる方もおられると思いますので、毎回記させていただくようにしていますし、今後もそのようにします。ただ、英訳に関する項目だけ、第17回から「※英訳に関しては、特に示す必要はないと思われる箇所では省略します。」と変更しています。
※解釈が分かれている箇所は、詳しく見ていくと、このほかにもまだあるかもしれませんが、私が気がついたものにとどめています。
※多くの箇所で私なりの考えを記していますが、異論もあるかもしれませんし、それ以前に私の考えの誤りもあるかもしれません。ご意見がおありでしたら、コメントの形でお寄せいただけましたら幸いです。
※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を入れています。なお邦訳に関しては、必要と思われる場合には、原田訳以外の訳もあげています。ただし、原田訳以外の訳は、あとの説明に必要な部分だけをあげている場合もあります。
※ほかにも、文の一部分や、個々の単語に対して、邦訳の訳語をあげている場合があります。この場合には、『変身』の邦訳はたくさんありますので、同じ意味の事柄が訳によって違った形で表現されていることが少なくありません(たとえば「ふとん」「布団」「蒲団」)。ですが、説明を簡潔にするため、このような場合には全部の訳語をあげず、1つ(たとえば「ふとん」)か2つくらいで代表させるようにしています。
※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。
※高橋義孝訳と中井正文訳は何度か改訂されていますが、一番新しい訳のみを示しています。
※英訳に関しては、特に示す必要はないと思われる箇所では省略します。
※ドイツ語の文法での専門用語が少し出てきますが、これらを1つ1つ説明していますと長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、これらに関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。
※原文や邦訳や英訳など、他書からの引用部分には色をつけてありますが、解説文の文中であげている場合にはつけていません。
①話法の助動詞の müssen が否定された場合には、「…してはいけない」という意味になる場合と、「…する必要はない」という意味になる場合とがあります。ここであげた訳例で言いますと、中井訳は前者の意味で、他の3つの訳は後者の意味で訳していますね。どちらが正しいかは断定できませんが、あとに出てくる brauchen が「…を必要とする」という意味――これも否定されていますが――ですから、これに合わせて後者の意味と解した方が自然ではないかなと、私は思います。また、邦訳、英訳ともに、後者の意味に解しているものが多く、前者の意味に解しているものは少ないです。
②この hätte doch nicht vernachlässigt werden brauchen の、doch の意味から検討していきます。
邦訳では、訳出していない訳も多いですが、訳出している場合には、浅井訳のように、「やはり」といったような、単なる強めを表わす意味に解している訳と、中井訳や高本訳のように、この前の内容を受けて、「だからと言って」という感じの逆接に近い意味に解している訳とがあります。これもどちらが正しいかは断定できませんが、後者のように解した方がこの文の雰囲気に合うのではないかなと、私は思います。
英訳でも、訳出していない訳も多いですが、訳出している場合には、after all としていたり、still としていたりします。still をどの意味で使ったのかは今一つ明確ではありませんが、「それでもやはり」という感じの、折衷(せっちゅう)的な意味で使ったのかもしれませんね。
それから、この部分全体の意味ですが、doch を除外して逐語訳してみますと、「ほったらかしにされる必要はなかっただろう」となりますね。このあとの文とも合わせて読みますと、これでも意味が通らないことは全くないのですが、物語の訳としては直訳的だという判断からでしょうか、原田訳や浅井訳や高本訳のように意訳している訳もかなりあります。ただ、これらの訳のようにしますと、言っているニュアンスが原文とはちょっと違ってきますが、この程度でしたら許容しても構わないでしょうね。
なおここは、文法的に正確には、… brauchen, vernachlässigt zu werden. となりますが、brauchen に伴って用いられるこのような zu は口語では省略されることもありますから、これが省略されてこの語順になったものと思われます。
①この nun は文字どおりの一番一般的な意味であり、「今では」(過去形に厳密に合わせれば「このときには」)という感じで訳してよいと思われます。今回は、このあとにも nun が3回出てきますが、最後の nun 以外の2つは、この nun と同じ意味で使われています。
②この Bedienerin は、実は前回に既に出ていましたが、そのさいにはうっかりして、諸訳の比較をしていませんでした。もともとの意味は「女性の使用人」という感じになりますが、ここでの訳例を見てもおわかりのように、訳者の好みで、どうにでも訳せるという感じになっていますね。
このさい、せっかくですので諸訳での訳語を見てみたいと思いますが、煩雑になることを避けるため、前回に初出した、以下の箇所での訳をあげることにさせていただきます。ここで突然、前回に戻ってしまってすみませんが、ご了承下さい。
邦訳では、原田訳のように「大女」とだけ訳している訳もいくつかありますが、これですと Bedienerin の意味が全く出ておらず、ちょっと不正確ですね。これら以外の訳では、「家政婦」「派遣家政婦(川島隆先生の訳語ですが、お上手と思いました)」「下女」「女中」「手伝い女」「手伝い婆さん」「通いのばあさん」「雇い婆さん」「雇い女」としています。今の時代にはふさわしくない訳語も少なくありませんが、古い訳だからということでご容赦いただけましたらと思います。
英訳では、charwoman、cleaner、cleaning lady、cleaning woman、domestic、maid、servant としており、charwoman と cleaning woman が特に多いです。
③この das Ärgste は、形容詞の arg の最高級(英文法の用語では、最上級)の ärgst が中性名詞になったものです。原田訳では、うっかりでしょうか、これの訳は抜かっていますね。arg 自体もいろいろに訳せます――邦訳では、「悪い」「つらい」「ひどい」が多いです――が、ここでは一番オーソドックスな「悪い」として考えてみますと、
〔1〕(川村訳のような感じで:)文字どおりの意味で、「最悪のこと」。
〔2〕(多和田訳のような感じで:)「一番…」「最も…」という意味ではなく、単に程度が強いことを意味する、いわゆる絶対最高級と解して、「非常に悪いこと」。
〔3〕(高本訳のような感じで:)最高級は文脈によって、「どんなに…でも」という意味になることもありますから、「どんなに悪いことでも」。
の3通りの解釈が考えられますね。これもどれが正しいとは断定できませんが、ここでは〔3〕が一番自然ではないかと、私は思います。
英訳では、the worst としている訳が多いです。英語では「the+形容詞」で名詞になりますね。「…な人々」という意味になることが多いですが、「…なこと」という意味の抽象名詞になることもあり、ここでは勿論後者です。the worst のほかには、the worst storms、the worst things、the worst trials、the hardest things、the hardest of things、the most terrible things、even the greatest of troubles、the greatest bitterness、the world’s most unpleasant offerings、worse trouble、many burdens というように、いろいろに訳されていて面白いですね。
なお、英語でも最上級が上記の〔3〕のような意味になることがありますから、これらの訳のうちで最上級を使っている訳が〔1〕と〔3〕のどちらの意味で言いたかったのかは、前に even を入れている1つの訳以外では、ちょっとわかりません。程度が強いことを意味する絶対最上級にする場合には、原級の形容詞の前に most を置いて作るのが通例ですから、most を使っている2つの訳に限っては〔2〕のような意味で言いたかった可能性もゼロではありません*が、無理にこう考える必要はないのではとも思います。
*絶対最上級を意味する most が使われた場合には、単数の場合には不定冠詞の a を用い、複数の場合には無冠詞にするのが通例のようですが、ある英文法書によりますと、the を用いることもありえないわけではないようです。
それから、das Ärgste überstanden haben mochte の意味は、das Ärgste を〔3〕として逐語訳しますと、「どんな悪いことでも乗り越えてきたのかもしれなかった」のようになります。mochte(mögen の過去形) を正確に訳していない訳が多いですが、まあそれほど厳密でなくてもよいでしょうね。
④この eigentlich[en] の訳し方に関しては、今回の頭木さんの連載でもかなり詳しく考察されていますから、ここでは簡単に記しますが、文字どおり、「グレーゴルに対して、本当の嫌悪感を持っていたのではなかった」→「グレーゴルを本当に嫌っていたのではなかった」と考えてよいと思います。
このお手伝いさんは、これまでもグレーゴルに親切にしていたわけではありませんし、このあとではグレーゴルをからかったり、挑発したりもしていますが、彼のことを本当に嫌っていたわけではないことは、そのあたりを読むとよくわかります。
邦訳では、この eigentlich[en] を訳出していなかったり、hatte keinen eigentlichen Abscheu で「全く嫌がらなかった」とか「特別には嫌がらなかった」のような感じで訳したりしている訳も多いですが、この場合は頭木さんもおっしゃっているとおり、「本当に嫌っていたのではなかった」のような感じで訳した方がよいと私も思います。上であげた原田訳以外の訳例は、いずれもこのような感じで訳していますね。
英訳では、この eigentlich[en] を文字どおり real としたり、ここ全体で was not(または wasn't) really repelled by Gregor とか、could not really be said to feel any disgust with(または for) Gregor としている訳が多いですが、particular としたり、ここ全体で was not particularly disgusted by Gregor としている訳もあります。ですが、eigentlich を particular と同義と考えるのは、ちょっと違うのではないかなと思います。
①この Ohne irgendwie neugierig zu sein なのですが、邦訳ではほぼすべてが、irgendwie を無視して訳しているか、あるいは「特に好奇心を抱いてということではなく」という感じで訳しているかです。ですが、irgendwie は、ここでは「何となく」という感じの意味であり、「特に」という意味ではありません。ですからここは、「何となく好奇心を抱いてというわけでさえもなく」という感じの意味になり、ひいては「好奇心など全然なくて」という意味になるのではないかと、私は思ったのですが、いかがでしょうか。
「…さえ」という意味を明確に示す語は確かにありませんが、ドイツ語ではそのような語がなくても、「…さえ」というニュアンスが含まれることはありますから、あながち無茶な解釈とは言えないと思います。
実は英訳では、in the least を用いて訳している訳が少なからずあり、これらは私のように解したのではないかと思われます。具体的には、5つの訳が Without being in the least curious(うち1つは、文中に挿入された形になっており、One day, without … となっていますが)、3つの訳が Without being in the least inquisitive としています。
②この die Hände im Schoß gefaltet は、かなり難しいです。まず文法的には、いわゆる「絶対4格」になりますが、これの説明は、私の連載の第19回でのものを、ここにそのまま引用しますので、これをもとにご判断いただけましたらと思います。im Schoß の解釈に関しては、このあとで検討します。
それで、ここの解釈なのですが、「腕を組んで」という感じで訳している訳が少しだけありますが、そうではないと私は思います。die Hände falten は、「腕を組む」という意味ではなく、「両手の指を組み合わせる」という意味になります。ちなみに「腕を組む」でしたら、普通は die Arme kreuzen (または verschränken) と言います。
次に、Schoß は身体のどこのことを言っているのでしょうか。実はこの点に関しては、解釈が分かれています。
〔1〕(「衣服の裾(すそ)――紳士服に限られるように書いてある辞書もありますが、絶対ではないようです――」、あるいは「スカート」という意味から連想して:)腹。邦訳、英訳ともに、こう解釈している訳が一番多いです。
また、衣服ということを前面に出して、「スカートの前で」としている邦訳や、over her apron としている英訳もあります。
なお、同じように連想してと思われますが、「腰」としている邦訳もわずかにあります。ですが、Schoß を「腰」とまで解するのは、ちょっと飛躍しすぎているように思いますので、一応除外しておきます。
〔2〕(「ふところ」という意味から連想して:)胸。日本語の「ふところ」は、普通は胸のあたりを言いますね。文字どおり、「ふところ」としている邦訳もあります。
〔3〕(Schoß の一番一般的な意味である:)ひざ。ただし、辞書によりますと、すわったさいの腰からひざがしらまでの部分を言うのが普通のようです。従って、単数形で両方のひざを意味していると考えて差し支えないと思われます。邦訳ではこの解釈はあまりありませんが、英訳ではわりあい多く、im Schoß を in her lap と訳しています。また、「すわったさいの腰からひざがしらまでの部分」ということから連想してと思われますが、「太股(ふともも)」としている邦訳もあります。
〔4〕(Schoß を身体の部分と考えずに、die Hände im Schoß gefaltet 全体を慣用句のようにみなして:)「手をつかねたまま」とか「手をこまねいて」。こう解釈している訳は、いくつかの邦訳のみです。
また、前置詞が auf でなくて in――原文では im となっていますが、これは in と定冠詞 dem が融合したものです――となっていることが気になりますが、Schoß に関しては、いっしょに使われる前置詞が普通の感覚では auf になりそうな場合でも、慣用的に in が使われることがよくあるようです。それに、〔2〕の場合には乳房と乳房の間に、〔3〕の場合にはひざとひざの間に、入りこむようなイメージを考えますと、in でも全く不自然とは言えないようにも思われますね。
それで、〔1〕〔2〕〔3〕〔4〕をそれぞれ検討してみますと、
〔1〕これは言えそうですが、衣服や腹ですと、前置詞が in になっていることがちょっとイメージしにくいですね。
〔2〕これも言えそうですが、ドイツの辞書で見てみますと、この「ふところ」という語義は、「母体」と同義のような感じで使われるのが普通のようです。絶対にそうとまでは言えないのではないかとも思いますが。
〔3〕「すわったさいの腰からひざがしらまでの部分」という語義に照らして考えますと、ここではすわってはいませんし、立った状態で手を下におろして組んでも、よほど身をかがめでもしないかぎり、普通はここには届きませんね。ですから、この解釈には私はちょっと賛成できません。
〔4〕die Hände in den Schoß legen(過去分詞になると gelegt) でしたら「手をこまねく」という意味になりますが、原文の表現ではどうなのでしょうか。
このように、どの解釈にもそれぞれ難がありますね。ですから、これはあくまでも私の考えなのですが、最初は〔1〕ではないかと思っていましたが、im Schoß のイメージから考えますと、やはり〔2〕か、あるいは、この形では辞書には出ていませんが、これも一種の慣用句と考えて〔4〕かなと思います。知人を通じて伺ったネイティブのご意見では、〔4〕と考えてよいとのことでした。
ちなみに、日本語でも、「拱手(きょうしゅ)」とか「懐手(ふところで)」という言葉があり、「手をこまねいている」という比喩的な意味にも使われますし――前者に関しては、「拱手傍観」という言葉もあります――、文字どおり動作を表わす場合には、手は胸のところに置かれるのが普通ですね。従って、〔2〕と〔4〕はいわば表裏一体と考えてよいとも思います。
なお、邦訳、英訳ともに、「両手をくんで」とか、with her arms folded などとして、im Schoß を全く訳出していない訳や、「両手を前でくみあわせたまま」とか、with her arms folded before her とか、with her arms folded in front of her などとして、im Schoß を「彼女の前で」としてしまっている訳もあります。また、英訳では、ほとんどの訳が動詞として folded を使っていますが、clasped や crossed としている訳もわずかにあります。
③この staunend を原田訳のように「ぽかんと」と訳している邦訳はほかにもありますが、staunen(staunend はその現在分詞) のもともとの意味は「驚く」「びっくりする」ですから、ちょっとニュアンスが違うかなとも思いますし、「びっくりして」と訳している訳もいくつかあります。もっとも、驚いた結果、ぽかんとすることもありますから、絶対に間違いとは言えないのですが、staunen だけで最初から「ぽかんと」のように訳すのは、私にはやはりちょっと違和感があります。諸訳を見たところでは、「あっけにとられて」でしたら、両方のニュアンスを含んでいますから、よいのではないかと思いました。また、「きょとんと」も、意味は少し弱くなりますが、これでもよいかなと思います。ほかには、「あきれて」「あきれた顔で」「あきれたように」としている訳もありますが、やはりちょっとニュアンスが違うのではないかなと思います。
英訳では、大部分が in amazement か in astonishment としており、ほかには、astonished、marveling、in stunned amazement、in surprise、in wonder もあります。
この flüchtig を、原田訳のように「ちょっとのあいだ」という感じで訳している訳と、高安訳のように「すばやく」という感じで訳している訳とがあります。英訳でも、for a moment、for just a moment、for a short while、briefly――1語の副詞ですが、for a moment などと同じ意味になることがあるようです――としている訳も、hastily、quickly としている訳もあります。flüchtig にはどちらの意味もありますから、どちらのように訳しても決して間違いではありません。ただ、私としましては、この語はどちらかと言いますと「さっと」という感じの意味で使われることが多いように思っていますので、高安訳のように訳したい気がします。
①この auch は、訳出していない訳も多いですが、この文の主語の sie にかけて「彼女も」としている訳もいくつかあります。ですが、グレーゴルの家族はこんなことはしていませんでしたから、違うのではないかと私は思います。auch は「…さえも」というニュアンスを含んで使われることがありますから、ここでは高安訳のような意味で言っているのではないでしょうか。
②まず、この alter――形容詞の alt が1格の男性名詞についたために、er という語尾がついています―― ですが、 alt は文字どおりには「年取った」という意味になりますが、ここでは虫になったグレーゴルの姿がそんなふうに見えたためにこの意味で言ったのかもしれません。しかし、あるいは alt には単なる親しみ、または逆に軽蔑のニュアンスを含んでいるだけという用法もありますので、そのような意味で言ったのかもしれません。どちらなのかはこれだけでは判断できないと思いますし、諸訳でも解釈が分かれています。このお手伝いさんが虫になる前のグレーゴルのことをよく知っていたのでしたら、後者の意味に解するのが自然かもしれませんが、彼女は彼が虫になってだいぶたってから来るようになっていますから、そうは言えませんね。ですからこの alter は、読者の好みで解釈して構わないのではないでしょうか。
また、Mistkäfer に関しては、私の手元の辞書では、「コガネムシ」「食糞(しょくふん)類コガネムシ」「センチコガネムシ」「せんちこがねむし亜科(あか)」「ヨーロッパセンチコガネ」「まぐそこがね」「まぐそこがね亜科」「馬糞(まぐそ)こがね亜科」「クソムシ」「フンチュウ(漢字で書くと、糞虫)」といった訳語が出ています。「コガネムシ」だけではちょっと足りないと思いますが、他の訳語を見れば、どのような虫なのかは大体見当がつきますね。こちらも読者の好みで訳して構わないのではないでしょうか。
以上、いずれも読者の好みで構わないと申し上げましたが、この alter Mistkäfer は既訳でもいろいろに訳されていて面白いですので、巻末の付録で示してみました。ご興味がおありでしたらご覧下さい。
③この Seht mal den alten Mistkäfer! に関しては、実は私も正確なところはわかりません。はっきりおわかりの方がおられましたら、ご教示いただけましたら幸いです。
まず、Seht は命令法になっていますが、この前の文では Komm となっていて、du(あなた) に対する命令法になっているにもかかわらず、この Seht は ihr(あなたたち) に対する命令法になっていますし、内容的にもまるでグレーゴルの家族に対して言っているような感じですね。
しかし、この文を読んだかぎりでは、やはりグレーゴルに対して言っていると考えざるをえません。もっとも、Seht という形になっていることに関しては、全く説明ができないわけではないのです。ドイツ語には、ihr ではなく Ihr という代名詞もあり、こちらも「あなたたち」という意味になるのが原則ですが、古い用法では「あなた」と単数になることもあります。命令法の形は ihr と同じですから、この用法の Ihr に対する命令法と考えれば、一応説明がつきます。
そのうえで逐語訳をしてみますと――alten と Mistkäfer の訳語は、私が任意で選びます――、「まあ、ちょっと、その年取った馬糞こがねを見てごらんよ」となり、「その年取った馬糞こがねという自分の姿を見てごらんよ」という意味で言ったと考えれば、全く意味が通らないわけではありません。
いずれにしましても、ここに関しては、邦訳では原田訳のように直訳している訳も多い一方で、高安訳のように原文とはかなり離れた感じでグレーゴルへの呼びかけらしい文に変えてしまっている訳も少なくなく、邦訳者たちも迷ったのではないかと思われます。英訳では、Look at ... 、Just look at ... 、Hey, look at ... 、Well, look at ... のように訳しており、言葉を添えているものはあってもみな直訳していますから、英訳者たちがどのように考えたのかはわかりません。私は一応、上記のように考えましたが、正しいかどうかは自信がありません。
Hätte man doch … の文は、Wenn man doch dieser Bedienerin, statt sie nach ihrer Laune ihn nutzlos stören zu lassen, lieber den Befehl gegeben hätte, sein Zimmer täglich zu reinigen! と同じ意味であって、願望を表わしており、doch は願望の意味を強めています。全体の意味はそれほど難しくはなく、解釈が分かれるような箇所はないと思われます。
ただ、接続法第Ⅱ式の過去形が使われており、原田訳はそのまま過去形に訳していますが、立川訳は現在形に訳しています。これはなぜかと言いますと、立川訳はこの文を体験話法と判断しているためと考えられます。体験話法に関しての詳しいことは、次の題名の頭木さんのブログをご覧下さい。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
ここはグレーゴルにとってはかなり深刻な悩みが述べられている箇所ではありますが、非常に急迫した状況とまでは言えず、体験話法と判断するかどうかは微妙なところです。邦訳でも、体験話法として訳している訳とそうでない訳とが半々くらいです。どちらに訳すかは、読者の好みでよいのではないかと私は思います。
なおこの文を体験話法とみなしたと仮定し、グレーゴル自身の思いとして直接話法で書いてみますと、
Gäbe man doch dieser Bedienerin, statt sie nach ihrer Laune mich nutzlos stören zu lassen, lieber den Befehl, mein Zimmer täglich zu reinigen!
となります。接続法で書かれた文は、体験話法になっても時制はそのままにされることが多いのですが、この原文のように過去形にされることもあります。
それから、この文の主語の man は、意味的にはグレーゴルの家族のことを言っていますが、man はもともとは不特定の人を意味しますから、「ともかく家族のだれかが」というニュアンスが含まれているのかもしれません。
邦訳では、このような man は特に訳さないのが普通ですが、英訳では主語を出さないわけには行きませんね。この文の場合には、大部分の英訳では they としていますが、someone としている訳もありますし、If only this cleaning woman had been ordered to clean his room daily, ... などのように、お手伝いさんを主語にして受動態にしている訳もあります。
allerdings は、この「変身」ではこれまでに何度か出てきましたが、「もちろん」という意味と、「ただし」「とは言え」という意味とがあります。どちらの意味で訳しても文意が通る場合も少なくなく、しばしば解釈に迷う語の1つです。この allerdings も、諸訳で解釈が分かれています。
私としましては、この文の場合には、allerdings の前の wie zum Angriff と、あとの langsam und hinfällig とが、ほぼ反対のことを言っていますから、片岡訳のように「ただし」「とは言え」の意味に解した方が自然ではないかと思います。もっとも、グレーゴルがこんな身体であったから langsam und hinfällig なのだということも入れたいためか、原田訳のように「もちろん...ではあったが」という感じにして、両方の意味を入れて訳している訳もけっこうありますが。
①この wie は、中井訳のように理由を表わす意味になるのではないかと、私は思いました。ですが wie には、原田訳や川村訳のような感じの、判断の根拠を表わす意味もありますから、このように訳しても構わないと思います。邦訳では、後者の意味で訳している訳が多いです。
なお、wie が理由の意味や判断の根拠を表わす意味になることは、辞書によっては出ていないものもあります――特に後者の意味に関しては、出ている辞書は少ないです――が、これらの意味になることは確かにありますので、念のために。
英訳ではほぼすべて、as としており、この as にも両方の意味がありますから、どちらの意味に解しているのかはわかりません。
②大きな口をあけている理由は、私にもよくわかりませんが、大胆なことやとんでもないことをしようとするさいに口を大きく開けるということは、人によってはありうるのではないかとも思われますから、そんな感じかなと思いました。
英訳を含む既訳も見ましても、ほとんどみな直訳的に訳していますし、これは読者が自分なりに推測するしかないのではありませんでしょうか。
ただ、川村訳ですと、この人は勢いをつけるときに口を大きく開けるくせがあったような感じもしますね。また、昔のある邦訳はそれなりに詳しい解釈をしていましたが、私には到底納得できない理屈でしたので、ここにはあげずにおきます。
①の »Also weiter geht es nicht?« というセリフですが、まず冒頭の Also は、いろいろに解せますが、ここでは「さあ」という感じの意味で、グレーゴルを挑発しているのではないかと私は思います。
次に、es の解釈ですが、次の2通りが考えられます。
〔1〕weiter gehst du nicht? と言っても構わないところを、動作を特に強調したい場合には主語を es にしてしまうことがありますから、ここではこの用法であり、従って、es = du であると考えることができます。直訳しますと「あんたはそれ以上行かないの?」のようになりますから、「かかってこないの?」などのように意訳することもできますね。
〔2〕es はグレーゴルの状況を漠然とさしており、しいて訳出すると、「あんたの状況は」などのようになりますが、あえて訳出しなくても構いませんね。直訳しますと「それ以上は進まないの?」のようになりますから、「それでおしまいなの?」などのように意訳することもできますね。
どちらが正しいのかは決められませんが、〔1〕の用法はまれ*ですので、私は〔2〕と解したいと思います。ですが、訳としましては、「かかってこないの?」の方が面白いのではないかと感じますし、〔2〕と解しても結局は、「かかってこないの?」という意味にもなってきますね。
*ですが、このような用法は、ありえないわけではありません。1つだけ例をあげておきます。ただし、主語の es は、 du ではなく wir の代わりになっていますが。
このセリフは、邦訳でも英訳でもいろいろに訳されていて面白いですから、巻末の付録で一覧にしてみました。ご興味がおありでしたらご覧下さい。
②この ruhig は、お手伝いさんがグレーゴルをこれ以上攻撃するつもりがないことを表わしている言葉ですが、邦訳では、「静かに」「そっと」「そうっと」「ゆっくりと」「おとなしく」「落ち着き払って」「けろっとして」「悠然と」といったように、案外いろいろに訳されています。訳語によってお手伝いさんの気持ちが微妙に違ってきますが、どれが絶対に正しいとかは言えませんので、読者の好みでよいのではないかと私は思います。英訳はほぼ全部が、calmly か quietly としていますが、Charles Daudert 訳だけは simply としています。ですがこれも、案外それなりに感じをつかんでいるのではないかと思います。
①「変身」でもこれまでに何回か出てきましたが、カフカは gar などで否定の意味をすごく強めておきながら、それをまた――ここでは fast で――少し弱めるということを、しばしばやります。ここでこのニュアンスを正確に出そうとしますと、「もう全然何もと言ってもいいくらい、食べなかった」のような訳になりますね。ですがどうしても直訳調になりますし、意味が原田訳のような訳と大きく変わってくるわけでもありませんから、ここでは原田訳のような訳でも構わないと思います。他の邦訳でも、このニュアンスを厳密に出して訳している訳はありませんでした。
②原田訳といくつかの邦訳では、2番目の文全体を現在形で訳しています。しかし、この文は単なる描写であり、体験話法ではありませんので、これらの訳はここを歴史的現在――過去のことを現在形で表現することによって、そのことがあたかも今起きているかのようにし、生き生きとした感じを出す表現法――として訳したのではないかと思われます。
③この zum Spiel はいろいろに訳されていますが、原田訳の「遊び半分に」が一番無難な感じです。「たわむれに」としている訳も多く、これもよい訳ではありますが、ちょっと文語的ですね。ほかには、「いたずら半分に」「お慰(なぐさ)みに」「気まぐれに」などもあります。
英訳ではかなりいろいろに訳されています。zum Spiel という形では訳出せずに、これを含む全体を意訳している――たとえば、would amuse himself by … や would play at … としている――訳は除外して、zum Spiel の訳ということで示しますと、aimlessly、as if it were a game、as a game、as a kind of game、as a pastime、by mere chance、desultorily、for amusement、for the fun of it、just for fun、in a playful way、playfully、to play、to play with it、to toy with it、just for something to do としています。
④この wieder は、「再び」「また」と言うよりも、元の状態に戻す――ただこの場合には、いったん口に入れてしまっていますから、厳密にはちょっと違いますが――という意味で使われていると思われますが、ドイツ語のこのような wieder は、日本語では訳出しない方がかえってわかりやすいですから、原田訳のような訳で構わないと思います。
①この die Trauer über den Zustand seines Zimmers を、高橋訳のような感じで訳している邦訳も多いのですが、原文では「部屋の状態が悲しい(みじめだ)」とは書かれておらず、「部屋の状態に関しての悲しみ(つまりは、部屋の状態をグレーゴルが悲しく思っている)」と書かれています。もっとも、言いたいことが大きく変わるわけではありませんから、いけないとまでは言えませんが、原田訳のように訳した方がより正確ではありますね。
②この gerade は「まさに」「ほかならぬ」という感じの意味で、mit 以下を強めており、「部屋の状態が変わったことが、食欲がわかない原因と考えていたのだが、ほかならぬそれに〔慣れたのだ〕」ということを言いたいのではないかと思われます。
邦訳では、訳出していない訳も多いですが、訳出している訳では、「まさに」「ほかならぬ(または、ほかでもない)」以外には、「...にこそ」「(だいぶ意訳ですが)むしろ」などとしています。また、高橋訳は上記のように訳しており、①の部分の訳はちょっとと思いましたが、ここの訳は上手だなと感心しました。
英訳でも、訳出していない訳も多いですが、訳出している訳では、actually、precisely、in fact としています。また、次のように工夫している訳もあり、面白いと思いました。
③この sehr は勿論、bald を強めていますが、直訳しますと「非常にすぐに」のようになってしまい、日本語としては今一つですから、一部の邦訳がしているように、sehr と bald を合わせて、「あっというまに」「すぐさま」「たちまち」などとするのも一法ですね。
①まず、この文で使われている3つの man ですが、意味的にはやはり、グレーゴルの家族のことを言っていますが、原田訳などの邦訳では、これらの man を訳出しない形で、この文を訳していますね。
なぜここで man が使われたのかということは、ネイティブのような語感のない私にははっきりとはわかりませんが、Seine Familie(彼の家族) とことさらするのはちょっと大げさな感じがしますし、sie(彼らは) とも勿論言えますが、そうするよりは man とした方がグレーゴルを除いた一家の者という感じが出るような気もします。
それで、これらの man の英訳での訳し方ですが、前回の第21回の付録では、man が使われている文の英訳について、私が知っている全部の英訳にわたって大変詳しく検討しました。この文も同じように検討してもそれなりに面白いのですが、とても長くなりますし、前回と全く同じことをするのもどうかと思いますので、今回はごく簡単に記すにとどめます。
まず、訳出している場合には――文頭にきた場合には勿論大文字で始まりますが、すべて小文字に統一して示します――、they としているか、最初は his family または the family として、そのあとの man は they としているかです。people(そのあとの man は they) や everyone(そのあとの man は、これを主語としない形で訳す) としている訳もありますが、グレーゴルを除いた一家の者ということからしますと、ちょっとどうかなと思います。
また、この文においても、man を主語としない形で訳している訳もかなりありますし、その場合には2番目と3番目の man を含む文は受動態で訳している訳が多いです。3つとも man を主語にしない形で訳している英訳を、2つだけあげておきます。
②この solcher Dinge gab es nun viele の solcher Dinge は複数の2格で、あとの viele にかかっています。viele は、この場合にはあとに Dinge が省略されています。このように数量を表わす語が名詞的に用いられた場合には、2格の名詞や代名詞を伴うことがあります。ここでは、viele solcher Dinge gab es nun とか、 es gab nun viele solcher Dinge としても構わないのですが、この文のように、2格の名詞や代名詞が数量を表わす語の前に置かれることも少なくありません。
また、ドイツ語の2格には部分の2格という用法もあり、「…のうちの〔たとえば、「2つ」とか「多く」〕」という意味になることもあります。この用法の2格もこのように訳す場合もありますが、ここでの原田訳をご覧いただければおわかりのように、必ずしもそうは訳さない場合もありますから、注意が必要です。この場合の solcher Dinge … viele は、solch viele Dinge か solche viele(または vielen) Dinge と同じ意味と考えてよいと思います。従って、ここ全体を2格を使わない形で書き換えますと、
… , und solch viele Dinge(または solche viele Dinge、または solche vielen Dinge) gab es nun, …
あるいは、
… , und es gab nun solch viele Dinge(または solche viele Dinge、または solche vielen Dinge), …
となろうかと思います。
ちなみに、2格のこの使い方は文語的であり、口語的な文章ではあまり使われず、たとえばこの場合ですと、上記のように書かれるのが普通です。
なお、念のためにここの諸訳を見てみましたが、英訳で1つだけ、明らかに「…のうちの」という意味で訳しているのと、上にあげた Pasley 訳がこの意味に解したのか、そうでないのか不明確な――原文に似た感じで訳していますが、of と plenty を切り離して考えているのか、plenty of these と考えているものの、of these だけを前にもってきたのかわかりません――以外には、「…のうちの」という意味で訳している訳は見当たりませんでした。
それで、ちょっと長くなりますが、他の作品での用例を見てみたいと思います。
③この Zimmerherren(単数形は Zimmerherr) は、邦訳では、「下宿人」「間借人」「間借り人」「紳士」「男性」、英訳では、boarders、gentleman(または gentlemen) boarders、lodgers、gentleman(または gentlemen) lodgers、male lodgers、roomers、tenants、gentlemen、young gentlemen、men としています。「紳士」や「男性」や、これに相当する英訳は、厳密に言いますと正確ではありませんが。
①ernst は、もともとは「真剣な」という感じの意味ですが、ここではいろいろに訳せますね。諸訳を見てみますと、邦訳では、「生真面目(きまじめ)な」「生真面目そうな」「気むずかし屋の」「謹厳(きんげん)な」「糞(くそ)まじめな」「しかつめらしい」「まじめくさった」としています。英訳では、dignified、dour、earnest、grave、meticulous、serious、serious-looking、solemn、stern、very formal、very serious、very earnest and serious としていますが、earnest と serious と solemn が多いです。
②この wie は、前に出た wie sie mit groß geöffnetem Munde dastand の箇所でお話しした、判断の根拠を表わす意味になっていますから、原田訳のような訳でよいと私は思います。前の箇所では、wie が理由を表わす意味になっているとも解せましたが、ここでははっきり、判断の根拠を表わす意味と解してよいと思われます。
③ここはちょっとわかりにくいですが、この waren は文末の bedacht とつながっており、auf … bedacht sein(waren は sein の過去形で、主語が複数の場合に使われます) で「…のことを気にかける」という意味になります。また、peinlich は副詞として用いられていて、bedacht の意味を補っており、ここでは、「几帳面(きちょうめん)すぎるほどに」という感じの意味と考えられます。
それで、waren peinlich auf … bedacht の形で、諸訳を見てみたいと思ったのですが、邦訳ではこのあとの … , nicht nur in ihrem Zimmer, … , also insbesondere in der Küche, … との兼ね合いもあって実にいろいろな訳し方をしており、あげるとしますとこれらもすべて含めなくてはならなくなり、非常に長くなってしまいます。それに解釈が大きく分かれる箇所でもありませんので、邦訳の列挙は省略します。
ただ、英訳ですと、この部分に限った形でわりあいすっきりとあげることができますので、英訳だけを見ておきたいと思います。英訳では、pedantically ensured(他動詞で過去形) ... 、had a passion for ... 、insisted(自動詞で過去形) on … 、insisted(同前) pedantically on ... 、were scrupulously concerned about ... 、were insistent on ... 、were meticulously(または painfully) insistent on ... 、were meticulously(または painfully、または scrupulously) intent on ... 、were obsessed with ... 、were passionate about … 、were punctilious about ... 、were scrupulous about ... 、were sticklers for ... 、(auf Ordnung と合わせて意訳して)were intorelant of embarrassing disorder としています。
④nun einmal はドイツ語ではよく使われる表現で、「...なのだから仕方がない」という感じの意味になりますが、訳出するとかえって冗長になるということで、訳出されない場合もあります。
これを含む da sie sich nun einmal hier eingemietet hatten の邦訳では、訳出していない訳もありますが、原田訳のように多少その感じを出している訳もありますし、「とにかく下宿人であってもこの家の人間になってしまった以上は(高橋訳:これは簡潔でしかも上手ですね!)」「(da sie sich nun einmal hier eingemietet hatten を独立させて訳して:)もっとも間借りとはいえ、この家の住人になったのだから、それも無理からぬことである(高本訳)」のように、非常にはっきり感じを出している訳もあります。
英訳でも、訳出していない訳もありますが、接続詞の da を一般的な訳語である as や because や since と訳さずに、as long as や now that や once と訳したり、この nun einmal を after all と訳したりして、いくらか感じを出している訳もあります。
⑤この also は、なくても意味は十分に通りますし、むしろ余計なようにも思われますね。しいて解釈しますと、「家全体のことと言ってもつまりは、――朝食や、ときには夕食も食べさせてもらっている――彼らにとっては台所が何よりも大事なのだから」という感じになるかもしれませんが、ちょっと無理があるかなとも思います。もっとも、この also を訳出している訳は、邦訳、英訳ともに少しだけあるのですが、それらを読んでも、これはと納得できるような訳はありませんでした。
ドイツ語の口語表現に詳しい知人に伺ってみましたところ、「『つまり』という感じの意味も含んでいるのかもしれないが、also は口調(リズム)の関係で特に意味がなくても挿入されることがあるから、そう考えてもよいのではないか」とのことでした。
①この文では、Unnützen oder gar schmutzigen Kram が目的語であり、主語は sie(彼らは) です。原田訳では、主語を省略していますが、それは別に構わないと思います。ですが、Unnützen 単独では「不必要なもの」という意味にはならず、あとの schmutzigen と同じく、形容詞として Kram にかかっています。ですから、丘沢訳の方が正確ですし、あるいはいっそのこと、中井訳のように、 Kram をあっさり「もの」と訳して統一するのも1つの方法ですね。
②また、原田訳では gar が訳出されていませんね。ほかにも訳出していない訳はかなりありますが、訳出している訳は、邦訳、英訳ともにほぼすべて、「ましてや」とか、「…はなおさら」という感じで訳しています。ですが私は、違うのではないかと思います。gar は、「それどころか」とか「...でさえ」という意味ですから、「〔役に立つものではあっても〕汚れているものはそれさえも」という感じで言っているのではないでしょうか。ここに関しては、英訳でただ1つ、Christopher Moncrieff 訳だけが、They couldn’t bear useless junk, or even anything that was just dirty. と正確に訳しています。
ちなみに、「ましてや」とか、「…はなおさら」と言いたかったのでしたら、
Unnützen oder noch mehr(または mehr noch) schmutzigen Kram ertrugen sie nicht.
あるいは、
Unnützen Kram ertrugen sie nicht, geschweige denn schmutzigen.
などのように書いたのではないかと思います。
größt[en] は groß[en] の最高級になりますが、「一番大きい」とか「最も大きい」という意味と言うよりは、「きわめて大きい」という意味であって、いわゆる絶対最高級であると考えられます。「大部分」と言うときには zum großen Teil とも言いますが、zum größten Teil としますと、意味がより強まることになります。ただし、辞書によっては、前者を「相当の部分」、後者を「大部分」などとして、訳を区別しているものもありますが。
英訳では、for the most part としている訳が多いですが、あっさり1語で、largely、mainly、mostly としている訳もあります。また、あとの ihre eigenen Einrichtungsstücke といっしょにして、 most of their furniture などとしている訳も多いです。ただ、had brought most of their furniture with them のようにするのは構いませんが、had brought most of their own furniture などとしますと、「彼ら自身の調度品の大部分を持ちこんでいた」という意味になり、「大部分は自分たちの調度品を持ちこんでいた(→自分たちのものではない調度品も少しはあった)」とはニュアンスが変わってきてしまうのではないかと、私は思います。
ここはそれほど難しくはないと思いますが、また man が出てきましたね。この man も前と同じく、グレーゴルの家族のことを言っていると思われます。英訳では、この man を one や the family と訳したり、die man aber auch nicht wegwerfen wollte の全体を、but which on the other hand no one wanted to throw away などと no one を使って訳したり、but which could not be thrown away, either などと man を主語にせずに受動態にして訳したりしています。
①wandern (wanderten は過去形で、主語が複数の場合に使われます) は、普通は「歩いて行く」という感じの意味で使われますが、辞書には「移動する」とか「入ってくる」といった意味も出ており、ここではこの意味で使われています。
諸訳ではいろいろに訳されていますので、見ておきたいと思います。邦訳では、煩雑になることを避けるため、すべて現在形の終止形にして示しますと、「移動してくる」「入れられる」「移されてくる」「移される」「移されることになる」「移ってくる」「置かれるようになる」「たどりつく」「鎮座(ちんざ)することになる」「流れこむことになる」「流れ込んでくる」「運ばれることになる」「運び込まれる」「引越してくる」「持ち込まれる」「やってくる」「流入してくる」としています。
英訳では、あとの in の訳も含めて示しますと、came into、found its way into、found their way into、made their way into、migrated into、wandered into、went into、was chucked into、were moved into、were moved to、ended up in、had ended up in …、wound up in、were stacked in としています。なお、主語の Alle diese は大部分の訳で All these things などと複数形で訳されていますが、中には All of this や All this(いずれの場合も、この前では things と出ていますから、this で受けるのはちょっと不自然ですが) や It(=A lot of stuff) のように単数形で訳されている訳もありますから、found its way となったり found their way となったり、受動態の場合には was となったり were となったりしています。
②この Ebenso auch die Aschenkiste und die Abfallkiste aus der Küche. の全体は、次の3つの解釈が可能ですし、諸訳でも解釈が分かれています。
〔1〕(aus の前に、前の文で出た wanderten を補って考えて:)同じように、灰捨て箱やごみ箱も台所から移ってきた。
〔2〕(aus der Küche は前の die Aschenkiste と die Abfallkiste にかかっていると考えて:)同じように、台所からの灰捨て箱やごみ箱も。
〔3〕(aus der Küche は die Abfallkiste のみにかかっていると考えて:)同じように、灰捨て箱や、台所からのごみ箱も。
次の③で引用した説明でもわかりますように、この「灰捨て箱」も、台所にあってもおかしくはないようですから、〔1〕か〔2〕ということになりそうですが、どちらのつもりで書かれたのかは私も断定できません。ですが意味としては結局同じことになりますから、読者の好みでよいのではないでしょうか。
③Aschenkiste は、邦訳では、「灰箱」「灰受箱」「灰受け箱」「灰すて箱」「灰捨箱」「灰捨て箱」「灰棄(す)て箱」「灰を入れた箱」「灰を捨てる箱」「灰を棄てる箱」「灰壺」「石炭殻(がら)入れ」「灰皿(これはちょっと誤解を招きますね)」、英訳では、ash box(または ash-box)、ash bucket、ash can(または ash-can、または ashcan)、ash canister、ash catcher、ash drawer、ash pan、bin of ashes、box of ashes、box of ashes from oven と訳されています。私たちにはなじみが少ないですが、三原弟平(おとひら)先生の『カフカ「変身」注釈』では、以下のように説明して下さっています。頭木さんも今回の連載で、「ザムザ家でも、料理やストーブなどから灰が出て、それを箱に集めていたのだろう」と書いておられます。
①この nur は、Was――「もの」「こと」という意味の先行詞を含んでいる関係代名詞で、ここでは前者の意味になりますね。この Was nur im Augenblick unbrauchbar war 全体が、あとの schleuderte の目的語になっています――の意味を強めており、ここでは全体で「今のところ必要でない(または、役に立たない)ものは何でも」という意味になります。原田訳のような訳でも勿論構いませんが、川村訳のようにしますといっそう感じが出ると思います。英訳では、Was に該当する What を使って訳しているものもありますが少なく、多くは Whatever を使うか、anything(文頭に置かない形で訳しているものが多いため、小文字で始めています)+関係代名詞を使って訳しており、感じを出そうとしています。
②この einfach は、原田訳のように、一番もとの意味の「簡単に」と訳しても構いませんが、このような場面では「深く考えたりせずにあっさりと」というニュアンスを持ちます。邦訳では、原田訳と川村訳のほかには、「あっさり」「あっさりと」「遠慮なく」「顧慮(こりょ)するところもなく」「さっさと」「ただ無造作(むぞうさ)に」「無造作に」「難しいことは考えず」(ここからあとの訳語はちょっと感じが違うように思いますが)「片っぱしから」「片っぱしからせかせか」「すぐに」「せっせと」「取りあえず」「手っ取りばやく」「やみくもに」としています。英訳では、多様に訳されている邦訳とは違って、多くが simply としています。ほかには、hastily、immediately、just、quickly もありますが、just 以外はやはりちょっと感じが違うように思います。
③den betreffenden Gegenstand は、直訳しますと「該当(がいとう)するもの」のようになりますし、そのように訳している邦訳もありますが、いかにも直訳的ですね。原田訳のように説明した方が翻訳らしくなります。このように言い換えている邦訳には、ほかに「そんながらくた道具」「つかまれた当の物」「当の不要物」「投げ込まれる当の物」「投げこまれる物品」「投げこまれる物」「部屋に入れられるもの」「放り込まれる物」があります。英訳では大部分が、the object in question――the object concerned や the object involved や the relevant object などとしている訳もわずかにありますが――と直訳しています。少しでも説明している訳は、some unwanted utensil (A. L. Lloyd 訳) と、the discarded object (Mary Fox 訳) くらいです。
ここは文が長いうえに難しい箇所も多く、説明も少し長くならざるをえませんから、③④⑤ではその語の前後もあげながらお話しするようにします。
①この bei Zeit und Gelegenheit は、意味としては解釈が大きく分かれることはありませんが、文法的には次の3つの解釈が考えられますし、既訳でも訳し方がこの3通りに分けられると言ってよいと思います。
〔1〕Zeit と Gelegenheit を、それぞれ一番一般的な意味に解して、文字どおり「時間と機会があれば」のように訳す。
〔2〕Zeit にも Gelegenheit にも「好機」という意味があるので、同じ意味の語を2つ重ねて意味を強めたと考えて、「良い機会があれば」のように訳す。
〔3〕いわゆる Hendiadyoin(二語一想) で、bei gelegener Zeit という意味になると考えて、「つごうの良い時間に」のように訳す。これはちょっと特殊な考え方かもしれませんが、このように訳している訳もいくつかあります。Hendiadyoin についてはこのあとでお話しします。
ですが、上記のとおり、どの意味に解しても大きく変わってくるわけではありませんので、ここは読者の好みで解釈してよいのではないでしょうか。ですから、〔3〕が絶対に正解というわけではないのですが、この機会に、Hendiadyoin(二語一想) について少しだけふれておきます。これは、実例でご覧いただくのがわかりやすいと思いますので、2つだけあげておきます。
※Becher und Gold(杯〔さかずき〕と金) で、goldener Becher(金の杯) の意味になる。
※Erde und Moos(土と苔〔こけ〕) で、moosige Erde(苔が生えた土) の意味になる。
2つの名詞が und で結ばれたからと言って、必ずこのようになるわけでは勿論ありませんが、古い文学作品では時々使われる表現です。
②この wenn nicht Gregor sich durch das Rumpelzeug wand und es in Bewegung brachte ですが、wenn nicht … を直訳しますと、「…しなかったならば」となりますが、「...したとき以外には」のようにも訳せます。さらには大幅に意訳して、「ただし、...したこともあった」という感じでも訳せますね。ある教科書版の注釈では、wenn nicht … を nur daß …(ただし、…) と言い換えています。実際、既訳でも訳し方が分かれており、どの訳し方でも全く構わないと思います。
もっとも、「ただし、...したこともあった」のように意訳している邦訳はかなりありますが、英訳では全然なく、ほとんどみな、if … not … か、unless … か、except when … と訳しています。とは言え、except when … は上手な訳であると思いました。
ですが、それはそれとしまして、ここの解釈は次の3つに分かれています。ここでは「...したとき以外には」という訳し方を使って示します。
〔1〕がらくたの間をくねくねと動きながら、がらくたを動かしたとき以外には。多くの訳はこの解釈をしています。
〔2〕がらくたの間をくねくねと動くことができず、だからがらくたを動かしたとき以外には。
〔3〕がらくたの間をくねくねと動いたか、さもなければ、がらくたを動かしたとき以外には。
私としましては、やはり〔1〕が妥当かなと思います。
原文では、2つの事柄は oder(あるいは) などではなく und(そして) でつながっていますから、〔3〕の解釈はちょっと無理であると思います。
〔2〕に賛成できない理由は以下のとおりです。この nicht は、Gregor sich durch das Rumpelzeug wand und es in Bewegung brachte を一体的に否定していると考えるのが、文法的には自然と思われます。また、sich durch das Rumpelzeug wand だけを否定したかったのでしたら、außer wenn Gregor sich nicht durch das Rumpelzeug wand und es in Bewegung brachte のように書いたのではないかとも思います。それから、進むのに邪魔であったので動かしたと言いたかったのでしたら、ことさら sich durch das Rumpelzeug wand という表現を使う必要性は乏しいようにも感じます。
ただ、こうしていろいろあげたものの、カフカの文章では、必ずしも語学的に正しい解釈とは別の意味を意図している場合もありますから、〔2〕のような解釈を完全に否定することはできないとも思いますが。
③この weil kein sonstiger Platz zum Kriechen frei war の sonstig[er] は、訳出していない訳も多いですが、訳出している訳はみな、「ほかの」という感じで訳しています。
ですが私は、そうではないのではと思いました。いろいろなものが運び込まれて場所がふさがれ、這い回る場所がなくなってしまったわけですから、這い回る場所が「ほかに」なかったと、ことさら言う必要性はないように思います。私としましては、この sonstig[er] は「かつての」「以前の」という意味であり、以前には這い回れていた場所がふさがれてしまい、今は這い回れなくなった、ということを言いたかったのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。
④この zum Sterben müde und traurig の zum Sterben は、 müde だけにかかっているのでしょうか。それとも、traurig にもかかっているのでしょうか。既訳では、どっちつかずな感じで訳しているものがほどんどです。英訳では、どっちつかずな感じで訳しているものも多いですが、dead-tired and miserable、dead-tired and mournful、dead-tired and sad、sad and deathly tired、tired to death and dejected、tired to death and depressed、tired to death and feeling wretched、tired to death and forlorn、tired to death and sad、tired to the point of death and miserable のように、müde だけにかかっているとみなしている訳も多いです。しかし中には、tired and sad to die (Christopher Drizzen 訳) のように、両方にかかっているとみなしている訳もあります。どちらが正解なのかは断定できませんが、私としましては、両方にかかっているとみなしてよいのではないかと思います。
⑤この wieder stundenlang sich nicht rührte の wieder は、じっとしていることが前にもあったことを前提として言っているものと思われますが、あまり深い意味はありませんので、必ずしも訳出しなくてもよいのではないかと思います。
最後になりましたが、いくつかの箇所の解釈に関しては、知人の中田和子様にご意見を伺いました。
また、英訳に関した2、3の点につきまして、今回も高知市のエヴァグリーン英会話スクールの菊池春樹先生にご教示をいただきました。
記して感謝いたします。ただ、最終的にはすべて私の判断で記しましたので、責任は私にあります。ご意見がおありの方がおられましたら、私宛にお寄せ下さいましたら幸いに存じます。
付録
〔1〕alter Mistkäfer の邦訳の一覧
英訳に関しては、この一覧のあとで説明します。
なお、この2語だけの訳を見ていますので、邦訳、英訳ともに、原文でこのあとに付いている感嘆符や引用符は省略します。
「馬糞虫」に関しては、高橋義孝訳では「まぐそむし」、立川(たつかわ)洋三訳では「ばふんむし」とルビがついており、片岡啓治訳とナボコフ、野島秀勝訳ではルビがありません。高安国世訳では「馬糞こがね」としていて、「馬糞」に「まぐそ」とルビがついています。
「(「馬」のない単なる)糞虫」に関しては、山下肇(はじめ)・萬里(ばんり)訳のみで「くそむし」とルビがついていますが、他の訳の「糞虫」もこう読んで構わないと思います。
「甲虫」に関しては、中井正文訳でも山下肇訳でも「かぶとむし」とルビがついています。中井訳の旧訳と川崎芳隆訳の「甲蟲」にはルビがありませんが、「蟲」は「虫」の旧字体ですから、同じく「かぶとむし」と読んで構わないと思います。
しかしながら、Mistkäfer の訳語として「甲虫」を載せている辞書はありませんでしたし、インターネットでこれの写真をいろいろ見てみましても、「甲虫」とは感じが違うように思いました。
馬糞虫さん(高橋義孝訳)
おじいさんの甲虫さん(旧版の文庫では、「仲よしの甲蟲さん」)(中井正文訳)
甲虫のお爺(じい)さん(山下肇訳)
かぶと虫のじいさん(原田義人〔よしと〕訳)
まぐそこがねのじいさん(辻瑆〔ひかる〕訳)
かぶと虫のじいさん(高本研一訳)
馬糞こがねの大将(高安国世訳)
甲蟲のおじいさん(川崎芳隆訳)
くそ虫さん(城山良彦訳)
老いぼれの馬糞虫や(片岡啓治訳)
馬糞虫さん(立川洋三訳)
タマコロガシのおじさん(川村二郎訳)
馬糞虫さん(ナボコフ、野島秀勝訳)
糞虫さん(三原弟平〔おとひら〕訳)
年寄りのクソ虫さん(池内紀〔おさむ〕訳)
糞虫君(山下肇・萬里訳)
クソ虫(丘沢静也〔しずや〕訳)
糞虫君(浅井健二郎訳)
年寄りのフンコロガシさん(野村廣之訳)
糞虫さん(真鍋宏史訳)
フンコロガシちゃん(多和田葉子訳)
フンコロガシさん(田中一郎訳)
クソ虫ちゃん(川島隆訳)
英訳では、大部分が次の3つのいずれかですので、一覧にはしません。ちなみに英訳では、前に you を同格として入れている訳が多いです。
old dung beetle
you old dung beetle
you old dung-beetle
これら以外には、次のような訳があります。
you dirty old beetle
you dirty old dung beetle
you little manure bug
you old chap the dung beetle
you old cockroach
you old dung beetle you
my old dung-beetle
〔2〕»Also weiter geht es nicht?« の邦訳と英訳の一覧
「なんだい、たったそれだけかい」(高橋訳)
「さあ、かかってこんのかね」(中井訳)
「そうかい、それっきりかね」(山下肇訳)
「それじゃあ、それっきりなのかい」(原田訳)
「じゃあ、それっきりなのかい?」(辻訳)
「ふん、それだけかい?」(高本訳)
「ふん、それだけかい」(高安訳)
「そうかい、それだけなのかね」(川崎訳)
「じゃ、それきりかい?」(城山訳)
「おや、それでおわりかい?」(片岡訳)
「へえ、それでおしまいかい?」(立川訳)
「何だ、それで終りかね」(川村訳)
「おや、そこまでかい?」(三原訳)
「おや、それっきりかい?」(池内訳)
「そうかい、それだけのことなんだね」(山下肇・萬里訳)
「あら、もうおしまいなの?」(丘沢訳)
「おや、それでおしまいなのかい?」(浅井訳)
「どうしたの、かかって来ないの?」(野村訳)
「なんだ、もうおしまいかい?」(真鍋訳)
「それ以上は近づけないわけ?」(多和田訳)
「それで終わりなんだね?」(田中訳)
「ほう、もう終わりかい?」(川島訳)
これらの英訳では、「それまでである」とか「それで終わりである」とかいった感じの意味の口語的な表現が多く使われていますが、私は英語は専門ではありませんし、これらを詳しく説明していますと長くなりますので、説明は省略します。詳しくお知りになりたい方は、お手数ですが、辞書やインターネットでお調べいただけましたらと思います。
これら以外でわかりにくいと思われる表現に関しては、少しだけコメントしてあります。
“Ah, is that all?” (A. L. Lloyd 訳)
“Well, so you can’t get any further, can you?” (Eugene Jolas 訳)
“So you’re not coming any nearer?” (本によっては、”Not coming any closer, then?”) (Willa & Edwin Muir 訳)
“So, is that all there is?” (Stanley Corngold 訳)
‘You keep your distance, all right?’ (J. A. Underwood 訳)
‘Aren’t you coming any closer, then?’ (Malcolm Pasley 訳)
“So that’s as far as you’re going?” (Joachim Neugroschel 訳)
“So, you’re not coming any closer?” (Karen Reppin 訳)
“So you’re not coming any closer?” (Donna Freed 訳)
“So you’re not advancing?” (Stanley Appelbaum 訳)
“This goes no further, all right?” (本によっては、‘ … ’) (Ian Johnston 訳)
“Aren’t you coming any closer, then?” (David Wyllie 訳)
‘You keep your distance, understand?’ (Richard Stokes 訳)
(岡上記:この understand? は、do you understand? の省略と考えられます)
“So, this won’t go any further?” (M. A. Roberts 訳)
‘So is that as far as it goes then?’ (Michael Hofmann 訳)
‘Is that it, then?’ (Will Aaltonen 訳)
‘Well, aren’t you going to have another go, then?’ (Joyce Crick 訳)
(岡上記:この go は動詞ではなく名詞であり、ここでは「試してみること」「やってみること」という感じの意味になります)
“Not coming any closer, then?” (Charles Daudert 訳)
‘That’s quite close enough now,’ (John R. Williams 訳)
(岡上記:この訳はちょっとわかりにくいですが、直訳しますと、「今、それは十分にだいぶ近いじゃないか」という感じになりますので、「すぐにもかかってこれるじゃないか」ということを言いたかったと考えられます)
“So, that’s as far as it goes?” (C. Wade Naney 訳)
“Aha, so that’s as far as it goes?” (Susan Bernofsky 訳)
“Shall we call it quits then?” (Christopher Moncrieff 訳)
(岡上記:この quits は形容詞で、call it quits で「(対立などを)やめる」とか「引き分けにする」といった意味になります)
“Can’t go any further, can you?” (Katja Pelzer 訳)
(岡上記:Can't の前に You が省略されています)
“Chickened out, have you?” (Peter Wortsman 訳)
(岡上記:この文は、You haven't chickened out, have you?〔おじけづいたんじゃないんだね〕の省略とも、Have you chickened out?〔おじけづいたのかい〕の変形とも解せますが、後者に解した方が感じが出ますね)
“So, we are not going to crawl any further, are we?” (Mary Fox 訳)
(岡上記:we は口語で you の意味になることがあり、ここではこの意味と考えられます)
“So, this is as far as it goes?” (Philipp Strazny 訳)
“So this is as far as it goes?” (Christopher Drizzen 訳)
“Oh, that’s how it is, then!?” (Miqhael-M. Khesapeake 訳)
“So that’s as far as it goes?” (Robert Boettcher 訳)
“So that's it?” (Mark Harman 訳)
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