見出し画像

私に生きる価値は本当にあるのか

人生の終わりっていつだろうか。これは誰にでもわかる、死ぬ時だ。人間は死を遠ざけようとする。本能的にも生存率を高め、自分の遺伝子を後世に繋ぐための機能がインプットされている。たしかに優秀な遺伝子が残れば子孫も長生きできる可能性が高い。長生きするために人間の体ができているようだ。おそらく人間は長生きすることを求めているのだ。そして日本の平均寿命は80才を超えた。

明けましておめでとうの意味を考えたことがありますか。情緒の無いことを言ってしまって申し訳ないが、12月30日と12月31日の差と、12月31日と1月1日の差にどんな違いがあるのか。テレビでやってる番組くらいの差しかないと思う。地球が太陽の周りを一周したら一年、と人間が勝手に考えた区切りなんだからそりゃそうだ。じゃあいったい何がめでたいのか。これはあくまで私の考えだが、昔は今ほど医療も発達しておらず、食料も豊富に手に入るわけでもなく長生きすることは容易ではなかった。実際、江戸時代の平均寿命は30~40代くらいといわれている。平均なのでもっと早く死ぬ人もそれなりにいただろう。そうなると特に子供も多かった昔では、一年を家族全員で生き延びれることが当たり前ではなかったのではないか。だから明けましておめでとうなのであり、おせちにいろいろな願いを込める。逆に身内がなくなれば年賀状も出さない。

江戸時代は人類600万年の中では、文明がかなり発達したほうだと思う。それでも家族全員が生きていればめでたいと感じていた。それくらい生きることは大変なのだ。おそらく長生きできる人はいわば強い特別な人なのだ。他の時代、例えば縄文時代でもきちんと獲物を狩る能力のある人が生き延びることができる人だったはずだ。これらの時代には生きることそのものに価値があると感じていたはずだ。

私の家庭は裕福ではないが少なくとも明日死ぬかもしれないという心配をしたことはない。だが私自身は特に何か生きるためにやってきたことはない。生きてこれたのは親のおかげだ。そして今内定をくれている企業にこのまま就職すれば、裕福とはいかなくてもそれなりの人生が送れると思う。中小企業でもお給料もそれなりにあり、休みもちゃんとある文句のつけがたいところだ。明日生きられるかわからない人たちが聞いたらきっと羨ましいと思うだろう。でも私はこれでいいのか迷っている。

日本はなんやかんやで未だに終身雇用が根付いている。安定を獲得できている。数百万年かけてようやく安定を獲得したのだ。でも日本人はなぜ日本に不満を持つ人が多いのだろう。もっとも、単に不満を言う人が目立っているだけかもしれないが。たしかに10年後日本が経済成長しているとは考えにくい。だが平均寿命80才で何が不満なのか。何故私は生きる価値を見出せないのか。

パンドラの箱の有名な話がある。箱を開けたらあらゆる災いが解き放たれて急いで蓋をしたけど箱の底には希望だけが残った。要するに生きていればいいことがある。きっとこの希望が生きる価値そのものなのだ。だから日本人は生きることができても将来がよりよいものになるとは考えられない。日本人は生きることと引き換えに生きる価値を失った。

ならば私がやることはただ一つ。リスクのあるものにチャレンジしていくことだ。どんないばらの道であろうともそれが生きる価値になると信じて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?